第113話 サンクチュアリとエターナル


 果てのない灰色の空間の中に、私は存在していた。この空間そのものと私自身が溶け合ってしまっている。

 私の体は、ベッドの上でぐっすり眠っている。意識が存在しているのは、爆睡する一歩手前、レム睡眠の淵だった。


 ふと、視界の端から、何かが近付いているのが見えた。それは、一組の男女だった。バスの絵が描かれた段ボール箱の内側に入って、まるで子供のごっこ遊びのように一列に、にこにこ笑いながら走っている。

 前方で引っ張るのは、紺色のスーツに白い手袋と帽子、右手の旗と、まるで添乗員のような男性だった。瞳が真っ赤だったので、一瞬ぎょっとしてしまう。彼の後ろにいるのは、結婚式に出席するようなピンクのカジュアルドレスの女性。年齢は大学生くらいかもしれない。


「はい。到着しましたー」


 彼らは、「私」のすぐ近くで立ち止まった。添乗員が爽やかにアナウンスすると、女性の方がきょろきょろと辺りを見回す。


「ここに、夕月先生がいるのですね!」


 彼女が突然、私のペンネームを叫んだので、驚いてしまった。


「あなたたち、一体誰なの?」


 言葉を発してしまうと、「私」の意識が人の形となって立ち上る。ちゃんと確認していないけれど、寝る時のパジャマ姿で、すっぴんになっている。

 私が現れたのを見た女性は、「わあ!」と歓声を上げて、こちらに駆け寄り、両手を握った。上手く言えないけれど、彼女は私の夢の中にいるのに、一人の人間としての存在感を持っている。


「お初にお目にかかります! わたくし、とりんこです!」

「え? とりちゃん?」


 感激している彼女を見て、思わずそう訊き返してしまった。女性は、数えきれないくらい高速で何度も頷いている。

 「とりんこ」こととりちゃんは、私のウェブ小説のファンで、SNSもフォローしてくれているから、時々ネット上で会話していた。こんな顔をしていたのかーと思ったが、当然の疑問が出てくる。


「なんで私の夢の中にいるの?」

「悪魔さんに手伝ってもらいました!」

「はい。私がとりんこ様を夕月様の夢の中へ案内いたしました」


 とりちゃんの後ろからひょっこりと、添乗員の恰好をした男性が顔を出した。自然な茶色い髪でヨーロッパ系の容姿をしていて、瞳が赤いという以外は、普通の人間に見える。

 私は、彼の目から隠れるように背を向けて、とりちゃんにこっそり耳打ちした。


「悪魔って、大丈夫なの? なんか、魂とか要求されていない?」

「そういうのはありませんよー。ねえ」

「ええ。とりんこ様に協力いたしましたのは、私の趣味みたいなものですから、代償などはいただいておりません」


 振り返ったとりちゃんから尋ねられて、「悪魔」と呼ばれた男性は、段ボール製のバスを畳みながら、にこやかに答えた。……その様子を見ていると、ますます悪魔だと思えない。

 とりちゃんがそう言っているのなら、私は納得するしかないのだが、やっぱりちょっと不安だ。しかし、当の本人は、この空間を改めて見渡している。


「ここが夕月さんの頭の中なんですね! 素晴らしいです!」

「無意識の空間は、人類みんなこんな感じなんですけどねー」

「ここは聖地、いえ、もはや聖域です!」

「聖域に悪魔がいるのも、おかしな話ですねー」


 感動しっぱなしのとりちゃんに、悪魔が後ろから茶々を入れてくる。確かに、とりちゃんは私にとって唯一の熱心な読者だけど、ここまで陶酔しきっているとは思わなかった。

 こういう持ち上げに慣れていなくて、恥ずかしさを感じている私を、とりちゃんは真剣な眼差しで見据える。


「夕月さん、お願いしたいことがあります」

「何?」

「夕月さんの『ファントラストの渦』の闇騎士・ディワード初登場シーンを見せてください!」

「ええっ!」


 『ファントラストの渦』というのは、中世ヨーロッパ風の異世界を舞台に、勇者と魔王の戦いを描く、剣と魔法のファンタジー小説だ。話の中心となる勇者パーティーと魔王軍以外にも、市井の人たちや第三勢力の登場人物の悲喜交々を描いた、群像劇的な骨太作品……だと、自負している。――現在、三年前の更新で止まっているけれど。

 そして、闇騎士・ディワードは『ファントラストの渦』の一匹狼のキャラクターだった。魔物の父と人間の母の間に生まれ、魔物も人間も強く憎んでいるが、時に主人公の勇者・ハイヅたちに手を貸すこともある。今思うと、どこにも所属していないのに「騎士」という二つ名は矛盾しているような気がする。


 とりちゃんは、ディワードの大ファンだった。本人が登場した時はもちろん、台詞が一言だけだったり、誰かの会話に名前が出てきただけでも、コメントで必ず触れる。

 そんなディワード贔屓のとりちゃんなら、彼の初登場シーンも見てみたいのも頷けるけれど、いきなり夢の中でそんなことを言われても困る。


「見せてって言われても、一体どうすればいいのよ……」

「簡単ですよ。一度想像したものなので、思い出せばいいのです」


 戸惑う私の前に、ずいっと悪魔が出てきて説明した。その笑顔は、どこかうさん臭さが漂っている。

 やり方が分かった上に、とりちゃんが期待に満ちた目をしているから、断ることも出来ない。とはいえ、あのシーンを書いたのは、もう随分と前の話だから思い出せるかなぁと、私は頭の上を見ながら、必死に頭を動かした。


 ……あのシーンは、ハイヅたちが瀧の近くの崖を進んでいる所だった。遥か上空から落ちてくる瀧の飛沫が、彼らの顔にもかかっている上に、足元も細い道で歩き辛そうにしていた。

 そこへ、巨大な石が落ちてくる。勇者一行危うし――その時、何者かが、彼らの背後から駆け寄り、石が一刀両断し、目前に降り立った。黒い鎧に長い銀髪、そして身の丈ほどの刀を担いだ見知らぬ男に、ハイヅが礼を言おうとすると、彼は剣先を向ける。


『勇者ハイヅ。貴様を殺すのは、この俺だ』

「きゃあああああああ! ディワード様ーーー!!!」


 物理法則を無視して、空中を歩き回りながら、三百六十度の角度から、とりちゃんはディワードを見ていた。物語はその間も進んでいて、まさに戦いが始まろうとしている場面であるのに、彼女はまったく気にしていない。

 ディワードへの愛を常々感じていたけれど、ここまでだったんだ……と、私は多少引いた気持ちで、とりちゃんの暴走を見ていた。立っているのは瀧下で、彼らの様子を下から見上げる形になっている。隣では、相変わらず悪魔がニコニコしていた。


「とりんこ様が夢中になるのも分かりますねぇ。非常にかっこよい登場シーンです」

「そうかな……ツッコミどころ満載だし、ディワードの見た目も、どっかで見たことある感じだし」


 掛け値なしに褒めてくれる悪魔に対して、私は自嘲気味に返した。それからふと、この悪魔も私の小説を読んだのだろうかと思った。


「ねえ、あなたは『ファントラストの渦』を読んだの?」

「いいえ。しかし、ここへ向かうまでに、とりんこ様からじっくり話の内容やセールスポイントをお聞きしました。『書籍化、アニメ化していないのが信じられないくらいの傑作』だとおっしゃっていましたよ」

「ええ……買い被り過ぎよ……」

「しかし、こちらの小説は三年前から更新が止まっていると聞きました。もう続きは書かないのですか?」

「あ……、それは……」


 痛い所を衝かれた。ずっと見ないふりをしていた膿が、じくじく痛み出す。


「ちょっと、悪魔さん! こういう言い方は酷いですよ!」


 そこへ、とりちゃんが戻ってきた。悪魔に対して、ぷんぷんと怒っている。


「夕月さんはお仕事もしていますからね。朝から晩まで働いていて、中々書き進められないだけなんですよ! 責めるのは可笑しいです!」

「左様でございましたか。申し訳ありません」

「いや、そんなブラック企業で酷使されているわけじゃないから……」


 とりちゃんがフォローしてくれて、悪魔も素直に頭を下げてくれたけれど、私は余計に居心地が悪くなってしまう。

 この三年間、描こうと思えばいつだって書くことが出来た。だけど、なんとなく、本当に理由もなく、筆を持つ気になれない。


 いや、多分原因は、新作をアップしても中々PV数が伸びなかったり、コンテストに出してもかすりもしなかったり、そんな出来事の積み重ねだと思う。とりちゃんをはじめ、読者を待たせてしまっているという自覚があるものの、創作へのモチベーションが、殆ど無くなっていた。

 そんな言い訳を、グダグダ頭の中で考えている私をよそに、悪魔はいいことを思いつたかのような顔で人差し指をぴんと立てた。


「とりんこ様、せっかくですから、ディワード様から名前を読んでもらったり、握手したりするのはいかがでしょう」

「悪魔さん、私はディワード様がアイドルのように振る舞えば喜ぶような安いファンではありませんよ。あの方が目の前に存在し、動き、喋り、その息遣いや匂いを感じられる、それだけで十分なのです」


 悪魔からの追加の提案を一蹴して、とりちゃんは初対面した時の喜びを思い出したのか、うっとりと目を細めている。自分のキャラクターによって、とりちゃんが道を踏み外してしまったかのようで、非常に心苦しい。

 はっと我に返ったとりちゃんは、私と向き合って、また両手を握った。


「夕月さん、今回は私のわがままを叶えてくれて、本当にありがとうございました」

「いいのいいの」


 更新を待たせてしまっているお詫びと思えば、さほど苦ではない。そう思っていると、とりちゃんは泣きそうな顔をした。


「もし今死んでしまっても、後悔はありません」

「え?」

「実は私の体は、交通事故に遭って、昏睡状態なんです」


 それを聞いて、私は絶句してしまった。

 とりちゃんは、命の危機に瀕している。そんな彼女に、私は何もできないのか……そんな無力感に押し潰される前に、私は彼女の手を離して、後ろに下がった。


「ちょっと待ってね……」


 必死に想像する。ディワードの姿を細部まで、その声や立ち振る舞いを。


「ディワード様……」


 頬を赤めたとりちゃんの手を、ディワードはがしっと力強く握った。


「そんな悲しいことは言わないでくれ」

「え……」

「俺とハイヅの決着を、物語の最後を、しっかりと見届けてくれないか」


 それを聞いた直後、とりちゃんは、大量の鼻血を噴き出して、後ろに倒れた。


「きゃー! とりちゃん!」

「大丈夫ですよ。これは心情の表現ですから」


 慌てる私だが、悪魔は冷静で、気を失ったとりちゃんを肩で担いだ。


「そろそろ朝が来ますので、私共はお暇致します」

「あ、はい」

「よい作品を描かれることを、お祈りしております」


 私が頷くと、彼はとりちゃんと共に、立ち去っていった。

 ディワードもいつの間にか消えて、灰色の空間の中、ぼんやり立ち尽くしていると、だんだんと頭上が白んできて、私は目を覚ました。






   ▢






 とりちゃんと夢の中で会ってから半年後。やっと私は、『ファントラストの渦』の最新話を公開した。

 その間、とにかく自分を鼓舞して、書き進めていった。ただ、今までずっと、とりちゃんのSNSの更新が無かったのがずっと気にかかっている。


 三年ぶりの更新だから、きっと忘れ去られているだろう。私はそんな悟りを開いた気分で、ベッドの上に寝転んだ。

 その時、スマホが震えた。見ると、応援コメントのメールが届いたようである。差出人の名前は「とりんこ」――私は、高鳴る胸で、そのメールを開いた。

























































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