第116話 卵売り場前、その斜め後ろ
スーパーで買い物中、卵売り場の前を通りかかった時だった。
「あら、卵がセール中じゃないの」
耳元で、妖艶な声がして、思わず立ち止まった。横を見ると、白山さんが怪しげな笑顔でこちらを試すように眺めている。
「駄目ですよ。この前買った卵が、まだ余っていますから」
至極真っ当な意見を言って、私はそのまま進もうとしたら、「まあまあ」と言いながら、白山さんが視界を塞いできた。
「全部私が食べてあげるから、構わないでしょう?」
「駄目ですって。卵の食べ過ぎは体に悪いですから」
「私の健康を気遣ってくれるなんて、百年早いわよ」
ぷんぷん怒りながら、白山さんが言い返す。
確かに、白山さんなら、卵をいくら食べても平気だろうけれど、母から「白山さんは東京に来たばかりで、色々疲れているだろうから、優しくしてあげてね」と言われているから、私が白山さんを支えないといけない。
でも、この場合って、白山さんのわがままを受け入れてあげることが優しさなんだろうか? そんなことを考え出していたので、白山さんが卵のパックに顔を近付けていることに気が付かなかった。
「ほら、この六個入りのだったら、別にいいでしょう?」
「あ、ちょっと、白山さん、」
白山さんは、六個入りの卵のパックを持ち上げる。そんな持ち方じゃあ、危ないですよと言い切る前に、そのパックが落下した。
床に叩き付けられて、卵が粉々になる……その瞬間を想像してしまっても、体が動けなかった。しかし、その直前に、誰かの手がすっと入ってきて、卵を受け止めた。
「大丈夫ですか?」
「あ、ありがとうございます」
卵をキャッチしてくれたのは、東京でも滅多に見られないようなイケメンの男性だった。こんな激安スーパーが似合わないくらいにスラッと背が高くて、猫のような癖毛が柔らかそうで、笑うと白い歯がキラッと光る。
まるで、一流モデルのような彼に思わずポーとしてしまうけれど、すぐに、あれ? と気が付く。私と白山さんの近くには誰もいなかったはずなのに、この人はどこにいたんだろう?
「気を付けてくださいね?」
「あ、はい。すみません」
だけど、彼から卵を手渡しされると、そんなことどうでもよくなる。にっこりと爽やかに笑ったその男性が背を向けて立ち去るのを、うっとりと眺めていた。
彼の姿が見えなくなった後、白山さんの顔がすっと視界に入ってきた。
「随分ご熱心ね」
「いや、そりゃあ、あんなにイケメンですから」
「彼、妖怪よ」
「へ?」
信じられないことを口にした白山さんに目を丸くする。どこからどう見ても人間だったけれど、白山さんが言うのなら、間違いがないだろう。
白山さんは、彼が姿を消した棚の方を眺めながら、鼻をスンスンと動かしていた。
「なんの妖怪なのかまでは分からなかったけれどね」
「悪い妖怪ではない様子でしたが……」
「まあ、それは当たっているわね。ところで……」
妖怪にも色々なタイプがいるので、人を襲うかどうかを確かめると、白山さんは興味なさそうに答えて、目線を卵に向けた。
「この卵、どうするの?」
「しょうがないので、買いますよ」
卵のパックを買い物カゴに入れると、白山さんは上機嫌で鼻歌を歌いだす。結局、今日も白山さんのペースに巻き込まれてしまったなぁと、私は心の内で溜息をつく。
家にも大量にある卵はどうしよう。親子丼にしようかな。そんなことを考えながら、三つ葉を買うために野菜売り場へ向かった。
○
真っ白い蛇をまるでマフラーのように、首元に巻き付けている女の子がいる。春めいてきて、冬眠中の動物たちも起きてきたところだけど、冷たくはないのかな。
そんなことを考えて、的外れだと気付く。ここは東京のスーパーマーケットで、彼女が立っているのは卵売り場の前だった。
僕は、彼女たちの背中を見る形で、その様子を眺めていた。白い蛇は、何かを訴えるように、彼女を見ている。彼女はそれに対して、ぼそぼそと何か返している。
あの白い蛇は、山の神のようだ。いや、正確にはその分霊なのか、神性はここまで近付かないと感じ取れないほど微弱だ。しかし、まやかしが使えるようで、周りの人が首元に蛇を巻いた女性がいることや彼女がしきりに独り言をしていることに違和感を感じていない様子だ。
では、あの女の子は何者なのだろうか? 蛇に取り憑かれているというのには、相手と親しげで、神社の巫女というには、彼女からは特別な霊感は漂ってこない。
そうなると、巫女の娘なのかもしれない。見たところ、大学生ぐらいなので、上京する際に、蛇が分霊を付けてくれたのかもしれない。
自分の説に自分で納得して、うんうんと頷いていると、蛇が細い鎌首をもたげて、六個入りの卵のパックを噛みつき、持ち上げようとする瞬間だった。
なんだか危なっかしくて、大丈夫かな、と思った直前に、案の定、蛇の口からパックが離れた。
僕は咄嗟に、床を力強く蹴っていた。人間離れした膂力で、彼女たちの前に行き、床に叩き付けられる直前の卵をキャッチする。
しまった、とその瞬間に思った。今まで波風立たずに暮らしてきたのに、神の前でこんなことをしてしまうなんて。
「大丈夫ですか?」
「あ、ありがとうございます」
立ち上がり、取り繕うように笑って見せると、女の子は少し赤くなりながら、小さく頷いた。どうやら、僕の正体には気付いていないらしい。
美形に化けていて良かったと、僕は内心胸を張る。しかし蛇の神の方は、威嚇するように牙を見せた上で睨んでいる。
「気を付けてくださいね?」
「あ、はい。すみません」
ここはさっさと退散しよう。背中に冷や汗を掻きながら彼女に卵を渡して、くるりと踵を返す。
棚の間に姿を消して、誰も追いかけてこないことにほっとした。どうやら、お目こぼししてもらえたようだ。小豆の特売につられて始めてきたスーパーで、こんなことに遭うなんて。
「小豆洗おか、人とって食おか」
安堵感から、いつもの歌が口から零れてしまう。そのまま僕は、スーパーのレジの方へと歩いていった。
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