第115話 綱渡り上手


「……浮気しているみたいなんですよ」


 そう口にした途端、ファンデーションを塗っているパフの下で、若手俳優のIさんの頬がぴくっと動いた。目視出来ないほどの小さな変化でも、私の右手ははっきり感じ取っている。

 声には出さないけれど、彼の口が「え」の形で止まっている。乾いた目を潤そうとしているのか、瞬きの回数が急激に増えた。


「あ、彼氏の話なんですけどね」

「ああ、うん」


 笑いを含みながら付け加えると、Iさんは放心したように頷いた。ほっとした様子……とは言い切れない。

 私は、ファンデーションをパフに塗り直しながら、鏡の中のIさんから目を離さずにいる。すっと表情を全て落としてしまったかのような真顔で、Iさんは鏡越しに私を見つめていた。


「とはいっても、根拠は殆ど無くて、まあ、直感なんですけどねー」

「ただそれだけで浮気を疑われるから、世の中から冤罪が無くならないんだね」

「あはは、そうですね」


 Iさんは苦笑している。あまり動揺しているようにも見えない、自然な笑い方だ。

 最初の反応は、話題が突然だったため、単純に驚いてしまったのかもしれない。これはハズレかな? と思いつつ、もっと確かな手応えが欲しいため、さらに探ってみる。


「浮気する人って、どう思います?」

「なんか、彼氏が浮気している前提で話してるね」

「まあ、彼氏の疑惑は置いといて、Iさんの意見を聞いてみたいんですよ。Iさん、とてもモテてますしー」

「えー、そうかなー」


 ニコニコしながらよいしょすると、Iさんは存外調子に乗って、照れ笑いをしていた。そんな彼にファンデーションを塗りながら、それは素直な反応だと手で感じ取る。

 ただ、実際に若手俳優の中でも、Iさんの評判はいい。私が、Iさんのメイクの担当をする時には、他のメイク仲間から非常に羨ましがれる。彼の人気の理由は、見た目の良さ以外に、裏方に対しての腰の低さもあると思う。


「それで、浮気についてですけど」

「ああ、浮気ね。いや、普通に考えて、駄目でしょ」

「そうですけどね、それでも、なんでしちゃうのかなーって、思いません?」

「あー、まー、そうだよねー。不思議だよねぇ」


 Iさんは、私の言葉に、心から同意して頷いている。ここでボロを出すかと思ったけれど、中々手強い。

 私は、アプローチ方法を変えてみることにした。チークを手にしながら、チラリとIさんを窺う。


「Iさんは、浮気した人の話とか、聞いたことあります?」

「んー、まあ、あるかな」

「なんで浮気しちゃったのか、言ってましたか?」

「あーーー、まーーー、そうだねぇーー」


 急に、Iさんの歯切れが悪くなった。目線は斜め上を向いている。

 チークを塗る刷毛からは、何か可笑しな反応は感じ取れない。これは、考え込んでいるのか、思い出そうとしているのか、どちらだろうか。


「……その人はさ、あまり浮気だと思っていなかったみたいなんだよね」

「え! そうなんですか!」

「女の子と食事しただけだって。それが、浮気に疑われてしまったらしいよ。きつい話だよねー」

「そうですねー。どこからが浮気かって、人によって違いますからねー」


 話が、浮気のラインについてになってきているが、ここはIさんに合わせて頷く。ただ、Iさんにとって「女の子と食事は浮気ではない」という言質を取ることが出来た。

 アイラインを用意しながら、さらにIさんに踏み込む。


「でも、それって疑われた話ですよね? 本当に、その人は浮気をしていなかったのですか?」

「あー、言われてみれば、そうだね。ちょっと勘違いしてたかも、ごめん」

「いいんですよぉ」


 苦笑するIさんに、軽い調子で返答する。Iさんの目は一瞬だけ下を見た。流石に、咄嗟の動揺は隠せないようだ。

 「目を閉じてください」と言った通りにしてくれたIさんに、ラインを引きながら、私はさりげなさを装って尋ねる。


「Iさんは浮気しないから、周りの人もしないんでしょうね?」

「うん。当然だよ」


 目は口程に物を言うとことわざは当たっているとは思うけれど、演技に精通した人は、目でも嘘がつけるようになる。でも、流石に、閉じたままの目までは演技できない。

 即答したIさんだったが、瞼の下で、目玉がぐりんと泳いだのを、私は見逃さなかった。


 ここまでくれば、もう十分だ。私は、局の近くに新しくできたカレー屋さんの話をし始めた。






   ▢






「それで、どうだったの? 彼の反応は?」


 メイク室の椅子に座るや否や、女性モデルのOさんは、すぐにそのことを訊いてきた。

 気が早いなと思いながら、メイク道具の準備をする。でも、彼女の気持ちもよく分かるので、ひとまず報告する。


「私の直観なんですけどね」

「うん」

「Iさんは浮気していますよ」

「ああー、やっぱりそっかー」


 Oさんは、メイク室のテーブルにどーんと倒れ込んだ。かなり確信を持っていたとはいえ、やっぱりショックは大きかったようだ。


「あくまで、直観ですからね?」

「うん……でも、根拠はあるよね?」

「そうですね……。わずかにですが、浮気の話に動揺していました。特に、『Iさんは浮気しない』という私の一言に、目が泳いでいましたね」

「そ、そんなことまで訊いたんだ……」


 顔を上げたOさんは、こちらを振り返り、ドン引きした表情で言った。

 私はそういう反応は慣れっこだったので、爽やかに笑って返す。


「Iさんは手強かったですよー。噓に手慣れていますからねぇ。あ、演技力があるって意味ですよ」

「うん。なんとなく分かるから大丈夫」


 数日前、Oさんから突然、実はIさんと付き合っていて、しかも浮気しているのかもしれないので、探ってみてほしいと言われた時は驚いた。しかも、私が男性・女性関係なくメイクしていて、社交的だから、相手の本当の反応を引き出せるという業界の密かな噂を知った上でのお願いだった。

 実のところ、こういう相手の腹を探るってことは初めてではないし、私も結構そのスリルに魅了されている部分がある。Iさんに対する「手強い」も、格闘家が実力のある相手と戦った時の嬉しさを含んだような一言だった。


「でも、まさか、尻尾を掴むどころか、首を取ってくれるなんてねぇ。あなた、もっと真剣に勉強したら、占い師とかになれるんじゃない?」

「いやー、私はこれくらいがあっていますよー。お金を貰ったら、責任が生まれるじゃないですかー」

「それもそうかもね。あなたの一意見ってことで」


 納得して頷いているOさんの頬に、化粧水を滲み込ませる。こういう綱渡りは、趣味の範囲で十分なのだ。

 さて、OさんとIさんに関する私の役割は終わったわけだが、まだちょっと気になるので、報酬代わりに訊いてみる。


「Iさんとは、これからどうするのですか?」

「あー、どうしよっかなぁ。熱愛報道とか、されていないのは幸いだったなぁ。ごたごたする前に、別れようか……。でも、ちょっと、浮気されたままって言うのはイヤだねー」

「でも、証拠もなしに詰めてみても、躱されるのがオチですよ。Iさん、女の子と食事するくらいは、浮気だと思ってないみたいですし」

「えー、そうなのー。じゃあ、泣き寝入り?」

「ただ、『本当に、食事だけ?』って詰めたら、慌てるかもしれません」

「なるほどー。アフターサービスもばっちりだね」

「いえ、ただのお節介ですよぉ」


 感心しきりのOさんに、ファンデーションを塗りながら微笑む。

 さて、これでOさんは完全に私を信用してくれた。ここからが、今日の本番だ。


「……話変わるんですけど、同僚に、フリーになりたい子がいて」

「あっ、そうなの?」


 私の会話のきっかけに、Oさんの頬が引き攣った。

 Oさんのマネージャーから、彼女が事務所独立を検討しているかどうかを確かめてほしいという頼みは、すぐに解決出来そうだ。


 我ながら、性格が悪いなと顔の下で笑ってしまう。先日依頼された相手に、鎌をかけるなんて。

 でも、この次から次への綱渡りが楽しくて、やめられないんだよねと、言い訳のように内心で呟いた。






























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