第120話 さよならを忘れて
ロッカーの鏡で、丁寧に化粧を直した先輩ウエディングプランナーの
私と共に「お疲れ様でーす」と返した受付の
「祝嶺さん、男の人と会うみたいよ」
「え、そうなんですか!?」
そんな話は一言も聴いていなかったので、驚いて多良間さんを見ると、彼女はいけないことだけど好奇心が抑えきれないと言った表情で、ひそひそ声で続ける。
「だって、あんなに化粧に気合入れていたでしょ? 服装だって、すごく肌を出しているし」
「家族や友達じゃないんですか?」
「そんなわけないでしょー」
可愛い子供を見るように笑いながら、多良間さんはそう返したけれど、私はあまり納得できていなかった。男性に会う時だけ、あんなにおしゃれするとは限らない。
ちょっと根拠が薄いんじゃないかと思っている私に、多良間さんはとっておきの情報を話すかのように、さらに小声で囁いた。
「それにね、前に祝嶺さんが休憩中、マッチングアプリをやっているのを見ちゃったのよ」
「ええっ!」
私は他人のスマホを覗いたこと、それを別の人に話したことに驚いたのだが、多良間さんはこの反応に満足げに頷いてから、今度は眉間に皺を寄せた。
「祝嶺さんって、別れてまだ一カ月も経っていないでしょ? もう新しい人を探すなんて、薄情よね」
この式場の専属カメラマンだった
ただ、それだけで祝嶺さんのことを薄情だとは言い切れずに、私は曖昧に笑って誤魔化した。幸い、多良間さんはそれを気にせず、一人続ける。
「もしかしたら、その前から仲は冷えていたのかもしれないけれどね。和宇慶君が上京するのなら、ついていくか、遠距離でも続けるのが普通なんだから」
「はあ」
「アジちゃんも災難だったわね」
「え? 私が、ですか?」
急に話の矛先を向けられて、首を捻った。確かに、祝嶺さんと和宇慶さんが付き合っていたことはよく知っていたし、そんな二人が別れたことには驚いたけれど、自分の「災難」とは思えない。
ピンとこない私に対して、多良間さんは憐れむような瞳を向けていた。
「社長、あの二人が結婚するもんだと思っていたから、祝嶺さんの後釜としてあなたを雇ったのよ。だけど、あんなことがあって、祝嶺さんもしばらく働くことになったでしょ? あなたもまだサブプランナーのままよ」
「いやー、私はまだ三年目なんで、もっと祝嶺さんのところで勉強したいですねぇ」
謙遜に見せかけた本音を口にする。それにしても、祝嶺さんが寿退社希望だったなんて。本人が言っている所を聞いたことなかったので、意外だった。
多良間さんは「謙虚ねぇ」と感心してから、鞄の紐を反対の肩にかけ直してから、「そうそう」とまだ続ける。
「祝嶺さんって、
「さあ……可愛い後輩なのかもしれませんが」
謝花君は、今年和宇慶さんの代わりに入った新卒のカメラマンだ。まだあどけなさの残る顔立ちと、仕事に慣れていない立ち振る舞いで、ここのスタッフ皆から愛されていた。
だけど、祝嶺さんが謝花君が恋愛対象なのかは分からない。彼女の謝花君に対する態度は、私のそれと変わらない気がする。
「そうよね、どうとも思っていないから、マッチングアプリを使っているわけでしょ?」
「それなんですけど……祝嶺さん、あんなにあっさり切り替えられるものなんでしょうか? あの時、とても泣いていましたよ?」
脳裏に蘇るのは、和宇慶さんの送別会の後だった。私と多良間さんと祝嶺さんだけで、バーで二次会を開いていた。
その時、祝嶺さんは和宇慶さんへの心残りを吐露して、わんわん泣いていたのだ。それを見て、多良間さんも涙目になりながら、背中をさすってあげていたのではないだろうか?
だが、私の言葉に対して、多良間さんは聞き分けの利かない子供を見るような、諦めきった顔をした。そして、私を言い聞かせるように優しい声色で告げる。
「アジちゃん。女でも、女の嘘の涙を見抜けるようにならないと。損しちゃうわよ」
「……そうですね」
私は、それでもあの時の祝嶺さんの涙を信じたい。
そう思ったけれど、心の内に隠して、苦笑を浮かべた。
□
「アジちゃん、お昼、一緒に行かない?」
相談に来たお客さんが帰ったのは、十二時を過ぎた頃だった。大きく伸びをした祝嶺さんにそう尋ねられて、私は「いいですよ!」とすぐに答える。
「どこに行きますか?」
「久しぶりに、阿嘉食堂にしようか?」
「あ、はい、わかりました」
祝嶺さんが挙げたのは、職場の近くにある食堂だった。観光客はあまり来ないけれど、リーズナブルな値段で地元民に人気のある場所だ。
でも、祝嶺さんはお昼によくカフェに行くので、この提案は意外で面食らった。多分、祝嶺さんが阿嘉食堂の名前を言ったのは、初めてだったかもしれない。
店内は混んでいたけれど、運よく一組のお客さんが帰ったところだったので、私達は二人掛けのテーブルに座れた。がやがやと活気のある店内で、私達は料理名だけの並んだメニューを開く。
私は天ぷら定食、祝嶺さんはソーキそばを選んだ。メニューを聞いた店員さんが去った後、祝嶺さんは天井の角に置かれたテレビを眺めている。
放送中のワイドショーでは、とある妻子のいる俳優さんの不倫が報道されていた。確か、不倫発覚は三日前だったはずなのに、今日も新情報が出てきている。
「アジちゃん、あの不倫のニュース、どう思う?」
「え? あのニュースですか?」
祝嶺さんから、そう尋ねられて、私はまた驚いた。彼女からニュースの話題を振られるのは初めてだったので、思わず鸚鵡返しにしてしまう。
「……そうですね、驚きましたか、不倫は当人同士の問題ですから、特に言いたいことはありませんね。ああ、でも、こんなに放送しちゃうと、奥さんと子供が可哀想ですね」
「そう、そう思うのね」
私の意見未満の言葉を聞いて、祝嶺さんはどこか満足そうに頷く。何か、このニュースに言いたいことがあるのかと思ったけれど、彼女は特に返してこなかったので、余計に締まりが悪かった。
そこへ、私達が注文した料理が運ばれてきた。天ぷら定食の中に、私の大好きなもずく天ぷらが入っているのを見て、目を細めてしまう。
「ほんと、もずく天ぷらが好きよね」
「これよりもおいしいものは中々ありませんよ」
私達はいただきますと手を合わせて、それぞれ食事を開始する。
私はすぐに、もずく天ぷらに箸を伸ばした。一口嚙んでみる。もちっとした衣の中に、たっぷりのもずくが詰まっていて、とてもおいしい。
やっぱり、阿嘉食堂のもずく天ぷらは絶品だなぁと私が思っている一方で、祝嶺さんは一心不乱にそばをずるずると啜っていた。そして、テーブルの上にあった島トウガラシが浮かぶ液体のコーレーグースを手に取ると、その蓋を開ける。
「……別れようって言ったのは、彼の方だったの」
コーレーグースを振りながら呟いた祝嶺さんの言葉は、ソーキそばの器に落ちていくその雫のように小さかったので、危うく聞き逃しそうになった。
ややあって、彼女が口にしたのは、和宇慶さんのことだと気が付く。
「写真の仕事に集中したいからって。本当は、すごくすごく嫌だったけれど……彼が見たことないくらい真剣な目をしていたから、しょうがないって諦めたの。……私が、自分のキャリアを捨てて、彼についていくことも考えたけれど……そこまでの勇気はなかった」
ぽそぽそと小さな声で祝嶺さんが続ける。周りのお客さんの喧騒に紛れてしまいそうなので、聞くのに集中して、すぐに返答できなかった。
そばの汁にコーレーグースをじっくりかき混ぜていた祝嶺さんは、箸をおいて、自分の携帯を取り出した。彼女は、スマホの画面を私の方に向ける。
それは、あるSNSの一ページだった。「最高の一日でした!」という言葉があり、その下の写真には、苦笑する和宇慶さんと、彼の右腕に絡みつく若い女性の姿があった。
信じられない気持ちで、祝嶺さんを見る。彼女は、悲しんでいるとも怒っているとも取れる顔で、スマホをしまった。
「……今のが、数週間前の彼の写真。東京で、景色撮影の仕事をしているみたいで、この子とはその縁で知り合ったみたい」
「ええと、多良間さんはこれを知っているのですか?」
「多分知らない。彼のことをフォローしている女の子のだから」
祝嶺さんは、そばの束を箸でつまみ、つるつると啜った。平穏を装っていることは、明らかで、私も戸惑ってしまう。
「色々考えたよ。『写真に集中したい』というのは、本当は私と別れるための口実だったんじゃないかとか、私よりもあの子の方が魅力的だったんじゃないか、とか」
「……」
「当然、本人に聞けるわけなくて、ずっとモヤモヤしていて。もう、こうなったら、私だっていい人見つけてやる! って、必死になっているけどね、そういう態度は良くないのか、敬遠されてる感じで」
自嘲の笑みを浮かべれる祝嶺さんに、「そんな」と首を振る。いつも堂々としている彼女が、こんなに弱っている姿に困惑が強かった。
「まあ、しょうがない所もあるけどね。私、年齢も年齢だし。この前、謝花君と一緒にいる所に社長が来てね、『二人とも、お似合いだね。付き合ったらどうだ?』と言われた時、謝花君、ほんのちょっとだけだけど、嫌そうな顔をしてたから」
「気のせいですよ……。それより、社長の発言はパワハラなのでは?」
「ただの冗談でしょ」
私が顔を顰めていると、祝嶺さんは快活に笑った。あんまり笑い飛ばせる発言ではないと思うけれど、本人が気にしていないのなら、しょうがない。
だけど、なんで和宇慶さんの話を、私にしてくれたのだろう? 多良間さんだったら、一緒に怒ってくれるのに。私がそう思っていると、祝嶺さんは「ねえ、アジちゃん」と話しかけてきた。
「彼のあの写真、どう思う?」
「うーん。あの写真だけだと、付き合っているかどうかわからないですね……。女性の方のSNSだけにアップされていますし、彼女の一方的な気持ちの可能性も……」
そこまで話して、はっとした。祝嶺さんが欲しいのは共感であって、第三者からの分析ではないはずだ。
「す、すみません。出過ぎた真似を……」
「いいよいいよ。アジちゃんの言葉みたいのが、嬉しい時もあるから」
「でも、私、本当に恋愛相談に疎くて……。ズレたことを言っては、本気の恋を知らないからとか、子供だとか、冷徹だとか、心が無いんだとか言われちゃって……」
「
祝嶺さんが、私を注意する時のようにあだ名呼びではなくなったので、背筋が勝手に伸びた。何を言われるんだろうとドキドキしていると、彼女は安心させるかのように、相好を崩す。
「あなたは人を決めつけないのが、とてもいい所だと思うわ。だから、貴方も人の決めつけに振り回されないで」
あ、という声が出そうになった。心の澱を掬ってもらえるような、ずっと待ち望んでいた言葉だった。
「ありがとうございます」と頭を下げる。お礼を言っても、感謝の気持ちが止めどなかった。
……食事を終えてから、祝嶺さんが「愚痴に付き合ってもらったから、今日は奢るよ」と言ってくれた。そうしたいのはこっちの方だったけれど、有り難くご相伴に預かる。
食堂の外へ出ると、目の前の建物の合間から、海が見えた。こんな薄曇りの日でも、海面はキラキラと輝いている。
「見て、白鷺」
前を歩く祝嶺さんが、頭上をゆったりと飛ぶ大きな白い鳥を指差した。
その背中を眺めながら、幸せになってほしいなぁと勝手ながら思う。こんなにいい人なんだから、彼女なりの幸せがどこかにあるはずだ。そんなことを、ひっそりと考えていた。
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