第125話 叫んで五月雨、金の雨。
「トージ! プロレス部に入ってくれ!」
高校入学して半月後。クラスの中でもグループができ始めていた頃、俺は唐突に、今まで喋ったことのない男子生徒の拓海にそう言われた。
この学校にプロレス部はない。そもそも俺は、空手道場に通っているから、部活に入る予定はなかった。……なのに、無意識で頷いていた。
「マ、マジで!?」
自分から頼み込んできたのに、拓海は飛び上がるほど驚いている。
男に二言はない。たとえ、ノリでやってしまった行為に対しても。俺はもう一度、「ああ」と返した。
「ありがとう! トージ!」
拓海は、両腕を大きく広げて、俺に抱きついた。しかも、かなり強い力で締め付けてくる。
「ちょっ!」と戸惑いの声を挙げながらも、俺は嬉しくて昇天しそうになっていた。なぜなら、彼が初恋の相手だったから。
□
友達の間で、好きな女子の話題になった時。雑誌の女性グラビア写真を囲んで、そのおっぱいの形の素晴らしさに周囲が熱を上げていた時。キャンプファイヤーで、男同士で肩を組み合い歌った時。
そんな違和感を抱いた瞬間を改めて、俺の恋愛対象は男だと気が付いたのは、中学生の時だった。幸いにも、LGBTの話題が世間で増えてきた時代で、ゆっくりとだが、このセクシュアリティを受け入れていった。
ただ、自分で自分を肯定するのと周囲にカミングアウトするかどうかは別の話だ。あの頃は、家族にはもちろん、友人や道場の仲間にも、自分が同性愛者だということは隠していた。
特に怪しまれなかったのは、俺がまだ、リアルで好きになった人がいなかったからだと思う。周りとの接し方は特に変わらず、テレビなどに出てくるイケメンにひっそりと熱を上げていた。
状況が一変したのは、高校に入学した初日。足を踏み入れた新しい教室で、真ん中くらいの列の机で話している数名の一人に、目が吸い寄せられていった。
小柄で、可愛らしい童顔。しかし、制服越しでも分かる、引き締まった筋肉質な体……そのギャップに、くらりときた。その相手が、拓海だった。
幸か不幸か、まだ同じ中学出身者同士で固まる時期なので、俺たちはこれまで接点がなかった。話してみたい、でも、怪しいと思われたらどうしようか。そんな相反する気持ちを抱えて、日々を過ごしてきた。
だが、俺の葛藤を全く知らずに、拓海は俺に対してプロレス部へ誘ってきた。何とかハグから解放されて、互いに幾分か落ち着いてから、俺は拓海に色々と疑問をぶつけてみた。
「プロレス、好きだったんだな」
「ああ、実を言うとな」
「誰かに技かけているのを見たことなかったけど?」
俺が一番最初に思ったことをぶつけてみると、拓海は分かりやすく、むっとした。
「ああ言うのは、プロレス好きじゃない。マットの上以外は危険だし、失礼だ」
「そうなのか」
俺の浅はかさを露呈させてしまったかのようだが、拓海はあまり気にしていない様子だ。そのため、他の質問もぶつけてみた。
「この学校、プロレス部があったんだな」
「いや、俺がこれから作る」
「え、出来んのか?」
「先生に相談したところ、一カ月で五名の部員を集めれば、同好会として発足できるらしい」
「へえ。あと何人?」
「三人」
「え、大丈夫なのか?」
俺はぎょっとして拓海の顔を正面から凝視する。拓海は、痛い所を衝かれたかのように、苦笑していた。
「正直、大分ピンチだ」
「大分ってほどじゃないぞ」
拓海の話によると、来月の半ばが部員募集のリミットらしい。このペースだと、非常に絶望的だ。
だが、拓海はあまり絶望していない。むしろ、自信がありそうな顔をしていた。
「トージが入ってくれたから、風向きは良くなったよ。部員一人の謎部活よりも、ハードルは下がるだろうし」
「そうだな。俺も勧誘、頑張るよ」
差し出された拓海の片手を、俺は握りしめる。拓海の体温に、こっちが茹だってしまいそうになる。希望に満ち溢れた拓海の顔に、鼓動が速くなりそうになる。
プロレス部を発足させて、拓海と共に頑張りたい。……本当にそれでいいのだろうか? そんな、裏腹な気持ちがあることに、俺は気が付き始めていた。
□
俺たちの一生懸命プロレス部に勧誘した。だが、俺以降に入ってくれる人はいなかった。
それも仕方のない事だった。ここは、県内随一のスポーツ校で、新入生でも殆どは入りたい部活が決まっている。その上、格闘技に興味のある奴は、ボクシング部と空手部になびいていた。
勧誘の成果が実らずに一日を終えた時、俺は酷く落胆したが、拓海は前向きだった。「一から部活を立ち上げて、全国大会に行った漫画はいくらでもある」とうそぶいている。
漫画と現実は全く違うのだが、流石に口を挟まない。それに、「プロレス部を作りたい」という気持ちを真っ直ぐに持ち続けている拓海のことが眩しかった。
俺は、かなり邪な気持ちを抱いていた。拓海に教えてもらったプロレスの名勝負の動画を見て、技を掛ける時はあんなふうに密着するなんて……と勝手にドキマギしてしまっている。
だが、実際に拓海とプロレスの練習をして、足四の字固めをやられて変な声を出してしまったとしたら、気持ち悪がられるかもしれない。好きな相手から、白い目を向けられる瞬間を想像すると、底なし穴に落ちてしまったかのように怖い。
そんな悶々とした夜を過ごして、朝には何食わぬ顔で教室に行く。放課後になると、男女や学年関係なく、プロレス部に勧誘し、時々空き教室で作戦会議をする。
作戦会議とはいっても、ダラダラと話するのが殆どだった。
「ボクシングのリング借りて、実践して見せるって話、どうなった?」
「いやー、アイツら、中々承知しなくってさぁ」
「ボクシング部、数も多いし伝統もあるから、頑固なんだな」
「頑固じゃねぇ、意固地だ意固地。俺の、最強で最高な技を見れるチャンスだったのに」
と、大体誰かの悪口になってしまう。
ただ、俺はこの時間が結構好きだった。プロレス部なのに、プロレスらしいことをしていなくても、なんだか楽しかったのだ。こんな状況だったら、この気持ちに拓海が気付くことはない、そんな安心感があったからだと思う。
ある日、好きなプロレスラーについての話になった。まだ生のプロレスを見たことないほどの初心者の俺だが、拓海とはあまり似ていない体つきや顔立ちのプロレスラーを挙げた。一方、拓海が出した名前は、俺でも知っているような超有名人だった。
「意外だな。もっとマイナーなのが好きだと思ってた」
「なんだかんだ言っても、あの人の生きざまに憧れるんだよな」
拓海はそう言って、そのプロレスラーの、雨を受け止めるかのように、大きく両手を広げて、天を仰ぐという決めポーズをして見せた。
「プロレス人気が下火になっている時代に、金の雨を降らせるなんて、豪語したんだぜ? かっこよくね?」
「すげぇビッグマウスだな」
拓海と一緒に笑いながら、そのエピソードに彼が引かれる部分があるのだということにも納得していた。
プロレスに馴染みのない土地や時代に、プロレスに夢中になって、練習できる場所や相手がいなくても、ずっと好きでいられたのは、この逆境を自分も乗り越えられると信じているからだ。空手を続けているのに、特に目標も持てずにいた俺は、そんな拓海の熱い心に惹かれていっていた。
ずっとこのままの関係でいたい。そう思っている自分が恥ずかしくなり、本気でプロレス部を立ち上げようという気持ちに、やっと定まった。
……だが、現実はやはり厳しい。締め切りの日になっても、プロレス部部員は俺と拓海の二人だけだった。
「あーあ、あともうちょっとだったけどな」
夕暮れ、玄関から校門に向かいながら、拓海は後頭部で両手を組みながら、歩いていた。その声は残念そうだが、決して諦めている様子もなく、だが、カラ元気という訳でもなく、意外と明るいものだった。
一方俺は、申し訳なさでいっぱいだった。もっと早く、本気で勧誘をしていたら……なんて、自分一人だけで責任を感じている。
「拓海、これから、どうするんだ?」
「んー、柔道部に行こうと思うよ。俺、格闘技の経験なかったからさ、まず最初に」
「プロレスは諦めていないのか?」
「当然。大学にプロレス部がある場所もあるし、卒業後は、団体もあるし」
こっちを見た拓海は、にかっと笑う。今は、たった一つのチャンスを逃しただけ、彼はそう考えているようで、ほっとした。
だが、校門から一歩外に出た瞬間、拓海は初めて、ちょっとだけだが暗い顔を見せた。
「俺、お前が羨ましかったよ」
「え、何で」
「そのガタイの良さ。俺よりもプロレス向きだからさ」
苦笑する拓海を見て、あ、と思う。今まで、自分の気持ちでいっぱいで、拓海の方の心情を測ろうともしなかった。
拓海のような細マッチョ体型は、プロレスラーではあまり見かけない。技術重視のそういうタイプもいるのだが、拓海が好きプロレスラーは、それとは真逆だ。
「……体が交換できれば良かったな」
「いや、それはそれで気持ち悪い」
「何だよ、お前は」
爆笑しながら、拓海の背中を叩いた。別に、変な気持ちは怒らなかった。拓海も笑いながら、「悪い、悪い」と身をよじっている。
息を整えてから、「じゃあ、また明日」と、俺たちは別々の家路についた。また、教室に行けば、拓海と会える。だけど、今日までのあの日々は、もう過ごせないのだと思うと、切なくてたまらなかった。
□
高校卒業後、俺と拓海は、別々の大学に進学した。そして、拓海は宣言していた通り、大学のプロレス部に入った。
連絡先は交換していたので、試合があるから見に来てくれという誘いを何度も受けた。それに対して俺は、何とか理由を付けて、すべて断っていた。
原因は、俺に恋人ができたことだった。彼は、俺と同い年で、カメラマンを目指す専門学校生だった。
初恋の相手に会うことに対して、恋人に引け目を感じていた。俺は恋人にぞっこんだったし、拓海と彼とは同じ童顔でも、ソース系と醤油系で全く似ていないのだが、やはり躊躇ってしまう。
一度、試合を見に行ってみようかなと思ったのは、俺たちが社会人になってからだった。地元のプロレス団体に入った拓海が、近所のショッピングモールで試合をすると教えてくれた時だった。
恋人とは、その時も関係が続いていた。俺は建築会社に入り、彼は結婚式場の専属カメラマンになっていた。関係が長くなって、お互いを激しく求めあうような熱は落ち着いていたが、性の目覚めや初恋なども打ち明けられる仲になっていた。
拓海の試合を見に行くと話すと、彼は反対しないものの、複雑そうな顔をした。俺のことを信じているが、もしも万が一のことがあったら……と言いたげだ。
だから俺は、今、一番愛しているのはお前だということ、それは何があっても揺るがないということを熱弁した。恋人は、顔を真っ赤にしながらも了承してくれた。
さて、拓海の試合の日はゴールデンウィーク。懸念点と言ったら、駐車場がいっぱいになって、車が停められないということだったが、それ以上の困難が現れた。梅雨入りしたのだ。
しかも、駐車場の一角にリングを置くという。屋根がある場所なのだが、客の集まりが悪いのは目に見えている。拓海は逆境の星に生まれたのかと、苦笑してしまった。
当日は激しい雨だった。梅雨入りしているが、カレンダー上では五月雨だろうななんて、変なことを考えながら、リングへ向かう。ショッピングモールの立体駐車場へ向かう坂道は、車の列ができていたが、外の駐車場の方は空きも所々見かける。
リングの周りには、結構人が集まっていた。しかし、プロレス会場のような熱気はない。大体の人が、なんとなく立ち寄ってみたというような顔をしている。
リングの上で、団体の代表による挨拶とプロレスラーとレフリーの紹介が始まっても、あまり盛り上がらなかった。拍手の音も、周囲の雨音に負けている。
だけど、リングに上がった「ゴーヤーボーイ」というリングネームの男を見た時、俺だけが興奮していた。鮮やかな緑のタイツに、細身ながらも立派に割れた腹筋をしている彼は、高校卒業以降、久しぶりに見た生の拓海の姿だった。たくましさが伴っていても、顔つきはあの頃のままで、自分がタイムスリップしたかのような気分になる。
試合は、拓海ことゴーヤーボーイとテビチワンダホー対ハイビスカスレッドとサンゴブルーのタッグマッチだった。まずは、テビチワンダホーとサンゴブルーによるラリアットの応酬が始まり、徐々に客席のボルテージを上げていく。
ワンダホーが一瞬の隙を衝き、アルゼンチンバックブリーカーを決めた頃には、わあっと歓声が上がった。地面に下ろされたブルーは、ふらふらしながら、ロープの外のハイビスカスレッドとバトンタッチする。
レッドは、自分の体力が相手よりも有り余っていることを生かし、リング上を縦横無尽に走り回る。翻弄されたワンダホーに、すかさずドロップキック。吹っ飛んだワンダホーに、悲鳴交じりの歓声が降る。
「ワンダホー! 交代だ!」と、両膝を固められるワンダホーに、拓海がリング外から手を伸ばす。苦しそうにしながらも、ワンダーは彼の手を叩き、リング外に転がり落ちた。
リングの上に、ひらりと飛び乗った拓海は、すぐにレッドの両肩をがっしりと掴む。一瞬、互いの動きが止まったが、拓海は自分よりも体重のあるレッドの巨体を、垂直に持ち上げた。
本日一番の歓声が沸き上がったが、そのまま技を掛けるよりも先に、レッドが拓海の背中側に足を下ろして、彼を叩きつけた。背中を殴打されたバシンという音に、思わず顔を顰めてしまう。
強技を躱して、不敵に笑うレッドだったが、対面する拓海の闘志は消えていない。顔に飛んできたレッドの足を掴むと、勢いそのままに倒した。レッドに対して、関節技を決めるのかと思ったが、拓海は、コーナーポストに一息で登った。
登ったかと思うと、拓海は、すぐに飛んだ。ムーンサルトプレスだ。俺は、目を大きく見開く。俺も含めて会場の全員が叫んでいた、この五月雨の音も全て掻き消すぐらいに。
拓海の全体重を受け止めたレッドは、荒々しく息をするだけで動けない。レフリーがスリーカウントをして、甲高くゴングが鳴り響いた。万雷の拍手と歓声が、それに重なる。
満面の笑みで、レフリーに片手を持ち上げられる拓海を見て、俺は涙が零れるのを感じた。だけど、次の瞬間、俺は笑ってしまった。
「この会場に、金の雨を降らすぜー!」
拓海は、両手を大きく広げて、天を仰ぎながらそう叫んでいた。言い方は変わっているが、まんまパクリだ。
変わっていないな。情熱も、信念も。俺は拓海と共に過ごした、たったの一月間が、初めて誇らしいものに感じた。
……試合が終わり、ぞろぞろと観客が帰っていく中、俺はスポーツドリンクの入ったビニール袋を抱えて、リングのそばの簡易テントへ向かった。あそこが、プロレスラーたちの楽屋になっているのだが、白い幕に囲まれていて、中は見えない。
たまたま外にいた、サンゴブルーに「お疲れ様です」と話しかける。彼は一切嫌な顔せず、爽やかに挨拶を返した。
ゴーヤーボーイと知り合いで、差し入れを渡したいと言って名乗ると、彼は頷いて、テントの中に入っていった。雨音に交じって、テントの中から人の話し声が聞こえる。
車の中で、拓海とどんな話をすればいいのか、さんざん悩んできた。だけど、あの試合を見た後では、もう言いたいことは一つだけだった。
白い幕がぺらりと捲れて、肩にタオルを掛けた拓海が顔を出す。俺が片手を挙げると、一瞬目を丸くして、相好を崩す。
テントから出てきた拓海が、嬉しそうにこっちに歩いてくるのに対して、手を差し出す。
「お前、最強で最高だったよ」――やっとそう称えられるまで、あと一歩。
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