第106話 朝の公園、深夜の高速道路
公園に着くとまず、ストレッチから始める。特に、足首を入念に伸ばす。
サングラスをかけ直し、帽子のつばの位置を改めて、いよいよ出発。この公園の一周する、よく整備されたジョギングコースを軽めに走る。
軽やかに上下する手足、まだ息は切れてない上に、汗も微量。朝の光の中を、雀が鳴きながら飛んでいく。擦れ違うランナーが、爽やかに挨拶をする。
ここでは、一生懸命走ることだけが美徳される。私の姿を見ても、「おお、若々しいお婆さんだ」とくらいにしか思われない。
そんな瞬間が意外と心地よく、私は頻繁に公園へ足を運ぶ。いつもとは違う自分になれるかのようだ。
ふと見ると、真横のベンチに、ワンピースを着た女の子が座っていた。ぽかんと口を開けて、走る私を見送っている。あのような反応は珍しく、失礼な子だと思った。
「ちょっと! ちょっと、ばーちゃん! 待って!」
すると、後ろから女の子の声がして、先程の子が追いかけてきた。片手を大きく振って、ぜいぜいと息を乱している。
その姿が、どこかで見たことあるような気がして、思い出した。私は、徐々に速度を落とし、その子と並んだ。
「ワラちゃんじゃないの。どうしたの?」
「どうしたのって、こっちのセリフよ。なに、その恰好」
呆れた様子の彼女の言う通り、今の私は、半袖のスポーツウェアに短いズボンとスパッツ、運動靴を履いている。
「公園で走るなら、普通の恰好よ」
「なんか、こうしてみると、手足がシワッシワね」
「失礼ねぇ」
やはり、ワラちゃんは子供なので、感想に容赦がない。とはいえ、私は心が広いので、本気で怒ったりはしない。
「でも、こんなところにいるワラちゃんに言われたくないわ。おうちはどうしたの?」
「あー、あっちは、出ていった」
「あら」
「なんか、パパさん、ママさんがいつも喧嘩してて、見てられなくって」
「あらららら」
ワラちゃんはおしゃまな子だと思っていたけれど、喧嘩を見ただけで嫌になってしまうなんて。夫婦喧嘩は子供に悪影響と、どこかで聞いたことあるけれど、本当なのかもしれない。
「今は? おうち、探してるの?」
「んー、そんな感じ」
「いい所、見つかった?」
「まあ、そんな本気で探してるってわけじゃあないからね。放浪を楽しんでる感じ。……てか、」
ずっと私の隣で走っていたワラちゃんが、初めて嫌そうな顔をした。
「一回、止まってから話さない?」
「いやよ。走り出したのなら、ちゃんと続けないと」
「回遊魚みたい」
「ワラちゃん、物知りねぇ」
「馬鹿にしないでよ」
そう言って、ぶーと口を尖らせるワラちゃんは、子供っぽくて可愛らしい。
「こんなに走ったなら、今夜はお休み?」
「まさか。ここではウォーミングアップよ」
驚きを隠せない様子のワラちゃんに、私はにっこりと笑い掛ける。
「夜こそ、私の本領発揮なんだから」
〇
どうしてこんなことになったのだろう。この三十分間、ハンドルを握ったまま、何度もそんな嘆きが押し寄せる。
深夜一時過ぎの高速道路、当然のように辺りは真っ暗で、反対車線も車が走っていない。愛車には僕一人だけで、心細さと情けなさで泣き出してしまいそうだ。
きっかけは、この車で、坂を登っている時に、後ろから追い抜かされたことだった。古い車で、アクセルベタ踏みでも八十キロまでしか出せないから、当然だ。ただ、追い抜かされる直前に、パッシングされたのはちょっと気になった。
追い抜いた車は、僕のいる車線に戻り、しばらく数メートル進んだところで、急にブレーキを踏んで止まった。一瞬ぶつかりそうになってヒヤッとしたので、車線を変える。
すると、すぐに僕の車を追い越して、前になる。そして今度は、車線変更の邪魔をしてくる。
この一連の動きを、この車はなんでも繰り返してきた。「煽り運転だ」と気付いても、どうすればいいのか分からない。路肩に止めて、警察に通報するのが一番なんだろうが、スピードを落としても、ぴたっと前方についてくる。
相手が、どんな動きをしてくるのかが全く予想できなくて、怖かった。運転席と助手席側の窓も曇りガラスにしているせいで、運転手の顔が見えないのも不気味だ。
料金所はまだ先にある。そこまで行ければ大丈夫だろうけれど、その間、事故を起こさずに走り切れるだろうか……そんなことに神経を尖らせていたので、フロントガラスのその先しか見えていなかった。
コンコン、と、助手席側の窓が叩かれた。そんなことはありえない。そう理解するよりも、反射的に、音の元を確かめてしまった。
窓の外、真っ暗闇の高速道路、八十キロのスピードを出しているこの車と並んで、お婆さんが走っていた。紫色の和服を着て、白い髪を日本髪に結い上げて、しわくちゃな手足を短距離走選手のような完璧なフォームで動かしながら、人の良さそうなその顔をこちらに向けている。
僕は、咄嗟にブレーキを踏んだ。ギャリギャリと、嫌な音を立てて、車が停車する。タイヤの方から、ゴムの焼ける匂いがする。
ハンドルにもたれ掛かるような恰好で、下を向く。……今の光景は、きっと、初めての煽り運転に疲れて、見えた幻だ。前の車が、スピードを上げて、それを追いかけてるような足音が聞こえたけれど、絶対に気のせいだ。
ガシャン、と酷い音がして、僕は顔を上げた。前の道はカーブになっていて、その向こうに白い煙が上がっているのが、街灯に照らされて微かに見える。
僕は、慎重に車を発車させた。カーブの先まで進むと、ヘッドライトがその事故の様子を浮かび上がらせた。
先程まで、僕を煽っていた車が、斜め前になって、道路を塞ぐように立ち往生していた。ドリフトしてしまったのだろうか、タイヤからは煙が上がっている。
そして、同じように煙の立つボンネットの上には、僕の見たお婆さんが乗っかっていて、フロントガラスに張り付いている。
そのお婆さんが、僕の方を見た。七十代ぐらいの、どこにでもいそうなお婆さんが、にっこりと笑った。ただ、それだけなのに、僕の肌が粟立った。
――煽り運転は、スピードの遅い僕に怒って、あんなことをしてきたんだと、想像することが出来る。でも、あのお婆さんはその余地すら与えず、ただ、ひたすらに、理不尽だった。
お婆さんが、前の車のフロントガラスから離れて、直立する。ちょっとだけ、腰が曲がっているのが、生々しく感じる。
そのまま、一度飛び跳ねた。ボンネットが大きく凹む。再び、宙へ浮かび上がったお婆さんは、僕の車の屋根すら飛び越えて、夜の闇の中へと、消えていった。
〇
「これ、ばーちゃんがやったでしょ」
私が拾った新聞のある面を押し付けると、昨日と同じ公園で足首を伸ばすストレッチをしていたばーちゃんは、「あらー」と声を上げた。
その見出しには、「深夜の高速道路で、煽り運転の車が大破」と書いてあった。
「昨日の今日なのに、情報が巡るのは早いねぇ」
「これ、新聞だから、むしろ遅い方だよ」
見当違いの感想を述べるばーちゃんに呆れながら、私はあらためてその記事を読んでみる。
「煽り運転をしていた方も、されていた方も、高速道路で車と並走する、着物姿の老婆を目撃……って、大ごとになってるじゃない」
「こんなに注目されるのは、久しぶりねぇ」
「なんで、煽り運転する車を懲らしめるの? 正義に目覚めたの?」
うふふふと笑うばーちゃんに、冷や水を浴びせるようにそう指摘すると、やっとばーちゃんは「おや」と心外そうな顔をした。
「そんなつもりは全然ないよ」
「じゃあ、どうして?」
「腹が立ったからねぇ。高速道路の上で、私よりも恐れられている存在がいるなんて、許せないよ」
世間話をするかのようなにこやかさで言い切るばーちゃんに、私は内心、ほっとしていた。
妖怪は、人間には理解できない理念とプライドで動いている。高速道路で爆走するターボばーちゃんも、取り憑いた家を裕福にする座敷童子も、それは同じだ。
「さて」と、ばーちゃんはストレッチを終えて、走り出す準備に入った。
「私はひとっ走りしてくるけれど、ワラちゃんはどうするんだい?」
「私は、町をぷらぷらしているよ。帰る家もないし」
「そんなことしてないで、早く家を見つけなさいよ」
「はーい」
ばーちゃんは厳しい口調になったけれど、正直、妖怪としてのキャリアが私よりも下のばーちゃんに言われても、糠に釘だ。
今朝も元気に走り出したばーちゃんを見送って、私は公園の出口に向かって、とりとめもなく歩き出した。
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