第102話 凍えるほどにあなたをください
壁に掛けられた温度計は、十度前後を指している。室内でも、スケートリンク場はほどほどに寒い。
外で着ていたコートやマフラーを脱がずに、外側から、リンクの壁に寄り掛かる。まだ誰も滑っていない氷の上は、真っ白に光り輝いている。
ふと周りを見回すと、向こう側の壁の方にちらほらと、カメラを持った人たちの姿が見えた。今日が今季最初の公開練習なので、取材陣も来ているようだ。
その内の何人かが、私の方に気が付き、ちらちらと目線を送っている。何組かが、ひそひそと言葉を交わしている様子も見えたが、全て無視して、リンクの方に集中する。
しばらくして、不意にざわめきが大きくなった。スケート靴を履いた選手たちが、リンクの上に現れて、滑り始めたのだ。
その中に、一人の女性選手が加わると、シャッターを切る音が一気に増えた。その女性選手――綾村さんは、集中力を切らさず、誰よりもなめらかに進む。
リンクの真ん中に躍り出た綾村さんが、軽やかに飛んだ。後ろ向きに滑りながら、一瞬だけ屈んで、くるりと一回転。
足と手の動きが完璧すぎて、ため息が出てしまう。簡単な肩慣らしでも、綾村さんは決して手を抜かない。
私と綾村さんは、誰がどう見ても、ライバル同士だ。何度も、同じリンクの上で表彰台を狙い、戦った。
だけど、正直に言うと、私は、彼女になら負けてもいいと思っている。それくらい、彼女の演技に惚れている。
技術の綾村、表現の糸原と言われるくらい、彼女と私は正反対だ。体調やプレッシャーに左右されやすい私の演技に対して、綾村さんの演技は一寸の隙も無く、美しい。
その分、表情が硬いとか機械的だと言われることもあるが、私にとってはそれも魅力的に感じる。ただの無いものねだりなのかもしれないけれど。
私の目の前を滑っていた綾村さんが、後ろ向きに位置を変えた一瞬、目が合った。一秒にも満たない間に、私の心臓は大きく跳ね上がった。
だけど、綾村さんのスケート靴のブレードのような鋭い目は、私のことなど見えていない。いや、練習に集中している綾村さんには、世界の何もかもが映っていないだろう。
そういうストックなところも素晴らしい。見習わなくっちゃなぁと、ため息が出てしまう。
ふと、時計を確認すると、私の練習時間が迫ってきていた。後ろ髪が引かれる思いのまま、私はロッカールームへと向かった。
▢
その夜、私は夢を見た。
私は、氷の上に立っていた。だけど、そこはスケートリンク場でも野外でもない。真っ白な空間に包まれ、足元の氷が、地平線の果てまで続いていた。
何も考えずに、私はその上を滑っている。愛用の靴が、氷を切っていく音を聞きながら、ともかく真っ直ぐに。
その向こうから、私とは反対方向へ円を描くように、綾村さんが現れた。青と水色のグラデーションにスパンコールを散らした、いつかの大会衣装を着ている。
アイコンタクトを取って、私たちは渦巻きを描くように、だんだんと近付いてきた。そして、そのまま触れ合えそうなほどの距離になった。一本一本の睫毛が、数えられそうなほどに近い。
綾村さんが差し出した右手を、私は握った。その瞬間、表彰台に登った時や完璧なジャンプを決めた時とは比べ物にならないほどの、この世に生まれてきた時のような原初的な喜びが、胸の中で爆発した。
私たちは手を取り、お互いの微かな熱を交換しながら、今度はまっすぐ進む。握っていない方の手を外側に広げて、聞こえていない歓声を浴びているかのように。
少しずつスピードを落とし、綾村さんが力強く、私を抱き寄せた。瞳を覗き込んできた綾村さんは微笑んでいた。
綾村さんが、自然に微笑んでいるのを、競技中でも見たことがなかった。不意を衝かれた私は、驚きや嬉しさよりも、どうにもならない悲しさが、胸の中に広がっていくのを感じていた。
次に綾村さんは、私を自分と同じ方向に向かせて、その両手を優しく握った。見えなくても、この後私と綾村さんはどうするのかをなぜか知っていた。
私たちは、右足と上半身が氷上と平行になるようなポーズで合わせる。そのまま、ゆっくりと滑り出す。地平線の彼方、そのさらに向こうまで、どこまでもどこまでも滑っていく――。
▢
なんであんな夢を見たのだろう。
今日の練習会場に入ってからも、ずっとその事ばかり考えていた。
私と綾村さんは、あんなふうに一緒に滑り合うほどの中ではない。そもそも、フィギュアスケートのペアの演技は、男女で行うものだから、矛盾している。
だけど、何かの暗示のように、あの夢のことが頭から離れなかった。私が知る限り、女性同士のペアは行われたことがないのだから、エキシビジョンとかアイスショーとかで披露できたら、すごい反響が来るんじゃないかと。
そんなことを、ふわふわ浮足立った気持ちで考えて、練習場の廊下を歩いていたら、角を曲がって向こうから、綾村さんが歩いてくるのが見えた。
激しく動揺しつつも、引き返すことなどできない。私たちはちょっと足を止めた。
「糸原さん、こんにちは」
「こんにちは」
綾村さんは、淡々と挨拶をする。これは誰に対してもそうで、その態度が生意気だと言われることもある。
私は、そんなことなど一度も思ったことがなかった。むしろ、周りに流されない綾村さんらしくて、少し羨ましいくらいだった。
そのまま綾村さんは、歩き去ろうとする。
さっきまでは自分の動揺がバレないかどうかを心配していたのに、私は急に彼女とこのまま別れるのが惜しくなった。
「綾村さん」
「ん?」
「私、あなたと一緒に滑る夢を見たの」
振り返った綾村さんに、とんでもないことを口走ってしまい、はっと口をつぐんだ。
綾村さんも困ってしまっただろうと思っていると、彼女は不意に口角を上げた。
「そう。光栄ね」
綾村さんは、挑むような目と口調で言い切った。それを見て、私は相手の勘違いに気付いてしまった。
彼女は、大会で共に競い合うことを想定している。それは当然だ。綾村さんにとって私は、一人のライバルなのだから。
「ええ。次の大会も、良いものにしましょう」
だから私も、彼女が求めるライバル像を演じて笑い掛ける。心の中では、空っ風が吹き荒んでいた。
そうして、私たちは踵を返して歩き出す。あの夢のように、一緒に滑りだすことはない。
綾村さんの心は、氷のように冷たく、気高い。きっと手に触れただけでも、凍えてしまうだろう。
それでもいいから、抱きしめたいほど、彼女のことを欲していた。
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