第86話 雨の夜は妖怪祭りへ
夕方くらいから分厚い雲が立ち込めてきて、塾が終わる頃には大雨になっていた。
バス停の前にあった閉店中の洋服屋さんのひさしに入って、空を見上げる。雨は激しくはないけれど、何時間も降り続けてしまいそうだった。
私はため息をついた。折り畳み傘がある濡れないけど。
ただ、この雨で花火大会が中止になってしまうのが寂しかった。小学五年生の夏休みに、夏期講習のスケジュールをこなせたのは、この後自分の家で花火を見るという楽しみがあったから。
残念だけど、しょうがない。もうそろそろバスが来るかなと右側を見たとき、黄色のレインコートを着た影が、バシャバシャ走ってくるのが見えた。
私よりもずっと小さなその影は、ちょうど私の目の前で何かを落とした。
「おーい、落としたよー」
私は小さくなっていくその子の背中に呼びかけたが、気付かなかった。
交番に届けておこうとその落ちているものを確認すると、それは一枚の葉っぱだった。
一瞬だけ濡れてもいいから、葉っぱを拾ってみた。
私の手のひらに収まるくらいの大きさで、結構厚みがあり、緑色だけど黄色い線がいくつか入っている。
このあたりの街路樹でも見ない葉っぱで、どこで拾ったんだろうと思いながらくるくる回していると、バスが到着した。
私は無意識に、葉っぱを持ったまま、バスに乗ってしまった。席に着いてからもそれを捨てられずに、そのままぼんやりと窓から外を眺めていた。
□
『終点でーす』
運転手さんのマイク越しの声に驚いて、私は目を覚ました。
慌てて立ち上がり、外を見る。雨は上がっているが真っ暗で、どこかの森の中のようだった。
誰もいないバスから降りて、ドアが閉まる音を聞いた直後に気が付く。……バスターミナルでもないのに終点って、ここはどこ?
すぐ振り返ったが、バスはもう走り出していた。
どうしよう……と立ち尽くしていると、「うわああああん」という男の子が泣いている声が聞こえてきた。
バスが走っていった方向の先、ぼんやりとオレンジ色の光が灯っている所で、黄色いレインコートを着たあの子が泣きじゃくっていた。その前には節分の鬼のお面をかぶった男の人が立っている。
私はそちらの方へ歩いてみた。
二人の後ろには、お祭りの入り口のような赤い提灯の門が設置されている。耳を澄ますとお祭りのざわめきが、鼻をひくひくさせるといい匂いがしてくる。
「いやだ! 絶対にお祭りに行くんだ!」
「そう言ってもね、入場券がないと」
「やだーーー!」
腕を組んでいる男の人は、駄々をこねる男の子に困っている様子だった。
もしかして、と私はまだ持っていた葉っぱを見た。
「あのー、入場券ってこれですか?」
私が葉っぱを見せながら声をかけると、こちらに振り返った男の子はわっと歓声を上げた。
「そうだよ! これ!」
「バス停の前に落ちてたよ」
「お姉ちゃん、ありがとう!」
男の子は私から葉っぱを受け取って、ビーチサンダルをはいた両足で何度も大きくジャンプしていた。
偶然とはいえ、葉っぱを持っていて良かった。あとは、なんだか納得したように顎に手を当てているこの男の人に、帰り道を教えてもらおうと思っていたら、急に男の子が私の手を握った。
「おじさん! このお姉ちゃんもお祭りに招待してもいい?」
「うーん、まあ、条件を守ってくれるなら、特別に……」
「え? え?」
二人の間に勝手に話が進んでいて、私は戸惑ってしまう。
でも、花火が見れなかったから、どこなのか分からないお祭りでもいいから見てみたいかも……。
「お嬢さん、今夜、ここで見たことを誰にも言わないことと、何も持ち帰らないことを約束してくれるなら、招待できるけれど、いいかい?」
「わ、わかりました」
「もしも約束を破ったら、ここでの出来事は全部忘れてしまうからね。じゃあ、お祭りを楽しんで」
鬼のお面を被っていても、その人はすごく優しそうにそう言ってくれた。
私が頷くと、男の子はやったーと大喜びして、私の手を引いたまま、門をくぐった。
「坊や、レインコートはここに預けておいて」
「はーい」
すぐに、横から声を掛けられる。その相手を見て、私は完全に固まってしまった。
預り所にいたのは、ろくろ首だった。体は綺麗な赤い着物を着ていて、顔も普通の女性なのに、首だけがカウンターから出てくるくらいに長かった。
これは夢なの? と混乱している私の目の前で、レインコートを脱いだ男の子が通り過ぎた。
「どうぞ」とレインコートをカウンターに置いたその子には、三毛模様の尻尾と、同じ模様の猫の耳が生えていた。
「じゃあ、お姉ちゃん、行こうよ!」
「ちょっと待って、君は……」
「僕の名前は、ミケ太。なりたての猫又なんだ」
えっへんと甚平を着た胸を張るミケ太。後ろで尻尾がゆらりと揺れた。
「お姉ちゃんの名前は?」
「私? 丸山理香」
「理香お姉ちゃん! 行こう!」
いまだに信じられずに、自己紹介した状況もよく分からない私の手を、ミケ太は引っ張っていく。
そうして入っていったお祭りの会場は、石畳の両端で挟むように屋台が並んでいた。それは普通のお祭りと何ら変わらないけれど、見える顔は全然違う。
すれ違う人の頭には角が生えていたり、ミケ太のように動物の耳や尻尾があったり、目の数が一つだけだったり三つ以上だったり……どこを見ても、みんな昔話や絵本に出てくるような妖怪たちばかりだった。
だけど私は、全然怖くなくて、むしろわくわくしていた。妖怪たちがみんなにこにこしていて、とても楽しそうだからかもしれない。
「おっ、ミケ太も来たのか!」
「あ、店長さん、こんにちはー」
屋台からそう声をかけてきたのは、焼きそばを焼いているのっぺらぼうだった。頭には白いタオルを巻いて、汗を掻いている。
ミケ太はのっぺらぼうと知り合いのようで、親しげに話している。
「焼きそばはどうだ?」
「うん! 食べたい!」
「そこのお嬢さんは?」
「あ、はい。いくらですか?」
「いいのいいの! 妖怪の祭りだから、お金なんて!」
店長さんは、口がないけれどそう言ってゲラゲラと笑ったので、ありがたく焼きそばをいただいた。
そのまま焼きそばを食べながら、ミケ太と色んな屋台を回った。河童はアオガエルすくいを、鴉天狗が吹き屋さんを開いていた。
ゲームもタダで遊べたけれど、持ち帰ってはいけないと約束しているから、取れたものは全部ミケ太にあげた。狐と狸の化かし合いを見てから、雪女の吹雪から作るかき氷をもらい、ミケ太と屋台の間のベンチに座って食べていた。
「おう、ミケ太の坊やじゃないか!」
ふと、頭上から声がして顔を上げた。
屋台の上に、三本足の鴉が一匹のっていて、陽気に話しかけてきた。
「八咫烏さん、こんばんは!」
そこでミケ太は、入場券を落としてしまったけれど、私が拾って届けてくれたのだと説明してくれた。
八咫烏はそれを聞いて、驚ているようだった。
「へぇー、わざわざ、感心だねえ」
「いえ、偶然、持ったままバスにのっちゃたら、ここに着いちゃったみたいで……」
「そうかい。入場券の妖力が、お嬢ちゃんを導いてしまったのかもねえ」
「あの、入場券っていうのは何ですか?」
「あれはな、この会場に入るために必要なんだよ。あれがないと、悪さをしようとする妖怪や、ごくたまに迷い込んでしまう人間もいちゃうからね、あれで整理しているんだ」
「僕はお祭りが初めてだったから、どうしても入りたかったんだ」
それからしばらくみんなで話している内に、かき氷を食べ終わったので、私たちは八咫烏と離れて、会場の奥の方へと向かった。
だけど、妖怪たちの流れは私たちとは逆方向になっている。私は、物珍しそうにきょろきょろするミケ太の肩を叩いた。
「ねえ、ミケ太、あっちの方になんかあるんじゃない?」
「え? こっちが空いてるよ?」
ミケ太がそう返した直後に、背後で「ドーン」と大きな音が響いた。
私が後ろを振り返ろうとしたが、それよりも早く、ミケ太は尻尾と耳の毛を逆立てて跳び上がり、ダッシュで逃げ出した。そのまま、一番近くの木に、手と足の爪を立てて、あっという間に駆け上っていった。
私は驚いて、木の上で縮こまっているミケ太の後を追いかける。この反応、雷にびっくりした猫と似ている。
私はまだ「ドーン」という音が響いている中で、「ミケ太ー?」と優しく呼んでみた。
「怖いよー」
「大丈夫、あれは綺麗なものだよ。一緒に手を繋いでみようよ」
「……本当?」
ミケ太は恐る恐る、木から降りてきた。だけどまだ目をつぶっているので、その手を優しく引いて、正面を向かせてあげる。
「ほら、見て」
「わあ……」
私たちの目の前には、大きな花火が、何発も連続して咲いていた。
音が鳴るたびに、ミケ太の手に力が入るけれど、輝いた瞳は花火に夢中だ。
「私にとって、最高のお祭りになったよ」
私はそう呟いた後に、でもミケ太にとっては違うのかもしれないと思った。私はこの一回限りの妖怪たちの祭りだけど、ミケ太はこれからも何回も参加出るのだから。
でも、ミケ太は首を横に振った。
「僕は、理香お姉ちゃんがきれいなものを教えてくれた今日のお祭りが、一番だよ、これからもね」
「ありがとう」
私たちは照れ笑いを浮かべて、そのまま、色とりどりの花火に見惚れていた。
□
祭り会場から出て、歩いて帰るというミケ太と別れると、バス停に丁度バスが着いた。
それに乗ったらあっさりと私が暮らす町に帰ってこれた。両親からは遅くなったことを心配されたけれど、コンビニで立ち読みしていたと誤魔化しておいた。
それから数日後。
塾の帰りにいつも使っているバス停に行くと、洋服屋さんの前で、寝そっべっている三毛猫がいた。
首輪はしていないが、私と目が合っても、近付いてみても、逃げようともしない。
試しに頭を撫でてみたら、嬉しそうに目を細めた。
「君はミケ太なの?」……そう聞いてみたかったけれど、もちろん黙っていて、ゴロゴロ鳴らすの猫の首の下をこちょこちょくすぐった。
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