第100話 うさぎ穴まで


「この前、『不思議の国のアリス』を見たんだけど」


 ストローから口を離したつゆ美が、いきなりそんなことを呟いた。

 放課後、高校の一番近くのカフェで、いつもみたいに四人でお喋りをしている時だった。『あれ?』という風に、つゆ美の隣に座っているレラが彼女の顔を凝視した。


『テレビで放送されていたっけ?』

「ううん。おじいちゃん家に行ったときに、いとこと一緒にDVDで見たの」

『ああ。そうなんだ』


 レラは、疑問を持った時の喰いつきは良いけれど、それが解決されたときは尋常じゃないくらいにあっさりと手を引く。

 そんな、いつものやり取りを受け流した後、つゆ美が「それでね」と続きを話し始めた。


「改めてみると、『不思議の国のアリス』って、変な話だなぁって思って」

「そりゃそうでしょ」


 私は苦笑しながら、その一言にツッコむ。体が大きくなったり小さくなったり、理不尽な裁判に巻き込まれたり、最終的にはそれが全て夢でしたって話、「変」とは言わずになんと言い表すのだろうか。

 しかし、つゆ美は、いやいやと大きく首を振って否定する。


「そこじゃなくて、もっと根本的な部分」

『根本的?』

「どこ?」


 レラと私の疑問を引き受けたつゆ美は、なぜかテーブルの真ん中に私たちの顔を限界まで集めて近づけてから、内緒話をするかのように囁いた。


「……もしも、服を着たウサギが走ってきたら、それを追いかける?」

『……』

「え? そこ?」


 熟考モードに入ったレラに対して、私は大きな声を上げた。

 席に座り直したつゆ美は、満足したように頷いている。私は、自分のカプチーノのカップを手に持ちながら、苦言を呈した。


「あそこは物語の導入部分だから、あれこれ言うのは無しじゃない?」

「でもさ、自分がアリスの立場だったらって、考えてみてよ。まあ、気になって追いかけたとしても、穴にまでは入ろうとは思わなくない?」

「うーん、確かに、そうかもしれないけれど……」


 自分がアリスだったら、と考えると、中々そのような勇気は出ない。

 ただ、アリスまで極端なものじゃないけれど、変なことに巻き込まれた人の例なら知っていた。


「私のお兄ちゃんがね、この前、晴れているのに傘を差している人を見かけて、近寄ったんだって」

「おお! アリスに対する白うさぎだ。それで、どうなったの?」

「その人が、ずっと『降るよ、今から降るよ』と言っているから、そんなわけないって言い返していたら、頭上から大量の水が落ちてきて、びしょぬれになっちゃったんだって」

「ありゃー、災難だったねぇ」


 つゆ美は、心からお兄ちゃんを同情するように言った。

 一方私は、変な人に近付いたのだからお兄ちゃんの自業自得だと思っている。


「まあ、お兄ちゃんみたいに、変なことに自ら首を突っ込んでいくタイプもいるから、アリスもそっちだったんじゃない?」

「なるほどねー」


 つゆ美は、まあまあ納得したように頷いている。

 そこへ、今までスリープに入っていたレラが再起動して、私たちを見回した。


『正常性バイアスがかかっていたのかもしれない』

「正常性バイアスって、何?」

『正常性バイアスって言うのは……』

「あ、簡単でいいから」


 私の疑問を受けて、レラが辞書に載っているような長い説明を始めるのを察知して、つゆ美が先手を打った。そういうやり取りも、もはやなれたものだ。


『簡単に言うと、都合の悪いことは見えなくなってしまう心理のことね。例えば、建物の中で煙が漂ってきても、まさか火事ではないだろうと逃げ遅れちゃう、みたいな』

「ふーん。火事の煙でもそんな風に思うんだったら、服を着たうさぎでは、危険性をほとんど感じないだろうね」

「うん。うさぎに、危ないイメージはないからね。うさぎの穴も、変なことが起こらなさそうだし」


 私とつゆ美は感心して、顔を見合わせてうんうん頷いた。

 それから不意に、つゆ美は私の隣を見た。


「ねえ、中井寺さんは、どう思う?」

「……え、あ、うん」


 これまで、ぼんやりと窓の外を眺めていた中井寺さんが、ゆっくりと振り返った。瞬きを繰り返しているけれど、まだ夢の中にいるかのように、目がとろんとしている。

 私は、もしかしたら外で事件や事故が起きていたのだろうかと確認したけれど、気になるものは何もなかった。いつもの、町の風景だ。


「……ごめんなさい、今まで、何の話をしていたの?」

「えっとね、私、この前、『不思議の国のアリス』を見たんだけどね……」


 やっぱり私の話を聞いていなかった中井寺さんに、つゆ美は丁寧には最初から説明する。

 中井寺さんは、夏休み明けに私たちのクラスに転校してきた。未だクラスに馴染めない彼女を、つゆ美は気にして、私たちのグループに入れてあげている。でも正直、距離を取られているなと感じる。


「……というのが、二人の見解なんだけど、中井寺さんはどうしてアリスはうさぎを追いかけたと思う?」

「……」


 俯き加減に、中井寺さんは黙り込んだ。持て余した右手はストローを握っていて、注文したレモンスカッシュをかき混ぜている。

 ぐるぐるぐるぐると、コップの中で生まれた渦は、横から見た竜巻のようだった。


「あれは、うさぎの罠だと思う」


 静かに、はっきりと、中井寺さんはそう言った。先ほどまで忙しく動かしていた右手も止めて、口以外は一切動かなかった。

 私たちは、困惑して、苦笑するしかなかった。そんな私たちの方を見据えて、中井寺さんは話を続ける。


「初めて、あの白うさぎを見た時、重力のようなものに引っ張られるかのように追いかけ始めた。うさぎが、どんどん森の奥の方へ駆けて行っても、まったく気にしない。まるで催眠術にかかったかのように『うさぎを追いかけなくては』ということしか頭になかった。だから、何の躊躇もなく、うさぎが穴に落ちたら、自分もそこに入った」


 中井寺さんは、まるでそれがアリスのことではなく、自分の体験のように話していた。


「穴の先は、不思議の国だった。周りを見回しても、うさぎはどこにもいなくて、その時やっと、正気を取り戻したかのようだった。

 ……不思議の国、と言ったら語弊があるのかもしれない。私が住んでいた世界と、大きくは変わらない。文明とか、文化とか、法律とか。でも、ちょっとずつ違う。こっちと比べると、何かがずれている、そんな世界。気が狂いそうだった」


 ふうとため息をついて中井寺さんが話を終えた時、それこそ私たちが術から解けたかのように、肩の力が一気に抜けた。

 レラが、ぎこちなく笑いながら中井寺さんに向かって言った。


『まるで、実際に起きた出来事のように、具体的だね』

「うん……そうかもね」


 その時、中井寺さんが笑った。初めて見た中井寺さんの笑顔に、私は酷く驚いてしまった。

 ……それにしても、中井寺さんが言っていた、自分の住んでいた世界とちょっとずれた世界ってどんなのだろう。私は、そんなことを考えながら外を見た。


 今日も町では、車が走り、人が歩いている。他の星からの観光客も、それほど珍しくなくなった。子供の頃にはなかった光合成で走る車も、普通になっている。

 夕暮れの中、町の表情はいつもと変わらない。今年の流行である、花冠を付けた女の子がちらほら見かけるけれど、中井寺さんの言っている「違い」には当てはまらないだろう。


 私には、こことは違う世界なんて想像もできないな、そう思っていると、無意識の内に自分の尻尾を握っているのに気が付いた。誰にも注意されていなくても、慌てて手を離す。考え込んだ時の私の癖だけど、食事の場で触るのはマナー違反だと、よく母に叱られた。

 テーブルの方に目線を移すと、目の前のつゆ美はメニュー表を開いていた。飲んでいたメロンソーダが無くなったので、おかわりをするらしい。私もカプチーノを頼もうかなと思っていたら、つゆ美がこちらを見た。


「カプチーノね。分かった」

「うん。お願い」


 レベル一のテレパシーが使えるつゆ美は、自分の半径一メートル以内にいる相手が表面的に思っていることが分かる。こういう能力があるためか、つゆ美は気配りができるし、人の痛みにも敏感だ。

 ウィーンと低いモーター音を響かせながら、レラは自分が飲んでいる燃料のカップを持ち上げた。


『つゆ美、私の分もお願い』

「分かった。さっきと同じのでもいい?」

『いいよー』


 小学生の頃からの付き合いだから忘れそうになるけれど、こうして燃料を飲んでいる時は、レラがアンドロイドなんだなぁと意識させられる。ちなみに、アンドロイドであるレラの心は、つゆ美は読めないらしい。

 最後に、つゆ美が申し訳なさそうに、中井寺さんの方を見た。つゆ美は、中井寺さんは考えていることがごちゃごちゃとしているから、表面的な言葉も読み取れないと言っていた。


「中井寺さんも、何か頼む?」

「ううん。私はまだ残っているから」


 中井寺さんは、自分のレモンスカッシュを指さしながら言った。確かに、中身は半分以上あった。

 つゆ美がテーブルの上の呼び出しボタンを押すと、透明人間の店員さんが来た。手袋を嵌めた手にオーダーを取る機械を持っていて、つゆ美が言った注文を「ピッピッ」と押していく。


「かしこまりました。少々お待ちください」


 深々と頭を下げて、店員さんは戻っていった。

 それを見送ってから、私はふと、クラスメイトの三角君の噂を思い出した。


「ねえ、三角君に好きな人がいるって知ってる?」

「えっ? そうなの?」

『初耳ー。誰?』


 つゆ美とレラはすぐに喰いついたけれど、中井寺さんはまたぼんやりと外を見ている。

 その事が、少し寂しくもある。いつか、心を開いた中井寺さんと、たくさんお喋りできたらいいな。そんなことを考えながら、私は話の続きをした。





























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