第91話 サヨナラ、小さな罪


 隠れて泣いている人を見たことがある。


 あれはバイト中、溜まった段ボールを捨てた帰りのことだった。外のゴミ捨て場からドアを開けてバックヤードに入った直後、目線の先にある非常階段の暗がりから、足が出ているのが見えた。

 驚きのあまり、体が固まってしまった。足しか見えないけれど、階段に誰かが座っているようだ。ホールもキッチンも、ズボンは黒のスラックスに白い靴と統一されているので、誰かは分からない。


 足音を忍ばせて、その相手に近付いてみた。心境は、心配半分と好奇心が半分。

 階段に座っているその姿が目に映るギリギリのところまで近づいた。膝を抱えてうずくまるその人は、同じホールのゆーちゃんだった。


 薄暗く静まり返ったバックヤードの中で、鼻のすする音が確かに聞こえた。

 ゆーちゃんが泣いている。私はその事に動揺して、まばたきの仕方を忘れてしまった。


 ゆーちゃんは去年の四月に入ってきた。当時は高校一年生で、明るくて元気のある子というのが第一印象だった。

 しかし、ゆーちゃんはちょっとドジだった。二日に一回皿を割り、オーダーを間違えるのはよくあることで、レジに立ったら必ず行列ができてしまう。


 本人はやる気があって、頑張り屋さんだから、最初はみんなも「ゆーちゃんはしょうがないなぁ」と笑っていたけれど、月日が経つとその余裕もなくなってくる。ゆーちゃんがレジ閉めをして、売り上げとレジの中身が合わなかった十月のある日から、風向きは変わった。

 だんだんと、先輩や店長からの説教時間が長くなってきた。「いい子なんだけどねぇ」を免罪符に、毒のあることを直接言うようになった。ゆーちゃんが質問をしても、おざなりな説明しかしなくなった。


 私は冗談交じりに、「ちょっと言いすぎじゃないですか」と言ってみたこともおあるけれど、先輩たちは「本人が甘えているから、きつく言わないと通じないよ」と苦笑するばかりだった。

 ゆーちゃん自身も「私にご指導ご鞭撻いただき、ありがとうございます」とかしこまった言い方をして、真摯に受け止めていたので、彼女は強い子だと思っていた。


 ホールでは誰よりも大きな声を出して、笑顔を絶やさずに、誰よりも動いていた。その動きに無駄が多いと言われても、一生懸命頑張っていた。

 そんなゆーちゃんが、泣いている。私は彼女の泣き顔を見るのは初めてだった。


 そういえば最近、ゆーちゃんはトイレに行くことが多くなっていた。十分ぐらい、戻ってこないのもざらにあった。

 こうして、いつも泣いていたのだろうか。そう思うと、急速に口内と喉が渇いていくのを感じた。空気を吸っただけでも痛い。


 ゆーちゃんは、ずっと膝を抱えてうずくまり、顔を上げようとしない。私は彼女から目を離さないまま、音もなく後ろに下がり始めた。

 そして、ゆーちゃんが階段の陰に隠れて完全に見えなくなってから、私は踵を返して、林で歩きだした。このままホールへ戻ろうと思って。


 彼女のことを想うのなら、「大丈夫? どうしたの?」と声をかけるべきだった。でも、私には、そんな勇気などなかった。

 きっとゆーちゃんは、泣いていたことを、バイトのせいではないと誤魔化しただろう。余計な心配をかけまいと、気丈に振る舞うのかもしれない。


 ……いや、そんなのは私の都合のいい想像だ。

 私は、単純に怖かった。いつも笑顔で、何を言われてもめげずに働いていたゆーちゃんの、本当の苦しみに触れることが。


 その夜から数日後、ゆーちゃんはバイトを辞めると言った。

 みんなが驚いている中、私だけが心の中で「やっぱり」と呟いた。






   △






 バイト先に出勤した私がバックヤードの廊下を歩いていると、事務所の中に一礼して、廊下に出たゆーちゃんを見かけた。

 一週間前に、彼女は退職したはずだった。どうしたんだろうと思っている間に、廊下の真ん中でゆーちゃんと顔を合わせた。


「永野先輩、お久しぶりです」


 ゆーちゃんは微笑みながらそう言って、接客するときのように深々と頭を下げた。

 もしも私がゆーちゃんの立場だったら、こんな風に笑えないだろうなと戸惑いながらも「久しぶり」と返した。


「今日はどうしたの」

「クリーニングに出していたユニホームを返しに来ました」


 ああ、それなら来てもおかしくないなと思いながら、私たちは軽く言葉を交わす。


「先輩はこれから仕事ですか?」

「うん。そうだよ」

「そんなんですね。今日も大盛況でしたよ! 頑張りどころですね!」

「ありがとう」


 ゆーちゃんがあまりにもいつも通りなので、私は彼女のペースに巻き込まれていた。本来ならば、私の方が彼女を元気づけるべきなのに。

 ふと、ゆーちゃんの背後に、非常階段の暗がりが見えた。あの時のゆーちゃんの鳴き声が、耳の奥で蘇る。


「あの時はごめんね」

「え? 何のことですか?」


 意識する前に、そう口走っていた。当然、ゆーちゃんはきょとんと眼を丸くしている。

 ああ、どうしようかと、私は頭の中で考えた。このまま、関係ないことを言って誤魔化すことならまだできる。


 私だけが、あの夜泣いているゆーちゃんを見て見ぬふりをしたという小さな罪を知っている。でも、それをこのまま埋もれさせてしまってもいいのだろうか。

 私は固い決意を胸に、目の前のゆーちゃんに気付かれないように息を吸った。


「いつか、ゆーちゃんが階段で泣いている所で出くわして、でも、何も言わなかったことがあって……その時、無視しちゃってごめんねって」

「そんなことがあったんですね」


 ゆーちゃんは困ったように笑いながら後頭部を掻いていた。

 その笑顔は、とてもぎこちない。無理していることは明らかだった。


「気にしないでください。あんなところで泣いている人を見たら、誰だってびっくりして何も言えなくなってしまいますよ」

「そう言ってくれるのはありがたいけれどね……もしもあの瞬間、私がゆーちゃんに声をかけていたら、何か変わっていたかもしれないって思っちゃうのよ」

「変わりましたよ」


 ゆーちゃんの感情を落とした声に、私は驚いて彼女を凝視した。

 蛍光灯の真下に立つゆーちゃんはまるでスポットライトを浴びているように見えて、その口元には自然な笑みが浮かんでいた。


「今、先輩があの時のことを謝ってくれたことで、何かが変わったんだと思います。ありがとうございます」

「うん……あの、こちらこそありがとう」


 未だ虚をつつかれている私は、ぼんやりとした口調でそう返すのがやっとだった。

 ふと、ゆーちゃんは自分の腕時計を見て、慌てだした。


「先輩、そろそろ準備しないと、遅刻しますよ」

「あ、うん。そうだね。ええと――サヨナラ」

「はい、サヨナラ」


 ゆーちゃんになんと別れの挨拶をしたらいいの変わらずに、咄嗟に口走った言葉はなぜか片言になっていた。

 それに対してゆーちゃんは顔を綻ばせて、私の口調を真似した。そのまま、私たちは笑い合う……最後にゆーちゃんと、笑い合うことができて良かった。


 このまま軽く手を振って、私たちはすれ違った。数歩進んでから立ち止まり、私は振り返る。

 ゆーちゃんは胸を張って、真っ直ぐ歩いてく。このまま一度も振り返らずに、ゆーちゃんが非常口のドアを開けて外に出るまでを、私は見届けた。
























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