第107話 或る夜のボーイズ


 劇場を出ると、ふわっと湿気た風が顔に当たった。日は完全に沈んでしまっているのに、まだ昼間の熱さが残っている。

 看板全てが電気を点けている歓楽街には、眩しさなんて感じないはずなのに、目を細めてしまった。


「もう始まってんかな」

「そうじゃねーの」


 左に曲がる向原むこうばらの後に続く。俺の体には、最後の舞台の疲れが残っていた。

 今夜は、同期の飲み会だ。赤ら顔した人々と擦れ違いながら歩く。


 幹事のてんてこまいの二人は、いつものように鳥天で待っていると言っていた。

 一本五十円の焼鳥屋である鳥天には、みんなデビュー当時から世話になっている。木造平屋の、色褪せた赤い暖簾をくぐって、中に入った。


「おおー、向原、佐島、こっちこっち」

「アルヨもお疲れさまー」


 全てのテーブルが埋まっている狭い店内で、四人掛けのテーブルを二つ合わせた席に皆がそろっていた。

 下座から、てんてこまいの雪村、隣には同じコンビの本山、さらに隣には見上げ入道の新橋、隣に同じトリオの赤田、赤田の正面には同じトリオの日下くさか、日下の隣にはうろん大作が座っている。もうすでに、ビールを煽って焼き鳥も食べていた。


 挨拶をした、本山と雪村以外はこっちのほうすら見ずに、勝手にがやがやと騒ぎ倒している。

 一先ず、俺たちはてんてこまいの正面に座った。向原は、普段から仲の良い本山の前だ。


「だから、お前、それはダメだって」

「うまけりゃ何でもいいんだよ」

「その組み合わせは冒涜だって」

「は? そんなのお前の常識なだけだろ」

「向原、この前お間が教えてくれたアレなんだけど……」

「アレって、なんだ? 店? 動画?」


 かなりカオスな状況だ。見上げ入道の三人は、何か分からないが食い合わせの話題で盛り上がり、大作はしょっぱなからエロトークに持ち込もうとしている。

 職業柄、「高校の教室か!」とツッコみそうになるけれど、俺は黙っている本山の方をまず確認した。あいつなら、真っ先にブチギレて、無理にでもお笑い論をさせようとするんだが。雪村がにこにこしているのはいつも通りだけど。


「すみません、ご注文は……」

「生ビール二本と、モモ、カワ、ねぎま、砂肝を一本ずつで」


 五人の騒ぎに対して、申し訳なさそうな顔をした店員が注文を聞きにした。

 すると、間髪入れずに雪村が俺たち二人の分の注文を入れてくれる。こういう気遣いのスピードは、雪村が随一だ。チョイスも申し分なし。


「雪村サンキューな」

「うん。いいよ」


 謙遜するように首を横に振る雪村。そこになんだか寂しそうな影があって、俺は違和感を抱いた。

 本山も、話しているやつらのことを、ノスタルジーを感じているようなまなざしで眺めていて、正直気味悪さがある。


「なあ、お前ら二人……」

「お待たせしましたー、ビールですー」


 てんてこまいに話をしようとしたとき、店員が満面の笑みでビールのジョッキを二つ運んできた。

 タイミングの悪さが顔に出さないように努めている俺に対して、向原は興奮した調子で、「おっぱいが! おっぱいが!」と大作に力説していて、ビールが来ていることにも気付いていない。


「おい、ビール来てんぞ」

「ああ。……でな、」

「ビール、注文したのは雪村だから、お礼言っとけよ」

「うっせー。母親かよ」

「ねえ、おっぱい、そんなにヤバいの?」


 中学生のように目を輝かせる大作に促されて、向原は結局あっちの話に戻っていった。

 俺は溜め息をつきながら、ビールを飲もうとしたところで、突然斜め前の本山が立ち上がった。


「みんな揃ったし、乾杯しよう!」

「「「「「「はっ?」」」」」」


 ビールのジョッキを持って、本山がそんなことを言いだすので、いつもにこにこしている雪村以外の驚きの声がハモってしまった。

 こういうことを一番面倒臭がるのは本山なのに、どういう風の吹き回しだ? と全員が訝しんでいるが、当の本人は「早くしろよ」と急かしてくる。


「カンパーイ!」

「「「「「「「「かんぱーい」」」」」」」」


 半分以下のビールが入ったジョッキを、まるで優勝カップのように本山は高く掲げた。

 それ以外のみんなはテンション低く、一応通例通りにジョッキをぶつけあう。


 俺がジョッキを掲げて、ビールを半分ほど飲んだ後、いつの間にか本山は椅子に腰掛け直していて、また最初のように暗い顔をしていた。


「実は、今日飲み会を開いたのは、大切な話があって……」

「え? 結婚すんの?」


 普段から空気の読めない赤田が、わざわざ身を乗り出して、本山に尋ねてきた。

 いや、とてもそんな雰囲気じゃねーだろと言いたくなったが、ぐっとこらえて、本山の言葉を待つ。


「俺たち、解散することになった」


 ……テーブルが、水を打ったように静かになった。

 その言葉を飲み込めないまま、雪村の方を見ると、彼は一度だけ大きく頷いた。


 てんてこまい以外は、みんなぽかんとした顔をしていた。

 日下が、無理矢理作ったような引き攣り笑いで口を開いた。


「え……冗談だよな?」

「違う」


 本山は、日下の方すら見ずに、俯いたまま短く答えた。

 今度は新橋が、何か思いついたように本山の顔を指差した。


「分かった、これ、ドッキリだ! 単独のDVDの特典とかの!」

「単独の予定はない」


 これもまた、本山に否定されて、しゅんとした様子で指を下げた。

 やっと俺たちも、この解散が、二人の本気だという事を理解できてきた。しかし、まだ納得できない部分があって、俺は本山に馬鹿面のまま尋ねていた。


「……けど、なんで……」

「理由は、色々あるけどな、」


 今日初めて、本山が笑った。見たことないような、乾いた笑みだった。


「去年のM-1の結果が振るわなかったことと、それから全然新ネタが書けなくなってしまったことだ。……俺、売れていようとなかろうと、ネタを作れていればそれで十分だと思っていたけどな、それが、出来なくなって、自分の限界が来たんだと思ったんだ」


 確かに、てんてこまいの新ネタを、二人がM-1準々決勝敗退してから、一度も見ていなかった。

 俺たちの成績も同じだったから、その事実が重く胸にのしかかってくる。


「僕の方は、ネタに関して、出来ることなんてないから、本山くんの提案を受け入れるしかなかったんだよね」


 雪村もぽつぽつと話し始める。

 彼は大学の時の同級生だった本山に誘われて、お笑いの世界に入ったと言っていた。だから、未練はあまりないのだろうと思っていたが、雪村は俺には顔が見えないくらいに俯いていた。


「漫才するのは面白かったからさ、やっぱり悔しかったよ。……でも、仕方ないんだよね」


 話を振ったのは俺の方だったのに、何も言い返せなかった。

 デビューしてから十年間、解散したり引退したりした奴らはたくさんいたけれど、今までで一番堪えた。てんてこまいは、本人には言ったことが無かったけれど、俺も向原もその面白さを認めていたコンビだったから。


 その時、店内に高らかな笑い声が響いた。

 はっとして隣を見ると、向原が天井を仰いで笑っていた。


「むしろ良かったよ、解散してくれて。お前たちの方が先に決勝行ったら、どうしようかとか思っていたからさ。最大のライバルが消えて、せいせいしているさ」

「お前、」


 その言い方は無いだろと窘めようとして、気が付いた。

 天井を見上げたままの向原の目は、真っ赤に充血している。


「ごめんな、向原」

「謝るんじゃねえよ!」


 消え入りそうな本山の声に反応して、向原はテーブルをばんと叩いて、本山に詰め寄った。

 しかし、相手は非常に悲しそうな顔をして、向原の目から視線をそらした。


「悪かった」

「……けっ、プロレスも出来ないんじゃあ、いよいよだな!」


 向原はそう吐き捨てて、腕を組んでそっぽを向いた。


「あ、店員さん、ごめんなさい、うるさくしちゃって」


 雪村が、カウンターの方ではらはらしている店員に気付いて、申し訳なさそうに頭を下げた。

 一度落ち着いたと思った店員は、俺たちが注文していた焼き鳥を持ってきてくれた。それを向原と食べていると、今度は大作が「なあ」とてんてこまいに話しかけてきた。


「二人は、解散後はどうするの?」

「僕は、実家の方に戻ろうと思っている」

「雪村の実家って、どこだっけ?」

「石川県」


 その答えを聞いて、遠いなと言いそうになった。

 それを口にすれば、もう二度と雪村とは会えなくなってしまう予感がして、俺は黙っていた。


「本山は?」

「俺は、作家に転身しようかと思っている」


 大作の質問に、本山は淡々と答える。

 構成作家になるため、本山が完全に業界から去るのではないと分かって、俺たちの間に安心した空気が流れた。


「……俺たちの単独、手伝ってくれよ」

「アルヨが優勝したらな」


 ぼそりと呟いた向原に、本山は以前のような皮肉気な様子で返答していた。

 ああ、いつも通りだ。俺はその瞬間、どうしようもなく泣きそうな気持ちになった。






   □






 外はとっぷりと夜が更けて、肌寒さを感じられるほどだった。昼間の暑さが嘘のようだ。

 春は中途半端な季節で、ほとほと嫌になる。


 鳥天の前で、皆と別れた。べろんべろんになった本山に肩を貸している雪村は、相方を家まで送っていくと言っていた。

 解散を宣言したが、まだてんてこまいの最後の舞台があるはずなのに、俺は名残惜しさを感じながら、二人の背中を見送った。そこから、同じ駅への近道である住宅街を、向原と歩いていく。


 いつも飲み会の後はお互いに話し足りなくて、ずっと喋っているのに、今夜は静かだった。

 足早に先を行く向原も、考えていることは、きっと同じなんだろう。


 俺は、てんてこまいのことを考えていた。舞台袖で見た嫉妬するくらいに面白い漫才、本山の大喜利の答え、雪村の天然発言、そして、去年のM-1の準決勝進出者発表で名前を呼ばれずに固まっていた二人……そんな場面を思い出してしまう。

 本山の解散を決めた理由は非常に生々しいもので、あれを聞けば誰だって止めようとは思わないだろう。あんな風になっていたのは、自分かもしれないと考えてしまったから。


 お笑いというのは、つくづく残酷な世界だと、身を置いているからこそよく分かる。

 自分の面白さを信じて、世間の流れを追い掛けて、「ウケる」か「スベる」かは一瞬で結果が付いてしまう。そこからまたトライアンドエラーを繰り返して……果てなんてないのだろう。


 気付けば空を見上げていた。星も月も見えない。

 芸人になって、もう十年。まだ十年。なんとでも言えるが、このままではいられないという焦りがあった。


「早く売れてーなー」


 前を進む向原が、不意にそう叫んだ。


「近所迷惑だからやめろよ」


 俺は同意する代わりに、彼を窘めることしか出来なかった。























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