第119話 銀幕から
『別れのにおい』という映画を知っているか尋ねると、僕と同世代の人たちは「何それ?」と首を傾げ、七十代以上の人たちは「懐かしい」と目を細める。
その反応も仕方ない。それは、六十九年前に公開された白黒の邦画だから。
僕が初めて『別れのにおい』を見たのは、小学生の頃。祖父がテレビ放送で見ていたのを一緒に鑑賞した。
映画は、画家を目指して上京した青年が、コンクールの落選という挫折によって夢を諦め、故郷に帰るまでの日々を描いたストーリーだった。スロウなテンポと派手さのない展開が退屈だった。
その内、主人公が下宿先の仲間たちに誘われて、とある料亭でお座敷遊びをするという場面になった。その際、主人公にお酌をした舞妓さんに、僕は一目惚れした。
彼女は身長が高く、涼やかな吊り目をしていて、シャープな輪郭をしていた。爪の先まで色気のある手で徳利を傾ける様子や、音楽に合わせて優雅に舞う姿を見ているだけで、ドキドキと胸が高鳴った。
その舞妓さんは、主人公に惚れてしまった。そして、こっそり彼に明日の明朝にある柿の木の下で会いたいと伝えるのだが、主人公には故郷にいる幼馴染を選び、彼女には断りの手紙を友人を通して渡す。
主人公の手紙を受け取った時点で、彼女は恋に破れたのだと気が付いた。手紙を持ったまま、静かに涙を流す彼女を見て、僕は主人公への怒りを抱きつつ、その顔が綺麗で目を離せなかった。
時が経ち、成長して、映画の内容をほぼ忘れてしまっても、僕はその女優さんのことを覚えていた。どれくらいかと言うと、周りの女子たちと彼女を比べて、あれほどの女性はいないのだと思うほどだった。
高校生になってから偶然、『別れのにおい』のDVDが販売されているのを見つけた。値段も手ごろだったので購入し、何度もそれを鑑賞した。
そして、僕は舞妓さんを演じた女優さんの名前が「
色んな媒体が、「莇雪重」が『別れのにおい』の撮影後にどうなったのを調べていたが、誰も足跡を掴むことが出来なかった。そのミステリアスさに僕はますます心惹かれた。
僕は今、十九歳の大学生。『別れのにおい』に出た時の「莇雪重」と同じ年だ。
周囲の十九歳の女子のことが、幼稚っぽく見えてしまうのも変わらず、僕は未だに、「莇雪重」の幻に囚われていた。
ある日、僕は一人で銀座へ出かけた。ちょっとした買い物を終えて、目に留まった小さなカフェへ足を踏み入れる。白黒映画に出てきそうなレトロな雰囲気だと思いながら周りを見ていると、あるテーブル席が目に入った。
そこに座っていたのは、スーツにハットを被った男性と着物姿の女性という組み合わせだった。年齢は僕と同じくらいだが、どこか昭和初期からタイムスリップしてきたようなファッションに見えた。
僕に背中を向けている女性が、ちょっと後ろを振り返った時、僕は我が目を疑った。彼女は、どこからどう見ても、「莇雪重」だったのだ。
そんなわけないと、頭の中で否定する。彼女が生きていたら、八十八歳のはずだから、十九歳の彼女がここにいるわけがない。……でも、銀幕からそのまま出てきたかのような、変わらない姿をしている。
店内はほぼ埋まっていたが、僕は彼女たちが座っている斜めに位置するボックス席に座れた。そして、「莇雪重」そっくりの女性の顔がよく見える位置に座る。
改めて見ても、ありえないほど似ている。見間違いではない。もしかしたら、「莇雪重」の孫娘かもしれない。
彼女は、同席している男性と親しげに話していた。内容は分からないが、時折可笑しそうに、口元を隠して笑っている。男性は、彼女の恋人か夫なのだろう。
テーブルを見ると、綺麗に片付いていて、二つのコーヒーカップだけだった。すると、男性だけが席を立ち、トイレの方へ行った。
一世一代のチャンスだ。そう感じた僕は、無意識に立ち上がり、彼女の目の前に向かった。
「あの」
僕が声を掛けると、彼女は窓の外からこちらを見上げた。吊り上がった目が、何事かと瞬きする。
「莇雪重」がいる。僕はどうしてもそう思ってしまった。銀幕という邪魔なものはそこに無く、僕と彼女は、同じ空間に存在していた。何度夢見たか分からない瞬間だった。
「なんでしょか?」
「……莇雪重、という名前を、知っていますか?」
声も映画とそのまんまだ! という興奮を何とか抑えて、僕はそう尋ねた。
流石に、「莇雪重さんですか?」とは聞けない。でも、この名前を出したら、もしかすると彼女が、「祖母の名前です」と言ってくれるのかもしれない、そう考えた。
しかし、彼女は困ったように眉尻を下げて、一方で口元は、何とか笑みの形を取り繕って言った。
「すみません。存じあげません」
「……あ、そうですか」
そう返答されたら、こちらも頷くしかない。ふと、目線を上げると、彼女と同席していた男性が、トイレから戻り、彼女の後ろに来ていた。
彼は明らかに怒っていた。眉間に皺を寄せて、口を開く。
「何か御用でも?」
「い、いえ、何でもありません。失礼しました」
僕は情けないくらいにぺこぺこ頭を下げて、自分の席に退散した。
ちらっと見ると、二人は帰り支度を整えて、レジへ向かう所だった。こちらの方を、見向きもしない。
僕は、自分の恋が破れたのを感じ取っていた。『別れのにおい』の舞妓さんも、こんな気持ちだったのかもしれない。
むしろ、あの人に会わなければ良かったなぁとすら思っていた。銀幕の女優は、銀幕の中だからこそ、光り輝くのだろう。
□
久しぶりに銀座へ行くにあたって、私は夫と二人、十九歳の頃の姿に化けようと提案した。それは、私がある映画関係者にスカウトされた場所と姿だったが、夫は案外あっさりと許可してくれた。
私達は、妖孤だ。本当はとても長く生きて、お婆さんとお爺さんの狐なのだけど、化けてしまえば何歳の人間にもなれる。体が軽いのが楽しくて、実年齢よりも若くなるのが私は好きだった。
銀座は、五十九年前と随分違っていた。見ていて、懐かしいと思えるものは殆ど無い。
街行く人たちの服装と比べると、当時好きで着ていた服も、浮いているように感じてしまう。少々恥ずかしい。
私達は、ふと目についた喫茶店に入った。とても古めかしい雰囲気をしているけれど、開店したのは結構最近だと店員さんから聞いた。
私達が過ごした時間は、こうして再現されるものになってしまったのか。その寂しさを感じながら珈琲を飲んでいると、夫が話しかけてきた。
「君はあの頃、なぜ映画に出たのかい?」
そう言えば、十九歳の私はまだ夫と出会う前だった。溢れる若さと好奇心に物を言わせて、周りの家族が止めるのも聞かずに街へ飛び出していった。
危険な事もあったけれど、日々の冒険は際限なくて楽しく、素晴らしいものだった。そんな時に、私はスカウトされた。
「ただの興味だったの。人間たちが夢中になっている映画って、どんな風に作られているのかを知りたくて。それなら、出てしまうのが一番手っ取り早いでしょ?」
「君らしいね」
「でも、映画が公開されてからが大変だったのよ。街を歩いていたら、指を差されて、数分おきに男性に声を掛けられたわ」
「同じ頃の僕だったら、異性に話しかけられるのは嬉しいけどね」
「私は辟易しちゃったわ。だから、また映画に出てくれって話が来ていたけれど、行方をくらませた。もう、この姿に化けないようにしてしまえば、簡単だったわね」
「そういう経緯があったんだ」
夫はしみじみと頷いていたが、ズボンのポケットから携帯電話を取り出した。私と違って、彼はこういう最新機器を抵抗なく使いこなせる。
ポチポチと何か押した後、夫はああと可笑しそうに笑った。
「『莇雪重』で調べてみたら、『突如消えた大女優! その行方は?』とか、『幻の女優の真実に迫る!』という言葉が出てくるね。でも、そういう彼らも、君の正体や居場所は突き止められなかったみたいようだ」
「当然よ。私の化け術は、そう簡単には見破られないわ」
おどけるように胸を張る。だけど、それに対して、虚しさを抱いていた。
私は、もう過去の人だ。どうりで、街を歩いていても、何も言われないはずだ。たくさん話しかけられるのは大変だったのに、姿を消すという選択をした自分が恨めしい。
その後は、夫にそんな気持ちを悟られないように、とりとめのない話をした。笑い合いながら会話を楽しんでいると、結構長居をしてしまっていた。
店を出る前にと、夫がお手洗いに立った。私がその間、ぼんやりと窓の外の往来を眺めてみると、「あの」と声を掛けられた。
訝しげに見上げると、二十歳前後の青年が立っていた。目の下のそばかすが、年齢よりも幼く見せる。
「なんでしょか?」と訊くと、彼は頬を赤らめながら、すっと息を吸い込んだ。
「……莇雪重、という名前を、知っていますか?」
彼の言葉の直後に、時が止まったかのように思った。それは私の名前です! と、喫茶店が震えるほどに叫びたかった。
でも、そんなことなどできない。私は狐で、彼は人間なのだから。
「すみません。存じあげません」
「……あ、そうですか」
はっきり否定すると、彼はあっさりと引き下がった。しかしその顔に、衝撃と悲しみが滲み出ていて、胸が痛む。
その直後に戻ってきた夫に睨まれて、彼はすごすごと自分の席に帰っていった。
喫茶店を出てから、満足している自分に気が付いた。
私は過去の人だ。だけど、あの銀幕の中で、永遠に生き続ける。そして、私を知った未来の誰かが、覚えていてくれるのが嬉しい。
「私の演技力も、まだまだ健在みたいなの。また映画に出ようかしら」
「勘弁してくれ。君が男に声を掛けられるのを見て、正気を保てる自信がない」
戯れを口にすると、夫は苦虫を潰したような顔をする。女好きだった彼の心を、今も射止めていることが嬉しくて、私は彼の腕に絡みつく。
夫婦で、六十九年という時間を隔てて、銀座を歩く。今は信じられないかもしれないけれど、私はこうするのが幸せなのよと、十九の私に教えてあげたかった。
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