第87話 幻のトマトを求めて


 暇だったからという理由で、急に来た差唐さしからの呼び出しに応じた。駅前広場の木の前で、彼は珍しくスマホなどをいじらずに俺のことを待っていた。

 すぐに、自分の方に近付いてくる俺に気付いた差唐は、大きく手を振った。見開いた目がギラギラしていて、正直恐ろしい。


「おっせぇよ」

「ベストは尽くしたつもりだ」


 呼び出してきた分際での文句に、こちらもむすっとして答える。

 差唐は俺にさらに言葉を続けようとしてきたが、先に俺が「何しに行くの」と尋ねた。すると、彼は今度は目をキラキラさせて、よくぞ言ってくれましたと胸を張った。


「これから、トマトを買いに行く」

「は?」


 俺は自分の耳を疑った。

 差唐は、何よりもトマトが苦手だったはずだ。細かなトマトが入っているミートソーススパゲッティも食べられないくらいに。一体どうしたのだろうか。


「お前、いつの間にトマトを克服したんだ?」

「いや、克服していない。だからこそ、食べたいんだ」

「ん?」


 ますます訳が分からなくさせる差唐の答えに、俺は大きく眉を顰める。

 差唐は、俺の不信を無視して、うっとりと目を細めた。


「正直、俺はトマトに並々ならぬ興味を抱いていた」

「へえ」

「最初に思ったのはそう、カービィをプレイした時だ。カービィが体力を全回復するアイテムがトマトだろ? あれはどんだけ旨いんだと思ってな」

「まあ、確かにな」

「あと、ジョジョに出てくる、トマトとモッツァレラチーズの料理。あれも垂涎ものだった」

「それは分かるけど」

「それから、映画の『アタック・オブ・ザ・キラートマト』。あれは、トマトが人間を襲うという恐ろしい映画だが、でっかいトマトが出てきて、あれはどんな味がするのだろうかと思った」

「なんでだよ」

「他にも、ゲームでいえば『トマトアドベンチャー』と『サラダの国のトマト姫』、リアルすぎるトマトのガチャガチャ、ボカロにも『いいからトマト食え』という曲があるし、『トマトさん』という絵本に『トマト』という童謡、何よりもスペインのトマティーナことトマト祭り、さらには」

「ちょっと待て、ちょっと待て」


 興奮して話すスピードが速くなり、鼻息も荒くなる差唐を俺は慌てて止めた。

 そして、この興奮に水を差すようだが、どうしても確認したいことをぶつけた。


「けど、お前、トマトの匂いを嗅いだだけで気分が悪くなるだろ」

「それなんだよーーーーー」


 差唐はそう叫んで、日曜日の駅前で、膝から崩れ落ちた。顔を両手で覆い、腕はわなわなと震えている。


「どんなにトマトに憧れていても、どうやってもトマトを食べることをできないんだよ……」

「お、おお……」

「なんという矛盾! いや、悲劇! さしずめ、俺とトマトはロミオとジュリエットか!」

「お前が一方的に苦手なだけだろ」


 ひとしきり嘆いて落ち着いたのか、差唐は立ち上がり、ズボンの膝についた汚れをパンパンと落とした。

 今度は、気持ち悪いくらいの満面の笑みで、俺の方を見た。


「だけどな、次上つぎうえ、朗報だ。どんなトマト嫌いでも、食べられるトマトがあるらしい」

「俺にとっては朗報じゃないんだけど」

「そのトマトを食べに行くぞ!」


 感情ジェットコースターな差唐に対して、俺は至極冷静に受け答えできるようになっていたが、やはり言いたいことは言いたい。


「一人で行けないんだな」

「だって……知らない町に一人でって心細いじゃないか」

「電車乗るんだったら最初から言っとけ」


 俺はクレームついでにため息をつく。ただ、差唐はぴんと来ていないらしい。

 こういう差唐の無茶ぶりは今に始まったことなのではないので、俺が呼び出しに応じた時点で負けである。


 その為、俺は差唐の案内する通りに電車に乗り、聞いたこともない街に向けて出発していた。






   〇






 知らない町の駅前商店街、路地裏を一本入ったところをしばらく進んだ先に、差唐が目指す八百屋があった。

 「八百」と書かれているが、最後の一文字が消えて読めなくなっている看板を俺たちは茫然と見上げていた。


「……本当にここで合っているのか?」

「……たぶん」


 俺の質問に対して、普段から意味のない自信をみなぎらせている差唐も、流石に今回は不安げに答えた。

 その八百屋は、店頭に一つも野菜を陳列させずに、入り口のガラスの引き戸をぴったりと閉めていた。電気のついていない店の中もからっぽの陳列棚だらけで、誰もいない。


「閉店してんじゃないのか、ここ」

「いやー、そんな話は聞いていないんだけど……」

「そもそも、お前、そのトマトの情報をどこから手に入れたんだ?」

「お袋が井戸端会議で聞いたらしい。ネットより信憑性あるだろ」

「怪談における、友達の友達の話くらいのうさん臭さだと思うぞ」


 そんな話をごちゃごちゃするが、差唐は決して諦めて帰ろうとは言いださない。

 俺の方からさりげなく切り出してみようかと窺っていると、差唐は恐る恐る正面のガラス戸に手を書けて、左に引いてみた。鍵はかかっていないようで、するっと開いた。


「お邪魔しまーす……」

「おい、不法侵入じゃないか、これ」


 身を屈めて、店の中をきょろきょろ見渡しながら、差唐はそこへ入っていく。

 俺は、流石に友人を捨てて逃げることも出来ないので、訴えられることも覚悟し、その後ろをついていく。店内は、八月の太陽が照り付ける外とは違い、思ったよりも快適だった。


「クーラーついているな」

「うん。やっぱ、やってるんじゃねぇの?」


 差唐の声は明るくなっていたが、やはり野菜のない八百屋は不気味だ。

 不信感を募らせる俺をよそに、差唐は目の前の閉まっている障子……恐らく、あの奥は店主の居住区になっているのだろう、に向けて、「すいませーん」と声を掛けた。


 と、突然、俺たちの頭上にある蛍光灯が瞬きながら灯った。俺たちは顔を見合わせる中、店の奥からペタペタと足音がする。

 障子が開いて現れたのは、薄紅色の長めのワンピースを着た妙齢の女性だった。黒髪を頭のてっぺんで大きなお団子にしていて、涼やかな目鼻立ちをしているけれど、無表情だ。


「いらっしゃいませ」


 女性は抑揚のない声でそう言って、サンダルを履きながら店の側に降りてきた。ここの店員らしいが、こんなに愛想のない「いらっしゃいませ」を初めて聞いた。

 急展開に俺が戸惑っていると、横の差唐は意を決したように、すいませんと、その店員に声を掛けた。


「ここに、どんなトマト嫌いでも食べられる幻のトマトがあると聞いたんですが」

「ええ。ありますよ」


 店員は、あっさりと頷く。当然のように肯定するので、俺たちは言葉の意味を飲み込めず、きょとんとしていた。

 その間に店員は、俺たちの目の前にある、横に長い陳列棚の下の方を横に開けた。それは冷蔵庫になっているようで、白い冷気と共に掌より少し大きめの桐の箱を取り出す。


 パカリと蓋を開けると、その箱の中には真っ赤に熟したトマトが一つ、ヘタを下にした状態でぴったりと収まっていた。まるで、マスクメロンのように木屑の中に鎮座している。

 確かに、ルビーのように赤色が綺麗なトマトだけど、これといって特別なところはないように思える。そう思っていたが、隣の差唐は生唾を飲んだ。


「これは良いトマトだ……」

「見ただけで分かるのか?」

「トマトのお尻に、黄緑の線がくっきりと放射状に伸びているの、見えるか?」

「ああ」

「あれはスターマークと言って、旨いトマトの目印なんだ」

「……お前、本当に詳しいな」


 俺は、差唐のトマトへの知識と愛に、呆れるやら関心するやらで妙な心持ちだった。

 差唐は素直に褒められたと受け取ったようで、ふふんと鼻を高くしている。また、この一言は間違っていないようで、店員は大きく頷いた。


「たったこれだけでこのトマトの素晴らしさに気付くとは、あなたは素晴らしい観察眼をお持ちですね」

「あ、ありがとうございます」

「このトマト、そんなにすごいんですか?」


 まだ納得のいっていない俺は、正直に質問してみた。

 店員は、無表情のままだったが、ゆっくりと俺の方を向いて、口を開いた。


「品種自体が特別というわけではありません。詳しくは申し上げられませんが、普通のトマトよりも手間暇をかけているため、これほどまでの味になるのです」

「はあ……」


 「これほどの味」と自信満々に言われても、実際に口にしたわけではないので、気のない返事をするしかない。

 一方で差唐は、うっとりとした表情で店員の言葉を聞いていたが、はっとしてリュックの中から財布の取りだした。


「で、おいくらですか……」

「すみませんが、今すぐこのトマトをお売りすることはできません」

「えっ」


 トマトが登場してから、ずっと上気していた差唐の顔色が、みるみる青褪めていった。この日一番の動揺が、泳いだ目に現れている。


「もしかして、予約が必要だったんでしょうか」

「いいえ。そのような制度は取っておりません」

「では、何で……」

「あなたには、トマトへの愛を見せてほしいのです」


 淡々と放たれた店員の一言は俺たちの予想もしていないもので、同時に「ん?」と眉を顰めた。


「これから、トマトに関する問題を二種類出題します。そちらに全問していただけた方のみに、このトマトをお売りいたしています」

「なるほど。そうやって試しているのですね」

「え、納得したのか?」


 店員の一言に、差唐は再び体全体から自信を漲らせた。

 俺はまだ、展開についていけないというのに、お前は何を察したんだ。初めてカードゲームするアニメの主人公だって、もう少し尋ねるなどして状況を把握しようとするぞ。


「さあ、早く出してください」

「その前に、あなたは付き添いの方ですか?」


 ふいに、店員が俺の方を向き直った。

 未だきょとんとしている俺の代わりに、差唐がにこやかに答える。


「ええ。俺の戦いを見届けに来てくれました」

「いえ、巻き込まれただけです」

「あなたが何かしらアイコンタクトなどでヒントを与えては困ります。後ろの方で、見ていてもらえませんか?」

「あ、はい。分かりました」


 初めてクイズのことを訊いたのに、ヒントも何もないんじゃないかとは思いながらも、話がややこしくならないように、俺は差唐の背後に回った。

 一度振り返った差唐は、きりっとした顔を作って親指を立てた。


「次上、俺は必ず全問正解するから、心配するな」

「そうか」


 差唐は俺からの熱い一言を期待していたようだったが、何も返す言葉が無いので普通に返答した。

 思い通りの答えがもらえなかったことの落胆を隠そうとせずに、差唐はそのまま前に向いた。


「では、最初の問題です。こちらは全五問の、トマトに関する知識問題です」

「分かりました」

「第一問」


 店員は感情の全く籠っていない声でそう言う。まるで、クイズを出題することが存在意義であるロボットであるかのようだった。


「トマトの原産国は?」

「アンデス山脈」

「正解」


 最初の問題は、トマト好きにとっては当然のものだっただろう。正解と言われても、差唐は喜んでいない様子だった。


「第二問。トマト以外にリコピンが含まれている野菜は?」

「ニンジン」

「正解。続いて、第三問。かつて、アメリカでトマトに関する裁判が起きました。その理由は?」

「トマトは野菜か果物か」

「正解。第三問。『赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり』……この句を詠んだのは誰?」

「斎藤茂吉」


 差唐は、どんな問題にもすらすらと答えていく。その無駄のないラリーに俺はくらくらしてきた。

 トマトで裁判が起きたなんて、知らなかった。赤茄子のうんたらかんたらという句は国語の教科書で見たような気がするが、その作者までは覚えていない。


「では、最終問題です」

「はい。お願いします」


 そんな俺を置いてけぼりにして、二人の間の緊張感は高まっている。


「トマトは、とある毒のある植物に似ていたため、輸入された当初のヨーロッパでは食べられていませんでした。その植物の名前は」

「ベラドンナ」

「……」


 差唐が答えを言った後でも、店員はすぐに答えない。まるで一千万円がかかっているクイズ番組並みにたっぷりと間を取った後、


「……正解」


 その一言だけ、全くの感情を込めずに放った。

 俺には差唐の背中しか見えなかったが、彼の髪の毛が喜びのあまり逆立つのが分かった。


「よっしゃー!」


 ガッツポーズをして、何度も飛び跳ねて、酷く嬉しそうな差唐だが、もしかすると、もう一種類のクイズがあるということを忘れているのかもしれない。

 そんなテンション天井知らずの差唐を無視して、店員は先ほど幻のトマトを取り出したのと同じ冷蔵庫から、一口大にカットされたトマトが入った小鉢を取り出した。それも、一つではなく、色の異なるトマトが全部で五種類もある。


「最後の問題は、これらを目隠しした状態で食べていただき、品種名を答えてもらいます」


 それを聞いた瞬間、昇竜拳のようにジャンプして空中で回転していた差唐の動きが、ぴたりと止まった。

 それからゆっくりと、店員の方に前のめりになり、聞き返す。


「……これを食べるのですか?」

「はい。何か不都合でも?」

「俺、トマトは食べられないんです」


 今くらいならいいだろうと、差唐の顔を見ようと身を乗り出した俺の前で、あいつはこの上ないドヤ顔で言い切った。


「しかし、匂いだけですべて当てる自信があります」

「分かりました。では、このアイマスクを……」


 おい、今のはキメるところじゃないぞと心の中で突っ込む俺をよそに、二人は次のクイズの準備をしている。

 目隠しをした差唐に、アイコンタクトもへったくれもないので、俺は店員の許可を得て、差唐の真横に立った。


「では、これが番号一番です」


 店員は差唐の眼の前に来て、スプーンに救った黄色いトマトの欠片を、差唐の鼻の下に近付ける。

 スンスンと鼻で匂いを吸った差唐は、一瞬だけその顔を仰け反らせた。「うう……」と呻き声を挙げながらも、気を取り直して、「分かりました」と苦しげに言う。


 次から次に運ばれてくるトマトの匂いを嗅ぎながら、差唐は随分疲れているようだった。目隠しをしていても、顔を顰めているのは分かる。

 最後のトマトの匂いを嗅ぎ終わった時には、口元を抑えていた。吐きそうになっているのをこらえているらしい。


「では、アイマスクをお取りください」


 陳列棚の上にあったトマトの小鉢をもう一度冷蔵庫に片付けた後に店員はそう言った。

 差唐の、試験の時にも見せたことのない真剣な眼差しをよそに、俺はカンニング対策のために再び後ろに下がる。


「一番、キャロルイエロー」


 差唐の声が、そう宣言する。

 店員は、冷蔵庫から黄色いトマトを取り出す。それを見た差唐が、右手で小さくガッツポーズをした。正解だったらしい。


「二番、グリーンゼブラ。三番、桃太郎。四番、フルーツトマト」


 次から次からへと、答えを言う差唐に合わせて、店員は緑色のトマト、赤いトマトを二つ取り出す。

 三番と四番の違いは見た目では分からなかったが、店員は差唐の言葉に力強く頷いた。


「……五番、ピッコロカナリア」


 最後の答えを聞いて、店員はオレンジ色のトマトを取り出した。

 そして、無表情のまま、メトロノームのように完璧なリズムで拍手を送る。


「おめでとうございます。全問正解です」


 マジで、匂いだけでトマトを判別した……。俺は友人の偉業に唖然としていた。

 差唐は、最初のクイズの時よりも飛び跳ねて喜ぶかと思ったが、何も言わず、固まっている。そっと顔を覗き込んでみると、彼は唇を噛みしめて、涙を堪えていた。


「差唐、お前……」

「俺は、嬉しいよ、次上」


 ずずっと、差唐は鼻をすすった。


「十六年前、離乳食のトマトがすっぱすぎて食べられなくなってしまったんだが、こんな形でチャンスが来るなんてな。やっと今、俺のトマトへの想いは結ばれるんだ」

「そ、そうか」


 ごしごしと手首で涙を拭う差唐との温度差をひしひしと感じる。

 改めて、差唐はリュックから財布を取り出し、笑顔で尋ねた。


「店員さん、トマトはおいくらですか?」

「一万円です」

「おお……」


 さすが幻のトマト、恐ろしく高い。思わず声の出た俺の隣で、差唐は財布を開いたまま、ぴたりと止まった。


「どうした?」

「……足りない……」

「は?」


 聞き返した俺の言葉を無視して、差唐は大粒の汗を流し出した。こいつ、本気で焦っていやがる。

 そして、俺にすがるような目を向けてきた。


「次上、あと二千円でいいんだ、貸してくれないか?」

「まあ、そんくらいなら……」

「駄目です」


 ズボンの後ろポケットから財布を取り出した俺をぴしゃりと制したのは、店員だった。

 俺たち二人の驚きに満ちた表情を受けて、店員はやはり感情を込めずに答える。


「こちらのトマトは、必ずお客様の懐から出していただいたお金で買っていただかなければなりません。それが、トマトに対する誠意でございます」

「……なあ、お前、銀行の預金とかある?」

「……ない。お年玉とかは、親に預けてもらっているし、手持ちは今ので全部だ」


 ここまで来て、どうにもならない問題にぶつかった差唐を俺が憐れに思っていると、店員は深々と頭を下げた。


「誠に申し訳ありませんが、また来年にいらしてください」

「……分かりました」


 踵を返した差唐に続く形で、俺も八百屋から出た。

 外はアスファルトが照り返しで白く光り、こんな街中でも蝉がどこかでやかましく鳴いている。


「差唐、大丈夫か?」

「……こんなにショックなの、フラれた時以来かもしれない」


 心の中で、並べるなよ! とツッコんでいたが、落ち込む本人を前に言えるはずもなく、俺も神妙な顔を作って頷いた。


「でも、チャンスが完全になくなったわけではないから、深刻になりすぎるなって」

「……うん、そうだな」

「せっかく遠出したんだし、うまいもん喰って帰ろうぜ」

「……そうだな」


 肯定の言葉以外を忘れてしまったかのような差唐の背中を押して、俺はとりあえず歩き出した。もちろんあてなどないので、マップで評判のいい飲食店とか探してみよう。

 また鼻をすすっている差唐に対して、何と声を掛けたらいいのか分からない。食後にテンションが戻ったらいいけどとか思っていることに気付いて、なんで俺がこんなに気を使わなければならないんだと、自分で自分に呆れてしまった。
























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