第104話 21回目の1月22日


「それには、時の女神の涙が入っています」


 普段は通らない近所の線路沿いで、僕はその露天商を見つけた。ごちゃごちゃとした屋台の上、ふと手に取ったそれを見て、露天商のおじさんはそう言った。

 形は砂時計だけど、中身は砂の代わりに水と青いとろりとした液体が入っている。魅入られたように、半回転させながら液体の動きを見ていた僕に、おじさんは使い方を説明した。


 この時計を人の手がひっくり返して、平らな所に置いた瞬間から、時間が二十四時間巻き戻る。

 巻き戻った時間の中、ひっくり返した本人以外は、一回目の二十四時間と同じ言動をする。しかし、ひっくり返した本人が関わると、その言動が変わる。


 怪しむ僕に、おじさんは「試しにやってみてください」と言ってきた。僕が、時計をひっくり返してカウンターに置いた瞬間、ぎゅんと周りの風景が高速で動き、気が付くと、二十四時間目の自分の部屋にいた。服装も戻っている。

 スマホで日時やニュースを見て、本当に時間が戻ったことを確認した後、僕は急いでその露天商に行き、時計を買った。意外と手が届く値段だった。


 その日から、僕の人生はバラ色まで行かなくても、結構楽しくなった。

 やれることと言ったら、とんでもない失敗をしてしまった日に時間を戻したり、日曜日を何回も繰り返して自分だけ連休にしたりと、それくらいだったが。


 一月二十二日金曜日の夜九時。僕は、一人だけで会社に残り、残業をしていた。部署のみんなは、屋形船で新年会をしている。

 急に先方から月曜までにやってほしい頼みごとが来て、それを処理する一人が必要だったので、僕が立候補した。ここで仕事をした後、時間を戻して、屋形船で新年会をして、また時間を戻して自分が残業をすれば、誰かが割を食う訳でもなく、僕も楽しめると分かっていたからだった。


 十時を過ぎた頃だった。部署に、警備員さんが慌てて入ってきた。訳を訊くよりも早く、僕に持っていたスマホを見せる。

 その中では、真っ暗な川の上で、屋形船が一隻、炎を上げている様子が映っていた。僕が、まさかと思って警備員さんを見ると、彼は青褪めた顔で言った。


「皆さんが、新年会を開いている舟です」


 僕は、会社を飛び出し、自分の家へ帰り、時の女神の涙が入った時計をひっくり返した。


 二十四時間戻った世界で、僕は、新年会を中止することを勧めた。部長に対して、この店の方が安いですよと言ったり、誰か一人だけ残業なのは酷いですよと訴えたり。しかし、キャンセル料もかかるからと言って、みんなは新年会へ行き、屋形船の火事が起こった。

 次に、屋形船を運営している会社自体に、脅迫状を送ることを考えた。その会社にメールで、「爆弾を仕掛けた」と書いたが、最初は無視され続けた。


 どんなふうに爆弾を仕掛けたのかを詳細に書いたメールを送った五回目で、やっとその会社は営業を取り止めた。当然、新年会も屋形船ではできなくなったので、部長は、他の居酒屋を予約し、みんなで向かった。

 しかし、今度はその居酒屋で火事が起こった。その居酒屋も脅迫して行けなくしても、新年会が開かれた場所が出火する。屋形船の時よりも、犠牲者が多くなっているような気がして、僕はさらに恐ろしくなった。


 屋形船で起こる火事を、僕自身が食い止めた方がいいかもしれないと考えたのが、十一回目。仕事は月曜日の朝早く出勤してやって、今日はみんなで新年会に行きましょうと訴えても、なぜか僕が残業する流れになってしまう。一度決まってしまった運命は、中々動かせないらしい。

 一晩では処理できないほどの仕事量を頼まれるようにすればいいのかと思った僕は、寝る間も惜しんで、コンピュータウィルスについて調べた。そして、お昼休みの間にネットカフェへ行き、とにかく会社と関係のある他会社に送り付けた。


 それが功を奏したのは、十四回目だった。大量のSOSを見た部長は、新年会開催と月曜日まで片付けなければならい仕事の板挟みで思い悩み、土曜日に何人かが出社することを決めた。

 初めて参加する屋形船での新年会。僕は、みんなが飲んだり食べたりして盛り上がっている間、トイレに行くふりをして抜け出し、屋形船のあちこちを見て回った。しかし、火が起こりそうな厨房や、エンジン部分には中々入れない。そうこうするうちに、火が出てしまった。


 ……船内は、酷い様相だった。流れてくる黒い煙に、悲鳴を上げて逃げ惑う社員たち――共に働き、笑ったり泣いたりしてきた仲間たちが恐怖する姿には、この悲劇を知っている僕も動揺した。

 それでも、どこが火元か確認しておこうと、人々とは逆方向に僕は進む。途中、従業員に止められたのも振り切って、船の後方の床から炎が噴き出しているのを見た僕は、鞄から時計を取り出し、それをひっくり返した。


 戻った二十四時間で、僕は、コンピュータウィルスの準備と共に、屋形船の構造と消火方法を調べた。屋形船の中でも、消火剤の位置を確認する。

 火事が起こるのは九時近く。火元の舟の後方に座り込み、じっと動かずにいると、従業員に見つかり、危ないからと宴会場に連れ戻されてしまった。その間に、出火した。


 ――二十回目まで、火を止めようと僕は奮闘し続けた。従業員の目を盗む位置に隠れてやり過ごしても、今度は床下のハッチを開けきれなかった。ハッチの破壊方法が分かっても、今度は船に積まれていた消火器が古くなっていて、全然使えなかった。

 ネット通販で新しい消火器と防火性のジャケットを買う。火事を止めようとして、僕が死んでしまったら、もう誰も時間を戻せなくなってしまうため、準備は入念にする。同僚たちにからかわれるほど大きな鞄を持って、僕は屋形船に乗った。


 二十一回目の一月二十二日。時計の針が九時を指した時、カラオケ大会に興じる皆に断って、宴会場から抜け出した。足音を忍んで、船の後部へ移動する。

 防火性のジャケットを着て、事前に見つけた人一人が屈んで入れるような船の隙間に潜り込む。外見は立派だけど、こうしてみると結構ガタが来ているなぁと、横のささくれだった板を見ながら思う。


 目線を上げると、壮大な東京湾の夜景が、目の前でゆっくりと流れていた。波音とみんなが明るい笑い声を立ててるのがBGMになっていて、どうしようもなく泣きそうになってしまう。

 でも、こうして感慨浸っている場合ではない。僕が隠れている前を、従業員が通り過ぎていったのを見てから、そっと抜け出す。


 時計を見ると、九時二十六分だった。出荷の瞬間が、九時三十七分。ここからは、時間との勝負だ。

 鞄から取り出した消火器で、何度も床下のハッチを叩きつける。留め具の付いた一か所を重点的に狙う。


 ガタンと音がして、ハッチが外れる。白い煙が出ているエンジンに、消火器のホースを向ける。

 オレンジの火が、ぽっと出た瞬間に、レバーを押した。視界が白い煙で満たされても、エンジン全体にかけるように、あちこちに動かす。


「何をしているのですか!」


 異変に気付いた従業員が、僕に駆け寄り、羽交い絞めにして引っ張っていった。


「火が! 火が出ていたんですよ!」

「え? 火が?」


 必死にそう訴えると、従業員は僕の肩越しに真っ白になったエンジンルームを見た。僕が消火器を振りかけたせいで、屋形船は完全に止まっている。

 後ろの方が、急にざわざわと騒がしくなった。何人かの社員が、連れ立って、様子を見に来ていた。


「あれ? 何してんの?」


 その先頭に立つ部長が、不思議そうな顔で僕を見ていた。

 みんな、生きてる。それで安心し、僕の足からは力が抜けて、その場にへたり込んでしまった。






   △






 屋形船が、他の船に引っ張られて川岸に止められた後、当然のことながら僕は警察から事情聴取を受けた。どうして、火事を事前に止められたのか、その消火器と防火服は何なのかと言われたけれど、実は舟の火事にトラウマがあって、不安だったから家から持ってきてエンジンを見張っていましたと誤魔化した。

 解放されたのは日付が変わった頃だったが、僕は土曜日も出社した。部長からは、無理すんなよと言われたが、休日出勤を起こしたのは僕自身なので、その責任は取らないといけない。


 会社に来ていたのは、僕と部長、先輩二人と後輩が一人だった。みんな、昨日は大変だったと苦笑し合っている。

 部長から「お前の心配性のお陰で助かった」と言われた時、自分があの時計を手にしたのは、あの悲劇を食い止めるためだったのだと思った。


 ひと段落ついて、さっさと仕事を終わらせようと、みんなそれぞれの席に着く。

 手を乗せたキーボードの上に、パラパラと、天井から粉が落ちてきた。






   △






 ……病院の屋上に出て、ぼんやりと夜景を見ていた。日時は一月の二十五日、もうすぐ夜が明ける。

 二十三日、突然ビルが倒壊した。助かったのは、僕ともう一人の先輩だけだった。僕は昏睡状態になってしまい、気が付くと、もう二十四時間以上が経っていた。


「今、落ちても死ねないぞ」


 フェンス越しに下を見ていると、突然隣からそう話しかけられた。

 横目で見ると、真っ黒なスーツとネクタイの見知らぬ男性が、そこに佇んでいた。


 彼は、人を死に導く者だ。根拠もないのに、そう感じ取ってしまう。

 緊張する僕をよそに、彼は煙草を取り出して、火を点けた。


「道理で可笑しいと思ってたんだよな。鬼籍の上に、何重にも修正した後あったから」

「……知力を尽くしても、駄目でした。これで、神様のような力を手に入れたと思ったのに、結局僕は、無力な人間だったんです」


 あの倒壊の中、僕のポケットの中で無事だった時計を見つめる。このまま、叩き割ってしまおうかと思った。

 彼が吐き出した煙草の匂いが、鼻を掠めた。


「どんな運命だろうと、足掻くだけ足掻けよ。それが人間だ」


 それだけ言うと、彼は煙のように消えてしまった。


 東の空が、にわかに白くなり、太陽が昇り始めた。

 絶望の中でも、朝が来て、新しい一日が始まる。



































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