第92話 図書館暮らし。
小鳥のさえずりのようなアラーム音で、私は目を覚まします。
児童書の棚二つ分、その間に架けたハンモックに横たわったまま、大きく伸びをしました。作者名あ行の棚の上の、古びたデジタル時計を止めて、私はすぐ隣の梯子から、下へ降ります。
ガラス張りの天井を見上げました。
鮮やかな黄色の隙間から、今日も曇った空が見えています。
大きさや形の異なる本棚の間を進んで、私は台所へ入りました。
ケトルでお湯を温めている間に、IHコンロの上のフライパンで、冷凍ハンバーグを温めます。この中では、火を使うことは厳禁なので、ガスも薪ストーブも使いません。
バンズでサニーレタスとハンバーグを挟んだ簡易バーガーと、入れたてのミントティーを持って、カウンターに座ります。
黙々と食事をしながら、いつものようにここから見える景色を見回しました。
真正面にはドアが一つ、それを丸く囲うように、壁をくり抜いて作られた本棚が並んでいます。
棚のそばに椅子は置いてありますが、テーブルなどは設置されていなくて、本棚だけが静かに佇んでいます。
もう三年ほどこの景色を眺めている筈なのに、「ここが私の家なんだ」という、不思議な気持ちになってしまいます。
まだ、夢を見ているような、何かの物語を読んでいるかのような、浮足立った心地です。
そのままふわふわとした頭で、食後の食器を洗いました。
次に、隣のお風呂場へ行き、軽くシャワーを浴びます。今日着る服は、柿色のカーディガンに、葡萄色のロングスカートにしました。
お風呂から上がって、洗面台の鏡の前で、今日被るウィッグを選びます。
服装に合わせて、明るい茶色のふんわりとしたセミロングに決めました。メイクも、服と髪の毛に合わせて施します。
身支度が終わったら、仕事の準備です。私はじょうろとほうきとちりとりを持って、ドアから外へ出ました。
コンクリート製の、無理矢理増築したようなバランスの悪い建物たちが、今日も立ち並んでいます。パイプも電線も剥き出しです。
まずは、じょうろに水を満たして、外で育てているプランターに水やりをします。
いつも曇天の下でも、ミントやサニーレタスたちは、すくすく育ってくれて、嬉しい限りです。はつか大根の収穫も近そうです。
今度は、落ちた葉っぱをほうきで集めます。
紅葉の時期になっているので、始めるとキリがありませんが、この黄色い葉っぱを、せめてドアの周りだけでも綺麗にしていきます。
ふと、左の方から二人分の足音が聞こえてきました。
振り返ると、水色と黄色の着物をの女の子が、二人並んで歩いてくる所でした。二人は、私に気付くと、同時に足を止めてにっこり笑いかけます。どちらも長い黒髪を結い上げていて、日本人形のようです。
「「金沢さん、おはよう!」」
「おはよう、カゼちゃん、ツキちゃん」
学校に向かう途中で、右肩からショルダーバッグを下げている堀川カゼちゃんと堀川ツキちゃんは、八歳の一卵性の双子です。水色の着物がカゼちゃんで、黄色の着物の方がツキちゃんです。
見た目はもちろん、動作も声を出す瞬間もぴったり合っています。私も何組か、一卵性の双子の知り合いがいましたが、ここまでそっくりで息ぴったりな子たちは、初めて見ました。
「「この前借りた絵本、とっても面白かったよ!」」
「ありがとう。また、新しい絵本、借りに来てね」
「「うん!」」
二人はまた同時に、笑顔で頷いてくれました。着物以外では、見分ける方法がありません。
「「バイバーイ」」と元気よく出発した二人に手を振って、その小さくなっていく背中を見送りました。
何気なく、私は自分の家を振り返ってみました。
そこは、五階建てくらいの大きさの、銀杏の木でした。丁度この季節は、葉が黄色く色付いて、風に合わせてはらりはらりと落ちてきます。
『楽園』と呼ばれるこの場所に生えている銀杏は大昔に雷が落ちたせいで中が空洞になり、今は図書館として機能しています。
そして、私はここの司書として、ここで暮らしています。
この瞬間でもその事を意識すると、再び自分の人生ではないような錯覚がしてきます。
秋風が吹いて、また銀杏の葉を落としていきました。
△
ドアにオープンの看板を掛けて、床全体に敷かれた電灯のスイッチを入れて、図書館は開館します。
正直に言いまして、ここの来客は、多い方ではありません。一日一人か二人が平均です。
普段は退屈まぎれに本を読みながら過ごしていますが、今日は一つ用事がありました。
外から本が運ばれてくるからです。その間を、棚の整理をしながら待ちます。
「
弾んだ声で私を呼びながら、一人の青年が図書館へ飛び込んできました。
青いコートを着て、首から飛行士のゴーグルを下げている彼は、この『楽園』で一番偉い、園長と呼ばれる伊勢
「おはようございます」
「もう少ししたら、
伊勢さんが、ドアを指差しながらそう言いました。
長距離トラック運転手の
「分かりました。いつもお手伝いありがとうございます」
「いいの、いいの。代わりにお昼を食べさせてもらうからさ」
「はい」
園長の仕事というのは、『楽園』内で困った人がいたら、そのお手伝いをすることだと、私がここに来た時に伊勢さんから説明されました。
お手伝いの代わりに、園長は寝る場所を提供してもらったり、お食事を用意してもらったりしているそうです。
「失礼します」
園長の言っていた通り、しばらくすると、大豊さんが図書館に入ってきました。
中年男性の大豊さんは、白髪交じりの頭を隠すように野球帽をかぶっていましたが、体つきはしっかりとしていて、年齢よりも若く見られていそうです。
「じゃあ、伊勢くん、こっちへ」
「へいへーい」
「お手伝いします」
「大丈夫ですよ。力仕事ですので、待っててください」
私も二人の後に続こうとしましたら、ドアの前で振り返った大豊さんに止められました。
大豊さんはいつも紳士的で、私はこのように優しい人になりたいと思っています。
それから、伊勢さんと大豊さんが、本がいっぱいに積まれた段ボール箱を持って入ってきました。
これらはすべて、外の世界で捨てられていた本です。今回は、三十箱ありました。
大豊さんが帰った後に、私は伊勢さんと一緒に、本の分類を始めます。
まずは、図書館に置ける本、置けない本の分類です。置ける本は、カバーが無い本や本文に罫線のある本も含まれています。置けない本は、破れている箇所が多かったり、殆ど読めないほど汚れている本などです。
それとは別に、すでに図書館内にある本は、出入り口のすぐそばで二百円で売っています。
作業は何時間も続きました。二人で黙々と手を動かしていきます。
お昼前に、私は少し離脱して、キッチンでミートスパゲッティを作りました。作ったと言いましても、ソースとパスタは冷蔵庫で保存していたので、それをレンジで温めて合わせただけです。
「詠名のご飯、お店で出してもいいくらい旨いんだよなー」
「ありがとうございます」
カウンターに並んで座り、コンソメスープを飲んだ伊勢さんは、嬉しそうに褒めてくれました。
私ははにかみながらも頭を下げます。伊勢さんは非常に素直な方で、すらっと誉め言葉が出てきます。
「コンソメって、何語なんだろうな」
「さあ、どういう意味なんでしょうかね」
そして、会話がよく妙な方向に飛んでしまいます。そういう点も、ユニークで話していて飽きません。
うーむと考え込んでいた伊勢さんは、ふと、あと十箱を切った段ボール箱を眺めました。
「今日は結構多かったね」
「はい。掘り出し物も多くて、嬉しいです」
「どれが一番気になる?」
「そうですね……『たった一つの冴えたやり方』という小説は、読んだことが無いので気になります」
「おもしろかったら、今度貸してよ」
「はい。ご利用お待ちしています」
私が慇懃にそう言うと、伊勢さんは朗らかに笑ってくれました。
本当は、仕分けの後にも、貸出しカード作りの仕事が残っていますが、二人ともその事には目をつぶっていました。
△
二時前に仕事が一段落ついて、伊勢さんは帰っていきました。
最後まで付き合ってくれて、へろへろになった彼に、今度来館してくれた時には、クッキーを焼いて渡したいと思います。
一人、来館者がいましたが、それ以降は誰も来ないまま、三時を過ぎていました。
いつも顔を見せてくれる方が見えなくて、少し心配していると、ドアが開きました。
「白神さん、こんにちは」
「……こんにちは」
入ってきた十八歳の少女、白神
サラサラの黒いおかっぱ頭の白神さんは、名前に恥じないくらいの白くて綺麗な肌と、無表情ながらに整った顔立ちをしています。
そして、彼女はいつも本を読んでいます。
これは誇張ではなく、持っている本から目を話すときは、本棚の背表紙を眺めている時だけです。
歩きやすそうなデニムパンツの白神さんは、ページをめくりながらカウンターの前に来て、トートバックから借りていた本を出しました。
今読んでいる本は、以前にここから買ってくれた本です。
小さな声で、「お願いします」といった後、白神さんは次に借りる本を探しに、棚へと向かいます。
今日は新しい本が来たんですよと教えようかと思いましたが、ほぼ毎日来てくれている白神さんは、すぐに本棚の変化に気付いてくれそうです。
白神さんの返してくれた本から貸出カードを取り出して、彼女の名前の書かれた欄にハンコを押していきます。図書館のハンコは、銀杏の葉のマークです。
そこへ、日本文学の棚にいた白神さんが、読んでいる本とはまた別の本を小脇に抱えて、カウンターの前に立ちました。
「金沢さん、この本、知っていますか?」
彼女が差し出した、小脇の本には、『岬の灯台が消える時』というタイトルと、「塚田まどり」という作者名が表紙に書いてありました。
私にもその本には見覚えがありませんでした。今日来た本にも、無かったのですが、もちろん私も全ての本を覚えている訳ではないので、昔からある本なのかなと思いました。
「いえ、私も見覚えの無い本ですね」
「貸出カードが差し込まれていなんです」
ぽつぽつと白神さんがそう呟くので、私もページをめくってみましたが、確かに貸出カードがありませんでした。
「もしかしたら、どこかで落としてしまったのかもしれませんね」
「一応、在庫を確認してもらってもいいですか?」
しかし、白神さんはそれでも追及してきます。
私は、カウンター上のディスプレイと本体が一体化している、教科書に載っているくらい古いパソコンの画面から、本のリストを出して、その本を探してみました。そこにも、この本の名前が見つけられませんでした。
「ありませんね。登録を忘れたのでしょう」
「この本の名前も、作者の名前も聞いたことが無いのです。調べることは出来ませんか?」
「……ちょっと待ってくださいね」
私は、寝る時間以外を使って、出来るだけたくさんの本を読もうとしている白神さんがそう言い切るので、この本に興味を強く持ちました。
背後の壁際に置いているテーブルの上、そこで埃を被っている旧型のノートパソコンを起動させました。これは、ここで唯一インターネットに繋いでいるデバイスです。
早速検索サイトで、「岬の灯台が消える時」と入れてみます。似たタイトルの小説が一作見つかりましたが、完全一致はありません。
作者名でも検索してみます。こちらも、完全一致はありませんでした。
「出てこなかったですね。個人出版でしょうか?」
「……でもこれ、有名な出版社ですよ。それに、元々は別の町の図書館にあった本みたいです」
白神さんが指差した背表紙の下には、馴染み深い出版社名が小さく書いてありました。
また、裏表紙には、「蔭神町立図書館」と書かれたバーコードが貼られています。この図書館では貸出カードを挟む以外は何もしていませんが、この本は透明のカバーで守られていました。
気になって、図書館のある町名も検索してみましたが、それも出てきませんでした。
「この町も、検索しても出てきません。不思議な本ですね」
「もしかしたら、次元を超えてきた本かも」
白神さんが、ぽつりと呟きました。その声には珍しく、熱っぽい響きがあります。
『岬の灯台が消える時』という文字を見つめる視線にも、熱いものが籠っています。
「白神さん、この本を借りますか?」
「いいんですか?」
白神さんの声が、興奮したように上擦りました。ただ、俯いたその表情には逡巡も見えます。
私は彼女を安心させるように微笑みました。
「ええ。別次元から迷い込んできた本だとしても、返してあげる方法がありませんから。このまま、ここにおいて、また人に読まれることを望んでいると思いますよ」
「ありがとうございます」
私は白神さんが別の本を探してくる間に貸出カードを作るという約束をしました。
彼女がカウンター前から去った後に、私はざらざらとした、本の表紙を猫の背中のように愛おしく撫でてみます。
この世界にはいない人物が描いた、この世界にはない町から来た、この世界の誰も読んだことのない物語が、この本の中には収められています。
それを意識すると、本を触る手の甲に、鳥肌が立ちました。白神さんが返した後に、私もこの本を必ず読みましょう。
△
のんびりと過ごしていても、一日は振り返るとすぐに去ってしまいます。
秋はあっという間に日が沈み、図書館を閉める時間になりました。とは言っても、私以外に誰もいないことを確認して、ドアの外側にクローズの札をかけてから鍵をかけるだけです。
夕食は少し凝って、玉子丼を作ってみました。
温かい湯気を浴びながら、本の香りのするカウンターで、それをゆっくり味わいます。
食事の後に、ウィッグを外して、化粧も落とします。そのまま、お風呂タイムです。
湯舟の中で、図書館に出せないほどぼろぼろになってしまった本を読みます。ページが欠けていたり、落書きが酷かったりするものでも、ちゃんと最後まで読み切ります。
ぼろぼろの本は、処理場へもっていき、燃やしてしまいます。その前に、読んであげることが、本にとっての供養になると、私は考えています。
この図書館は、捨てられた本が辿り着く、終の棲家のような場所なのでしょう。それは、私にとっても、同じ意味を持っています。
今夜は、体全体が疲れていたので、ハンモックは使わずに、床に布団を敷くことにしました。
ふかふかの布団に潜り込む前に、やはり曇り空の夜を見上げて、これまでの事などを思い返してしまいます。
江戸時代に隕石が落ちて出来たクレーターに、外れ者たちが住み着いたのが、この『楽園』と呼ばれる場所の始まりだと、伊勢さんは教えてくれました。
それから今まで、国のどこにも属さずに、ひっそりと存在し続けていたと言います。
長い長い闘病生活の後、縁あってここに流れ着いた私でしたが、最初にそれを聞いた時はとても信じられませんでした。そんな、嘘のような場所なんて、存在しているなんて、と。
しかし、伊勢さんの勧めで、昔少しだけやっていた司書の仕事が出来て、私は満足しています。その上、図書館で住むことが出来たので、これ以上の疑問も望みも野暮なものだと思います。
枕元に置いたリモコンで、床の電気を消します。
辺りが真っ暗闇になった中で、自分と本たちだけが、ひっそりと息をしていました。
「おやすみなさい」
今夜も本たちに挨拶をして、私は目を閉じました。
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