第108話 魚を飼う
種類を尋ねると、渡してきた本人も知らないと答えたので、私はその生き物を「魚」と呼んでいる。
この「魚」は、会社の先輩が週末にある川で釣ったらしい。見たことがない魚なので逃がすのも気が引けたが、先輩には飼育環境が無かったので、私が引き取ることにした。
先輩の家の玄関先、水の溜まったクーラーボックスの中で、「魚」が泳いでいるの見たのがファーストコンタクトだった。この状態で一晩を過ごしたとは思えないほど、元気よく泳いでいる。
上から見ると、オレンジ色のラインが入っているのが特徴で、それ以外はメダカのような色合いだった。大きさは、中指ぐらいで、太さは親指ほど。川魚の図鑑やネットでも調べてみたが、結局種類も雌雄も分からないままだ。
とりあえず、三年前まで金魚を飼っていた水槽の中に、その「魚」を入れている。餌も金魚の餌を、おいしそうに食べていた。
朝は水草の中でじっとしていて、日が沈むとあちこちに動き回っている。魚類に夜行性とかあるかどうかは知らないが、窓辺に置いているので外光から昼夜を判断しているらしい。
いつも餌を上げる時は、「魚、餌だよ」と声を掛けるのが習慣になっていた。「魚」はちゃんと水面まで来て、私が落とす金魚の餌をパクパク食べてくれる。
その様子を観察していていると、この「魚」は、餌が水槽の上に見えてから水面まで来ているのではなく、私の声に反応して、移動していることに気が付いた。試しに、「餌だよ」と言ってから、しばらく何もしなかったが、「魚」は水面近くで、じっと見上げる形で待っている。
水の中でも、私の声が聞こえているのだろうか。確か、池の鯉は人が拍手したら餌の時間かと反応して集まってくるけれど、こうして、ガラスの水槽の外からの声に反応するのはあり得るのだろうか。
それに、この魚を飼い始めてから、まだ一月も経っていなかったのに、私の餌やりパターンを覚えてしまうとは。耳もいいし、賢いなんてと、流れで飼い始めたのに愛着が湧いてきた。
声と言葉が分かるのなら、芸を仕込めるのではないかと思い、早速、言う通りにしたら餌をあげるという方法を試してみた。
根気強くトライアンドエラーを繰り返し、「魚」は、向きを百八十度変える、水草の中に出入りする、水面まで上がる、水槽内を一周するという芸を身に付けた。その様子をスマホで撮って、この「魚」をくれた先輩に見せたら、目を丸くしていた。
そんな風に、「魚」との親睦を深めていたある朝、起きると、リビングのあちこちに大きめの水滴が落ちていた。それを辿っていくと、一方は魚のいる水槽へ、もう一方はキッチンの戸棚に続いていた。
その戸棚の一番下の扉が微妙に開いている。見ると、そこに入れていたクッキーが食い荒らされた形跡があった。
私はまさかと思い、「魚」の水槽の前に立った。水槽の中に潜む「魚」の尾びれには、今までにはなかった切れ込みがあった。
いつも通りに泳いでいる「魚」に対して、「クッキーを食べたのなら、反対側を向いて」と声を掛けてみた。すると、私に言われた通りに方向転換する。
「魚」が犯人だと分かったので、対策を練らねばならない。水槽に蓋を付けるのが一番いいのだが、無理に「魚」が出ようとして、怪我をするかもしれない。
水槽から出てはいけないとしつければいいのだが、犬や猫並みの知能を持つ生き物を飼ったことがなかったので、しつけ方が分からない。水槽の前をうろうろしながら考えて、一先ずの妥協案を打ち出した。
水槽のすぐ近くに、小さなテーブルを置き、その上に三枚のクッキーを並べた皿を載せる。これで、床がびしょびしょになったり、戸棚をあさられたりすることはなくなった。
ただ、毎日クッキーを置いていると、必ず全部食べられる。自分の面積よりも大きなクッキーを三枚も平らげるほど食いしん坊だとは思わなかったので、一日一枚だけにすることにした。
そんな習慣が一月近く続いた時、「魚」が大きくなっていることに気付いた。水草の中に入っている姿を、最初に来た時に撮った写真を比べてみると、やはり数センチ伸びている。
人間で例えれば、太ったというよりも、身長が伸びたという感じだ。まだ子供だったのかと驚く。
このまま、「魚」が大きく鳴り続けたらどうしようと思う。アロワナくらいの大きさなら、大きな水槽を用意することで何とかなるが、もしもこいのぼりくらいまで成長したらと、良くない想像も浮かぶ。
とはいっても、今更手放すことも出来ず、今日も餌を上げている。念のため、庭に池のある一軒家に引っ越すことも想定して、新しい家を探しながら。
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