第103話 釣れない
下から吹き上げてくるビル風が、俺の前髪をくるくると弄ぶ。目前に聳える看板のネオンサインの瞬きまで、俺のことを嘲笑っているかのようだ。
今夜、ここを漁場にしようと縁に座ってから三時間。数百メートル下の釣り糸は、ピクリとも動かない。
「釣れないな……」
頬杖をついて、恨めしい目つきのまま、ひとりごちる。当てが外れたか、場所を変えようかまだ粘ろうか、ぼんやり考えて、ビルの外に投げ出された足が揺れる。
背後を見ると、空っぽのバケツ。その向こうには、火のついていない七輪。釣りたてをいただこうと目論んでいたのに。空腹と睡魔に襲われて虚しい。
落ちない程度に、身を乗り出して下を見る。昼間は車や人の姿が途切れないその大きな通りも、終電が無くなった辺りから数が減っていき、今は誰も通らない。
上から見ると、整列した街灯に、裸の街路樹だけが照らされている。脇に止めているタクシーの姿もなかった。反転した別の世界のような寂しさに、外界は支配されているようだ。
今度は上を見る。出ているのは少しずつ満ちていく月に、申し分程度に散らした星と、いくつかの黒い雲が、ゆったりと風に流されている。
絵や写真に残したいほどではないが、悪くはない夜だ。冬の最後のあがきのような寒さも、どこか心地良い。
沈黙が、外洋のようにどこまでも広がっている。ここら辺はオフィス街なので、電気を点けている建物も殆どなかった。その向こうに東京タワーが聳えているはずだが、すでにライトアップ時間も過ぎていて、影も形も分からない。
今、起きているのは俺だけではないか? そう思える、ちょっとした優越感と、すぐに追いつくてくる孤独さ。いや、俺だけが起きていたら、釣れるわけがないだろという冷静な自分の声も聞こえる。
しかしながら、本当に今日は釣れない。ずっと握り続けている、ひと月前に釣具店で、メタリックなブルーに惚れて購入した釣竿を見上げる。
この釣り竿だと、普段は面白いようによく釣れた。今夜、初めてこの釣り竿に黒星を与えてしまうことが忍びない。頼むから、かかってくれよと、かすかな光を白く反射する釣り糸を睨みながら祈る。
それにしても、何が悪かっただろうか。風の流れを読み間違えてしまったのだろうか。今日、初めて使った撒き餌が悪かったのだろうか。そもそも、今夜は誰もが釣れない日なのだろうか。
いじいじと言い訳のように要因を考えていると、脳みそが疲れてきたのか、拳が入りそうなほど大きな欠伸が出た。口を閉じて、首をこきこきと鳴らした所だった。
「釣れますか?」
突然、背後から話しかけられた。跳び上がるほど驚いて、振り返る。
「あ、突然すみません」
申し訳なさそうにそう言ったのは、一人の女性だった。長いブロンドヘアが強風に煽られて、左に流れているのを、右耳にかけ直しながら、青い瞳は苦笑を浮かべている。その背中には、純白の大きな翼があり、それもまた、風によって先端が少し曲がっていた。
なんだ、天使か。俺は安堵したように思う。天使なら、今の俺の姿が見えて可笑しくない。
「いやー、今夜は全然ですね。バケツも空っぽで」
「ああ、そうなんですか」
俺が水だけの入ったバケツを指さすと、彼女はそれを覗き込みながら頷いた。その顔は多少残念そうである。
「私、街の魚を見たことないんですね」
「そうでしたか。川や海のとは違う味わいがあるんですよ」
「へえ。いいですね」
天使は、うっとりと目を細める。
そんな彼女に、俺は質問した。
「仕事ですか?」
「いえ、先程終わって、夜の散歩をしていたところです」
「なるほど、素敵ですね」
お世辞ではなく、心からの言葉が出た。空を自由に駆ける者は、俺にとって永遠の憧れでもある。
それを受けて、天使は恥ずかしそうに「ありがとうございます」と微笑んだ。
「では、私はこれで」
「ええ」
「お魚が、釣れますように」
「あ、ありがとうございます」
さりげなく、天使はそう言って、ビルの屋上を蹴ると、ふわりと飛び上がった。重量を忘れたかのように、軽やかに、美しく羽ばたいていく。
それを眺めて、天使の祈った言葉なら、かなり効きそうだなと俺は期待するように思った。
天使と別れて、十分ほど経った頃だった。突如、釣り糸がぴんと下へ引っ張られた。同時に、リールがぐるぐると独りでに回り出す。
来た! 興奮と共に、リールを握り、引っ張ろうとする力に逆らって巻き取る。もはや、座ったままでは力負けしてしまうので、俺はビルの縁に立ち上がった。
ここからは、魚との駆け引きになる。確かに、相手の引く力も強いが、相手がばてたと分かった瞬間に一気に巻き取り、徐々にビルの方へと上げていく。
歯を食いしばりながら、唇には笑みが浮かべていた。久方ぶりの釣りの楽しみに、体の全てが歓喜の声を上げている。
釣竿を、思いっきり掲げると、目の前に一匹の魚が、ピチピチと元気良く動きながら現れた。ヒレも目もエラも、全てが真っ黒なその魚だが、形は細長く、秋刀魚に似ている。
振り子のように大きく揺れるその魚が、こちらに寄ったタイミングで掴んだ。それでも、まだ必死に逃れようとしている。活きの良さに、思わず笑みが零れた。
今すぐ焼いてしまおうと、口から針を外して、急いでバケツに入れる。個人的な好みは生だが、人のマイナスな感情が固まってできたこの魚は、非常に臭みがあるので、火を通さずに食べるのは難しい。
七輪のそばまで行って、色々と準備する。火をおこしたり、折り畳みの椅子を出したり、紙皿や割り箸を用意したり。持ってきたぎゅうぎゅう詰めリュックが、どんどん軽くなっていく。
火も十分に燃えた七輪の上に、そのまま魚を置く。こいつは生き物ではなく、「魚らしくしろ」というプログラムに従っているだけなので、しめることなどは必要ない。その証拠に自分が焼かれていると気付くと、ぴたりと動きを止めてしまった。
色が真っ黒なので、焼き加減に気を付ける。焦げていなくて、一番旨い状態で食べたい。団扇も用意して、パタパタと仰ぐ。
煙から、焼き魚のいい匂いが漂ってきた。季節外れの秋刀魚が食べられると思うと、口の中に涎が溜まる。
人間たちが知らぬ間に放出する、恨みやら憎しみやらストレスやら嫉妬やらが、こんなに旨い魚になってしまうなんて。変な話だが、人間たちよ、マイナス感情をありがとうと感謝したくなる。
割りばしで魚をひっくり返す。焼けていた皮は、ぱりぱりとして剝がれやすくなっている。いいタイミングで出来たと、自画自賛する。
天高くたなびく焼き魚の煙の向こう、先程の天使が飛んでいるのが見えた。俺の視線に気付くと、ぺこんと会釈する。
俺は、意識するよりも先に彼女を手招いていた。ずっと釣れていなかった苛立ちはどこへやら。俺は、彼女に一口味見させてあげたいという寛容な心になっていた。
招かれた天使は、嬉しそうに顔を綻ばせて、こちらへと向かってくる。せっかくだから、とっておきの焼酎も振る舞おう。そんなことを考えながら、俺は椅子を譲るために立ち上がった。
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