第97話 芸術
カミュは、自宅から持参してきた絵を、何度も壁に掛けたり戻したりを繰り返していた。位置が決まったように見えても、一歩下がって確認した後、首を捻りながら再び直す。
現在、彼が持っている絵は、正方形の小さめのキャンパスに、青や緑の系統の絵の具を上から垂らして描いたようなものだった。その中に、人の手による筆遣いが見て取れる線が交わっている。
「いつまでやってんだ」
自身の部長席から、シェイクスピアが呆れ声を飛ばす。始業の時間はすでに三十分以上過ぎているため、その一言も当然だ。
だが、カミュはそれを聞き流し、まだ絵の掛け直しを続けている。苛立つシェイクスピアが指で机を叩く音が響く中、カミュはやっと満足げに頷いた。
「うん。これで完璧」
「また新しい絵が来たわねー」
私の席の向かいに座り、頬杖をついたクリスティーが呟く。
彼女の言う通り、部署の出入り口のあるドアには、三枚の絵がかけられてる。一番左の絵は夕暮れに沈む街を上から描写した絵、右はどこかの王の肖像画、真ん中が先程まで調整されていた絵であり、全てカミュの私物だった。
「部署がカミュの私物化されているな」
「お前が言うな」
せせら笑うチェスタトンに、シェイクスピアは冷たい視線を投げた。
シェイクスピアの言う通り、かつてチェスタトンは誰が一番ゲームが上手いのかを決めたいと、チェスをはじめ、大量の盤上ゲームを持ってきたことがあった。一時期は部署内のあらゆる所に置かれていた盤上ゲームだが、流石に今は無くなっている。
「古い方の絵は持ち帰るのか?」
「もちろん」
私は、新しい絵の下に置かれた、これまで飾られていた空っぽの花瓶と葡萄の入った籠の静物画を眺めた。
これまで、カミュは様々な絵を持ってきていたが、一度も同じ絵を持ってきたことはなかった。
「自宅には何枚の絵があるのか?」
「うーん。数えたことはないけれど、百枚以上はあるのは確かだよ」
「あんた、アパート暮らしでしょ? そんなに置いておくスペースあるの?」
百枚の絵に埋め尽くされた小部屋を想像したのか、げんなりとした表情でクリスティーが尋ねた。
彼女の方を見ながら、カミュは弱々しく肩を竦める。
「正直、全くないね。家具はもうベッドぐらい。テーブルも片付けちゃったから、食事はいつも外で食べてるよ」
「実生活を犠牲にしてまで、趣味にのめり込むのか」
シェイクスピアが深くため息をつき、やれやれと首を横に振った。カミュの語る言葉が、全く理解できないという様子だ。
ただ、私はカミュに、共感を覚えていた。
「私も、集めた本が溢れてきてな、この間、地下室の書庫の棚数を増やしたところだ」
「俺の方で、溜まるものと言ったら、チケットくらいか」
観劇が趣味のチェスタトンは、私たちの話に感心した様子で口を挟む。
そんな我々の様子を、趣味と言えば飲酒と女性と話すことのシェイクスピアが眉を顰めながら眺めていた。
「売ることは考えていないのか?」
「まあ、それは本当に最終手段だよね?」
「確かに、一冊一冊に思い出が詰まっているため、そう簡単に手放す事は出来ない」
カミュと私は、目を合わせて頷いた。正直に言うと、私とカミュの意見が合うのは、この点しかないように感じられる。
クリスティーは、私たちを見る冷ややかな目を、壁の絵にも向けた。
「毎日見てても飽きないの? 私は、七日くらいでもういいかなって思うけど」
「それが全然、飽きることはないんだよね。むしろ、見れば見るほど深まるっていうか……。まあ、ずっと同じ絵を見ていたら他の絵が見れなくなるから、一定の期間を決めて、取り換えているけどね」
そう説明したカミュは、意味深に唇の端を上げた。
「と言っても、審美眼のないみんなには理解できないだろうけれど」
「……馬鹿言うな。たかが絵だろ?」
挑発を受けて、部署内で最も沸点が低いチェスタトンが反論する。
するとカミュは、ぐるりと室内の全員を見回し、煽るように両手を広げて見せた。
「僕の絵がこの中にあるけれど、どれか分かる?」
「え、あんたの絵があるの?」
「お前、描くのも好きだったんだな」
「よし、当ててやる」
目を丸くしながらクリスティーは絵と向かい合い、シェイクスピアとチェスタトンは自分の席から立ち上がり、より絵画に近付いてきた。私は、ここまで集中しなくともいいのではないかと思いながらも、一枚一枚の絵を眺める。
「うーん」と小首を傾げながら、クリスティーが一番右の王の肖像画を指さした。
「案外、これかもね。どっかの王様を本当に描いたんじゃなくて、別の絵を模写したんじゃない?」
「いや、絶対にこっちだ」
「俺もこれに一票」
シェイクスピアとチェスタトンは、真ん中の抽象画を示した。二人とも、強い自信を漲らせている。
カミュは、不気味なくらいに微笑みかけながら、二人の顔を見比べた。
「どうしてそう思ったのかな?」
「お前が描く絵が、普通なわけがない。これも、お前が自分の心の中を描き出したものなんじゃないか?」
シェイクスピアは、ふふんと鼻で笑う。酷い言い草だが、これまでのカミュの言動を顧みるに、この寸評も致し方ないような気がした。
カミュは当然のことながら、口を尖らせて、不服を露わにする。
「あんまりだなぁ。……で、ハールトはどうしてこっちだと思ったの?」
「演劇でも当てはまるんだが、その道を究めすぎると、当たり前のことではなく、抽象的なことをし始める傾向がある。とある舞台監督も、若い頃は古典のカヴァーをしていたんだが、五十年も業界に携わっていると、現代劇、それも、役者が一人で舞台の上に出っぱなしというものを手掛けるようになってきた。カミュも、ずっと絵を描き続けた究極の形として、抽象画を手掛けるようになったんじゃないか?」
チェスタトンは、自身の趣味の分析から、カミュが描く絵を本気で推理している。
なるほどなるほどと頷くカミュを横目に、私は一番左の絵を指さした。
「あれがお前の作品ではないのか? 昔見た絵も、写実的な風景画だったからな」
「あー、そういえば、見せたことあったね。忘れてたけれど」
それぞれの解答を聞いた後に、カミュは手もみをしつつ「さて」と一同を見回した。
「正解は……この絵でした!」
満面の笑みでカミュが持ち上げたのは、先程まで床に置かれていた静物画だった。
私は「それだったか」と驚いていたが、他の皆は目を剝いていた。
「それは卑怯よ。選択肢に入っていなかったじゃない」
「でも僕は、三枚の中でとは一言も言っていないよ。『この中に』だから、この絵も含まれてるんだよ」
渋面のままのクリスティーからの指摘を、涼しい顔でカミュは躱した。それから、我々を軽蔑するように目を細めた。
「絵画のような、最高の芸術を理解するには、一朝一夕じゃあできないよね」
「は?」
「何?」
「最高の芸術」という一言に、チェスタトンと私は引っかかった。
「……カミュ、お前、最高の芸術は絵画だと思ってんのか?」
「うん。そうだよ、ハールト」
「つまり、文学は最高の芸術ではないと?」
「まあ、正直言うとね。絵画が一番でしょ」
「どうして?」と言いたげに、瞬きを繰り返すカミュに、私とチェスタトンは深い溜息をついた。
そして、同時に口火を切った。
「確かに、絵画の芸術性の高さは素晴らしい。しかし、文学を差し置いて、『最高の』と冠するのはおこがましく思わないのか?
絵画にはない魅力、芸術性も、文学は持っている。白紙の上にあるのは文字の羅列だけだが、たかが文字されど文字だ。数種類の字の組み合わせだけで、読む者に広大な景色を、雄大な時の流れを目前に広げ、その一方で、緻密な生き物の動き、繊細な心の揺れをその目に映し出す。また、聴覚や嗅覚にも訴えかけてくる描写もあり、まさしく五感をすべて使って楽しめるのが文学の良さだ。
文学が時間芸術と呼ばれるように、時間の推移によって変化する芸術という、絵画とは異なる魅力がある。ページを捲れば、進む物語。ただ、演劇や映画と異なるのは、そこから戻るのが簡単だということだ。時間芸術でありながら、遡及できるという矛盾。そして、いつでもどこでも、本を広げればそこから始まる物語。読み手によって向き合い方をコントロールできるという点こそが、文学の良さではあるまいか」
「お前は、絵画は何度も見ても飽きないと言っていたな? その点は、演劇も同じだが、ちょっと意味合いが違う。
いいか、演劇は、二度と同じものが再現できねぇんだよ。全く同じ内容で、同じ演出家と同じ俳優が演じる舞台でも、昨日と今日とでは全く違う。それが、俺の思う演劇の一番の魅力だ。一度しか見れない、だからこそ目を凝らし、息を潜めて全てを見届けるんだ。それから、何度もリバイバルされてきた脚本でも、演出が変われば全く別物になる。演出が同じ人物でも、演じる役者が異なれば、それもまた違う作品となる。
あと、作っているのが一人ではないというのも良い。まあ、演劇には、一人でキャンパスに向かい合って書き続けるような孤独さはねぇよ。だけどな、一人一人、考え方も生き方も異なる人間が、一つの作品の完成を目指して、切磋琢磨するのは絵画にはない素晴らしさだ。舞台を作るという行為には、一人も脇役がいない。照明も、大道具係も、舞台を作り上げる替えの効かないピースだ。もちろん、その中には観客も含まれている。その一体感が忘れらなくて、俺は何度も劇場に足を運ぶんだよ」
「分かった! 分かった! 僕の一言が迂闊だったよ!」
カミュが悲鳴のような声を上げて、私とチェスタトンはやっと口を閉じた。
ふと、周りを見ると、シェイクスピアもクリスティーも、自身の席に戻って仕事を始めている。
「おい、始業時間はとっくに過ぎてんぞ。働け」
シェイクスピアの冷ややかな声と視線で、私はずっと熱くなっていたことが急激に恥ずかしくなってきた。
三人でそそくさと席に戻る。芸術は人生を豊かにすると聞いたことがあるが、やはりのめり込み過ぎるは悪いと、虚しい心で思った。
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