第88話 願いをさえずる鳥のうた


 二〇二〇年、世界は大きく変わった。でも、私の生活はあまり変わっていない。

 理科室のドアを開けて、誰もいないことを確認するのも、去年と一緒だった。あまり使われていないから、ちょっと埃っぽくなっているけれど。


 足を踏み入れてから、真っ先に向かうのはいつも窓だ。黒くて裏地が緑色の遮光カーテンを重々しく引いて、その中の窓も開ける。

 今日の天気は曇りだった。白く光る雲が空を覆っている下を、灰色の綿のような雲がぽつぽつ浮かんでいる。風は多少の熱を含んだまま吹いてくる。


 開けっ放しの窓から微かに聞こえる蝉と車の通る音。そこと向かい合うように、大きな机の一つに座る。

 お昼は広い場所で、出来れば一人で摂るようにと言われてから、個人的には過ごしやすくなった。教室から背を向けて出ていくのもいつも通りだが、心なしか足取りは軽い。


 もう一つ、変わったところがある。お昼に見る動画がちょっと変わった。今までは、動物園の檻の中や、水族館の水槽の前の定点カメラを眺めながら弁当を食べていた。

 それらに加えて、毎週水曜日にはある鳥カフェの生配信を見るようになった。そのカフェは、昨今の状況で経営が厳しくなり、週に一回、鳥たちの様子を配信して投げ銭をもらっているという。


 「ひなたひより」というそのカフェは、東京にあるので、行ったことはない。存在も最近まで知らなかったのだが、動画サイトのホームのお勧めで出てきてから見るようになった。

 すでに始まっていた配信を流しながら、弁当箱を開く。スマホを縦向きに立たせてから、イヤホンで音を聞くのが私のいつものやり方だった。


 ひなたひよりには、お客さんが入っていんこやオウムと触れ合えるスペースと、数羽がガラスに隔てられた個室に入っているスペースに分けられている。配信のカメラは、いつもガラスケースの外側に据えられていた。

 毎週、映っている鳥の姿は変わるけれど、今日は初めて見るカナリアのスペースだった。鮮やかな黄色が一匹、ぴょんぴょんと止まり木を自由に飛び移っている。


 現在の視聴者数は四十人前後だった。これが多い方なのか少ない方なのかは分からないけれど、いつもお昼はこれくらいだった。私のように、昼食時に見ている人がいるのかもしれない。

 チャットでは、コメントが次々と流れてくる。金額の大小はあるものの、投げ銭も一緒に。それを読むうちに、この鳥カフェが老舗であること、あちこちにファンがいることを私は最近知った。


 カナリアの動きとチャットの文字を同時に見ながら、弁当箱を開く。今日のおかずはきんぴらごぼうとミニハンバーグだった。おにぎりは鮭のふりかけをまぶして、別のタッパーにはデザートの林檎とサクランボがついている。

 いただきますと手を合わせて、きんぴらごぼうを一口。私は辛いものが苦手なので、母の味付けは甘口になっている。


 チャットによると、このカナリアは「アレッドくん」というらしい。くん付けされていることは、男の子なのかもしれない。

 アレッドくんは、鮮やかな黄色の羽を翻し、止まり木の右へ左へと飛び移っている。体の上の方は鮮やかな黄色だが、おなかの下の方と長い尾羽には白色が混じっている。


 そして、アレッドくんはよく鳴いた。ピロピロピロと甲高く何秒も鳴き続けてから、ひと呼吸おいて、また鳴き始める。

 喉を大きく震わせて、その小さな体から迸ったとは思えないくらいに、その声はよく響いた。ガラス越しでもはっきりと聞こえて、周りの鳥たちの声にも掻き消されない。


 カナリアは、炭鉱では毒ガス検知器として使われていたらしい。鳴き続けている間は、その場所は安全だという基準となる。カメラの前のアレッドくんも、ずっと鳴いている。

 どうしてカナリアは鳴くのだろう。何か言いたいことがあるのだろうか。そんなことをふと思った。


 外に出たい。自由になりたい。ひとりぼっちは寂しい。ご飯が食べたい……いろんな言葉が思いつく。

 それらが、全て現状の不満からくる願いことのようなものだと気付いた時に、はっと息を呑んだ。私は勝手に、自分自身の閉塞感をカナリアのうたに投影している。


 願いをさえずる鳥のうた。

 ……そんな言葉を思いついたのは、その直後だった。


 おにぎりをよく噛みながら、この言葉が頭から離れない。多分、ジャンルを分けたら自由律俳句なのだろう。

 私は俳句や短歌を詠むのが好きだが、一度もそれを発表していない。ノートに書きこむなどもせずに、胸の中に仕舞い込むだけだった。


 お弁当を食べ終えて、デザートの入ったタッパーを開く。林檎の甘い香りが、鼻を一瞬だけ掠めた。

 チャットに送ってみようかな。そんならしからぬことを想ったのは、最後の林檎を飲み込んだ時だった。


 目線を、甲高く鳴いているアレッドくんからチャットに移す。アレッドくんを慈しむコメント、その鳴き声に癒されたというコメントが、下から上へと流れていく。

 ここに自由律俳句を入力するなんて、場違いだ。分かっていても、食事を終えてすることが無くなった指が、滑らかにフリック入力を行っていた。


 『願いをさえずる鳥のうた』が、画面に現れた。それに対して、特に反応もなく、上へと流されて、すぐに消えてしまった。

 急に私は恥ずかしくなった。同じ映像を見ている人たちなら、この私の気持ちも理解してもらえるのかもしれないと思ったのがうぬぼれだった。


 これが、コメントごと残るアーカイブじゃなくて良かったと思いながら、私は、スマホの画面を消そうと思った。この出来事を忘れるために、今度は読書に没頭しよう。

 指がホームボタンを押そうとした時に、現れた新しいコメントに、私は目を見開いた。


『「願いをさえずる鳥のうた」って、自由律俳句ですか? 優しくも、切ない響きが素敵ですね』


 掬ってもらえたという安堵と喜びが、胸いっぱいに広がっていく。自由律俳句だということも伝わった上に、私も気付かなかったことを教えてくれた。

 アレッドくんのさえずりが喜びのうたに変わったのを聞きながら、私は、そのコメントが消えてしまうまで見つめ続けていた。



















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