第122話 夏も


 蝉が鳴いている。いつの間にか、そんな季節になっていた。

 地下鉄から出て、会社に向かうまでの十分以内の道で、私は季節を感じる。ただ、それはまたこの季節が来たのか……と溜息を吐いてしまうようなものだった。


 極端な「暑い」と「寒い」を一年の間に繰り返している気がする。分厚いコートを着なくて済んだと思ったら、すぐにあっという間に半袖を通した腕に汗を搔いている。体感としてはこんなもんだ。

 憎たらしいほど青い空の中で、真っ白な光の塊となった太陽が、容赦ない熱を降らせてくる。ハイヒールを履いた靴が踏むアスファルトからも、熱が立ち上ってきて、私をサンドしているようだ。


 この道の間には、横断歩道が一つある。それを渡れば、すぐに会社だ。今は青信号で、これから急いでも渡り切れないため、わざとゆっくり歩く。

 信号が赤に変わった時、私以外にも数名が立ち止まった。スーツ姿かの会社員が殆どだけど、すぐ隣は幼い女の子を抱っこしたお母さんだった。お母さんがお休みのため、二人でお出かけしているのかもしれない。


 立っているだけでも汗が出る。化粧崩れを気にしながら、首筋の汗をハンカチで拭う。真横の車道では、上り坂を気持ちよさそうに車が走り去っていく。

 ここの赤信号はそれほど長くないのに、周りは待ちくたびれて、イライラしている様子だった。私も顔を顰めて、ハンカチでパタパタと微風を顔に送るしかできない。


 その時、「ねえ、ママ」と、舌足らずな声が聞こえた。横目で見ると、お母さんの二の腕に座るように抱っこされていた女の子が、目を丸くして、信号の向こうを見つめている。

 「どうしたの?」と微笑んだお母さんが、蜂蜜のように甘い声で尋ねる。女の子は、車道の坂の上を指差した。


「あれ、なあに」


 ほんのりピンク色の指先では、灼熱のアスファルトの上、銀色の水のようなものが、風もないのに揺れている。それは、走り去っていく車のお尻も、はっきりと反射させていた。


「あれはね、陽炎って言うの」

「かげろお」


 お母さんに教えてもらったばかりの言葉を、女の子が繰り返す。飴玉を転がすかのように、「かげろお、かげろお」と繰り返した後、ふふっと鈴のように笑った。


「きれいだね」


 たったその一言に、はっと息を呑んだ。信号が青に変わり、隣の親子が歩き始めていたのに、一泊遅れてしまうほど、驚いてしまった。

 ……陽炎を見ても、綺麗だとは思えなくなっていた。ああ、今日もまた暑くなるなぁ。そんな風にしか感じ取れない。


 夏も好き。そんな純粋な瞳で言い切れたのは、いつの頃までだったのか。

 世界の美しさをそのまま受け止められない。自分がどうしようもないほど遠くに来てしまったようで、その重苦しさを引き摺るように歩くしかなかった。





























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