第109話 前髪に鋏


 テレビを見ている間、彼はずっと前髪を触っていた。目の前まで垂れてくる前髪を、かき上げて、またしばらくすると、垂れてきたのでかき上げて、をエンドレスに繰り返している。

 彼と同じソファーに座っている私も、あまりにうっとうしそうにしているので、すごく気になってきた。そう言えば、食事の時もずっと触っていたなぁと思う。


「切ったら?」

「うん?」

「髪」


 CM中、彼に思い切って提案した。

 彼は、あーと間延びした声を出しながら、自分の前髪を一房掴んで、前へ引っ張っている。


「でも、邪魔なのは前髪だけなんだよね」

「まあ、後ろとかはそうでもないね」

「わざわざ前髪きりに行くって言うのもねー。こういうご時世だし」

「いや、思い切って行った方がいいと思うよ」


 私は結構強めに忠告する。しかし、彼はうーんと浮かない顔だ。

 「外出自粛」が一般的になった最近、彼は完全に出不精をこじらせてしまっている。


 CMが終わったので、また彼はテレビの方を向いた。好きな芸人が出ている番組を、彼は殆ど正座しているような心持ちで見ている。

 彼の好きな漫才師が、罰ゲームでセンブリ茶を飲み、「ぐえええ」と吐きそうな顔をしているのを見て、一緒になって笑った。


 その番組が終わり、何か他にやっていないかなとザッピングする。お互い、リモートワークになったので、ほぼ四六時中マンションの一室に籠っているため、仕事も終わった夜にはお互い暇になってくる。

 そんな私を置いて、彼は自分の部屋に戻っていった。夕食も終わっているし、これからお風呂かなと思っていたら、しばらくして、予想外の恰好で彼はリビングに戻ってきた。


「髪、切ってよ」

「え……何それ」


 彼は、美容院で着させられるような白い布の、裾がメキシコ人が被る帽子のように上向きになっているものを纏っていた。


「これ? 散髪ケープ」

「名前を訊いてるんじゃなくて」

「鋏もあるよ」


 彼は、片方の刃が櫛になったハサミを持って、チョキチョキと動かした。

 予想外過ぎて、頭が付いていけない。とにかく、一つ一つの疑問を尋ねてみることにした。


「それ、昔から持ってたの?」

「うん。同棲する前から」

「なんで? 美容師志望だったっけ?」

「いいや。なんか僕、前髪だけがよく伸びる体質みたいで、でも、前髪だけ切るのはなんかもったいないなぁと思って、買っちゃった」

「……えーと、その割には、使っているの、見たことないけれど」

「うん。存外準備が面倒だったし、やっぱプロみたいにはいかないから、奥にしまっていたんだよね。でも、やっと役に立つよ! ばんざーい!」


 彼は両手を挙げる。鋏が室内の光を反射して、ギラギラ笑っているようになっていた。

 呆れ返っている私をよそに、彼はダイニングテーブルの椅子を持ってきて、私の方に向けたそれに座る。


「じゃあ、お願いします」

「……言っとくけれど私、人の髪、切ったことないよ?」

「いいよいいよ」

「前髪がぱっつんになっても、クレームは受け付けないからね」

「外に出る予定もないし、平気平気」


 彼は終始ニコニコしながら頷いていた。まるで、出発前のジェットコースターに乗っているみたいだ。

 ここまでくると、私が折れるしかない。彼の目の前に立ち、全く曇りのない鋏を受け取る。……これ、一、二回ぐらいしか使ってないな。


「どれくらい切る?」


 彼の前髪を、上から下に撫でながら尋ねる。

 彼は、うーんと言いながら目を細めて考え出した。


「眉の上くらいでもいいかな。どうせすぐ伸びるし」

「でも、それだとちょっと、周りの髪とのバランスが悪いかも」

「どうせ外に出ないんだから、ちょっとくらい」

「まあ、様子見ながらやってもいい? まずは目が見えるくらいまで」

「んー、そうだね」


 短くし過ぎて、「ダサい!」と文句を言われるのも嫌なので、妥協案を出したら彼も受け入れてくれた。

 まずは、左側の髪をつまんで、彼の目の上辺りを目安にサクッと切ってみる。思ったより、たくさんの髪の毛が、パラパラと落ちて驚いてけれど、彼の方は平然としている。


「うわー、切っちゃったよ。大丈夫?」

「いいね、いいね。どんどん行っちゃって」


 それどころか、ビビる私に発破をかける。

 こうなったらどうにでもなれの精神で、サクッ、サクッと、鋏の櫛部分で髪を梳かしながら、前髪を切っていく。すでに、半分くらいまで来たが、彼はじっと私の手つきを眺めている。


「……目、開けてるタイプなんだ」

「うん。こういうの、あんまり怖くないんだよね」

「私は全然ダメ。美容師のでもつぶっちゃう」


 彼の意外な一面を知った後で、でも、素人相手の方が怖くない? ということに気が付いてしまった。知り合った時から思っていたけれど、変なところで肝が据わっている。

 残り半分に取り掛かった時、私よりも背が高いから、彼の上目遣いがとてもレアだということに気が付いた。それを意識すると、珍しいその表情が、とても可笑しいもののように感じ始めた。


「待って、待って! ぱっつんは大丈夫だけど、大失敗は許していないから! 何で笑ってるの!」

「ちょ、ちょっと、ごめん……」


 とうとう、肩まで揺れ始めたので、私は一回彼から離れた。上目遣いの、全然可愛くない彼の顔を思い出して、左手で必死に笑いを押し殺す。

 先程まで、パニックになっていた彼は、私の方を見て、「ええ……」と引いている。


「そんなに面白かった?」

「傑作。ムービーに残しておけばよかった」

「ひどいなー」


 彼の拗ねた声を聞いて、多少落ち着いた私は、改めて、彼に向き直る。残りの髪も、さっさと切ってしまおうと、覚悟を決めた。


「なんか、火事になった建物の中に飛び込んで、取り残された子供を助けに行く、みたいな顔をしているけれど、ただ僕の髪を切るだけだからね」

「大丈夫、今度は笑わないようにするから」


 私は、つまんだ前髪で彼の目を隠すというテクニックを生み出して、残りを慎重かつ大胆に切っていった。


「はい、出来上がり」

「おおー」


 一気に視界が開けた彼は、瞳を右へ左へ動かしながら、満足そうにしている。


「目の前に髪の毛が無いって、すごくいいねー」

「それが普通なんだけどねー」


 鋏についた髪の毛を、ティッシュで拭きながら、私は答えた。

 彼が満足していて良かった。ただ、前髪は真っ直ぐどころか、上へ下へと、不規則な段になっているけれど。


「ちょっと、鏡見てくる」


 立ち上がって、洗面台に向かう彼の背中を、どぎまぎしながら見送る。

 そして、自分の姿を確認したらしき彼の大爆笑が、リビングまで響いてきた。手まで叩いている。


「最高」


 洗面台からひょこっと顔を出した彼は、笑い過ぎて顔を真っ赤にして、親指を立てていた。

 私も親指を立てて、にかっと歯を見せて笑った。


「今度は、僕が君の髪を切るよ」

「その復讐、甘んじて受け入れるよ」


 彼はまたゲラゲラ笑いながら、洗面台に戻っていった。そのまま、お風呂を入るらしい。

 私は、ため息をつきながら、顔は綻んでいた。彼に髪を切ってもらえるのが、ちょっと楽しみになっていた。




































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