第84話 サンダルでダッシュ!


 「神聖な舞台でサンダルを履くなんて」と、俺たちの漫才を初めて見た人は、相方の足元を見て大体そう言う。

 「そんなやつらを驚かせるような漫才をしてやろうぜ!」と、相方はいつも息巻くが、そのサンダルはむしろこのコンビの足を引っ張っているような気がしてならない。


 確かに、素足や踵を潰したスニーカーで漫才をしている偉大なる先輩方もいる。しかし、俺たちがそれをするにはまだ箔が足りないのではないかと思う。

 「十二年もやっとけば箔も出るだろ」と相方は胸を張るが、そういうことはM-1の準決勝まで進出してから言ってほしい。


 ……そんなことを、完全に行き詰ったネタ作り中に、相方の足元を見ながら考えていた。

 場所は、俺の家からも相方の家からも遠い公園。ファミレスも全席禁煙になっている昨今、ここくらいしか煙草を吸いながら話せないという相方からのご指名である。


 そんな相方は、鉄棒に背中を預けて、右手の煙草を忙しなく吸いながら、何やら考え込んでいる。セブンスターの煙が、夜の入り口の空にもくもくと消えていく。

 二月の下旬でも、彼はサンダルである。スポーツブランドの黒いサンダルを右足から脱いで、ジャージの長ズボンに包まれた左足の脛をがりがり掻いている。


「西平、寒くないの?」

「は?」


 何を今更という視線を、西平は投げかける。そして、上げていた右足の指を、ムカデのようにうねうね動かした。


「俺はいつでも臨戦態勢だからな」

「答えになってないぞ、それじゃあ」


 このやり取りも、もはや定番になっている。舞台上でもちょくちょく見せているくらい。

 こんな年中サンダル男だが、西平の舞台衣装は結構フォーマルだ。サンダルとジャケットの組み合わせがかっこいいとか、女性ファンから言われることも多少ある。年中サンダル男の癖に。


 まあ、こういうことを話したり考えたりしている時点で、ネタ作りは完全に袋小路だ。

 西平も、携帯灰皿に煙草を入れながら「今日はここまでにするか」と言ってきたので、俺も頷く。公園の出入り口まで歩きながら、西平はポケットに入れていたマスクを付け直した。


 住宅街は、ゆっくりと闇に沈んでいく途中だった。街灯もまだ点いていなくて、空の色も黒というよりも青に近い。

 通行人の姿もまばらだった。散歩中の犬が電柱に小便しているの眺めながら歩いていると、西平が「なあ」と話しかけてきた。


「たまにテレビとかで、枕草子のことを昔のSNSとか紹介されているの、なんかムカつかない? なんで現代の価値観にすり合わせなきゃならないんだって」

「言いたいことは分かるが、知らない人に興味を持ってもらうためなら、そういう紹介も仕方ないんじゃないかな」


 そんなことを、ぷつぷつ砂抜きをしているシジミのように話す。俺たちは、仕事の話以外は大体小説や文学の話をしていた。

 元々、お笑いサークルで二人だけの文学部出身だったので、俺たちの共通項は「お笑い」と「文学」だ。コンビ名の「みちくさカッパ」も、俺が夏目漱石、西平が芥川龍之介が好きなことが由来になっていた。


「じゃあ、千年後の未来では、『ノルウェーの森』を昔のニファリィシーって紹介すんのかな」

「なんだよそれ」

「いや、千年後はどうなっているか想像もつかないから、適当に。だって、千年前の人間が、未来では紙を使わずに世界中の日記を好きな時に読めるようになるって、予想できるわけないだろ」

「でも、そのニファ何とかは何なのか、ちょっとくらい考えてみようぜ」

「あー、まあ、そうだなー」


 俺の無茶ぶりに、西平は苦い顔をして考え込んでいる。

 こういう雑談と大喜利もどきから、ネタが生まれることもあるので、馬鹿にはできない。正直、西平の悩んでいる顔が面白いっていうのもあるんだが。


 目線を前の方に向けると、五十メートル先が十字路になっていて、商店街が真横に走っている。あっちの方は住宅街よりも早めに点灯しているためか、煌々としている。

 ふと、その商店街の中、俺たちの左手側から、女性の甲高い悲鳴が聞こえた。俺も、腕組みをしてペタペタサンダルを鳴らして歩いていた西平も、驚いて足をぴたりと止めた。


 建物の向こうなので何が起きたのか分からないが、叫び声とは違う人の声で「ひったくりー!」という声が響いた。

 直後、サングラスにマスク、薄紅色の肩掛け鞄を握りしめた男が、左から右へと、俺たちが見ている十字路へと走りながら差し掛かった。


「待てっ!」


 あれがひったくり犯かと、俺が認識すると同時に、西平がそちらに向かって走り出した。

 一生懸命サンダルでダッシュする西平の姿は、正直滑稽だった。そもそもサンダル履きじゃなくても、この距離からひったくり犯を捕まえられるはずがない、俺はそう呆れていた。


 しかし、西平は、自身のほぼ真正面にいるひったくり犯に向かって大きく右足を蹴った。勢い良く、右足から離れたサンダルが片一方が飛んでいく。

 そのサンダルは、ひったくり犯には当たらなかった。しかし、膝辺りで目の前を横切った黒い物体に気を取られたひったくり犯は、驚きのあまり、つんのめって転んだ。


 うつ伏せに倒れたひったくり犯に向かって、弱った虫を見つけた蟻のように、周りの人間がわっと群がる。人が多くてよく分からないが、このまま取り押さえてしまったらしい。

 それを見た西平は、まるで三振を取ったピッチャーのように力強いガッツポーズを決めた。


「よしっ!」

「お前は両津勘吉か」


 一部始終を後ろで見ていた俺は、反射的にそうツッコんだ。

 実際に、こち亀にこういうシーンがあるかどうかは知らないが、そんなイメージがある。


 出来るだけケンケンで自分のサンダルを取りに行こうとする相方、そしてひったくり犯に群がる人たちに自転車に乗った警察官とバッグを盗られたと思しき女性が加わるのを呆然と眺めて、なんてカオスな状況だろうと考えていた。

 一方で、「相方がサンダルでひったくりを捕まえた話」として、劇場のトークコーナーとかで使えそうだなと、打算的な自分がそうそろばんをはじいている。


 ただ、この話を実際に劇場で披露する日は、それから三か月も先になるとは、俺自身思ってもいなかった。






   □






 自分でも戸惑うくらいの高揚感を胸に抱いて、俺は劇場の建物を仰いだ。

 こんな気持ちになったのは、デビュー一年目、初めてここの舞台に立った日以来だという懐かしさも、そこへ去来する。


 裏口から入ってから、一度スタッフに声をかけてから検温と手の消毒をする。自分の体温が平熱だと分かると、途端にほっとする。

 楽屋の方では、すでに数名の芸人たちが集まっていた。それぞれと目を合わせて、マスクをしたままで「おはようございます」「久しぶり」と声を交わす。


 みんなが笑っていることが、長い付き合いのためなのか、眼元だけでも何となく分かった。またこの舞台に立てる、お客さんの前でネタができる、そんな率直な喜びが、楽屋内を満たしているようだった。

 もちろん、全てが元通りではない。百名以上入れる客席は三十名以下だと聞いていたし、楽屋内の出番のある芸人もいつもより少ない。


 テーブルの上には、対面の相手と仕切るようにアクリル板が置かれていた。そんなテーブルの一つの椅子に座り、俺はツイッターでこれから出番だという呟きを送った。

 そこへ、西平が「よーっす」と言いながら入ってきた。相変わらずのサンダル姿で、早速一番近くにいた先輩の松川さんからそれをいじられている。


 西平は、俺を見つけると、すぐに真正面に座った。椅子のそばに、背負っていたリュックを下ろす。


「リハーサル、いつからか?」

「もうちょい先。色々都合が違うらしいから、早めに着替えて準備しとけよ」

「おう」


 早速西平は着替え始める。

 ただ、舞台衣装に着替えても、これから一服するのが彼のルーティンだから、まだネタ合わせ出来ないことは分かっている。俺は十分ぐらい置き去りにされた。


 やっと、廊下でネタ合わせをする。どれくらい離れればいいのか分からないが、それなりの距離を意識しておく。

 やるネタは、自粛期間中に完成した「千年後」のネタだった。三月の初めには形になっていたが、なんだかんだで今日披露するのが初めてである。不安はあるが、それ以上に楽しみが勝っていた。


「ツカミはどうする?」

「いつも通りのにプラスして、この状態をいじれたいいんだが、如何せん客席の様子が分からないと何ともなぁ」

「まあ、その場の感じを見て言えば大丈夫だろ」


 そこまで頭が回っていなかった自分を悔いるように、髪を掻きまわす俺に対して、西平は堂々としている。

 妙なところで肝の座っている所のある西平だが、こういう時は頼りにならないというか、もうちょっと考えてほしいと思う。


 色々している内に、三番目である俺たちの出番があっという間に来た。他の漫才師のネタを袖で見ておきたかったが、今回は禁止されているのがもどかしい。

 俺が下手、西平が上手にスタンバイする。向こう側の相方が、明らかに緊張している顔ながらも、口の端が上がっているのが見えた。


『健三が遠い所から帰って来て駒込の奥に世帯を持ったのは東京を出てから何年目になるだろう。彼は故郷の土を踏む珍らしさのうちに一種のさびさえ感じた』


 同期の森村が朗読する、夏目漱石の『道草』の冒頭が響く。俺たちの出囃子は二パターン合って、この『道草』と芥川龍之介の『河童』の冒頭を交代で流している。

 これを提案したのは西平だった。朗読とはさすがに尖りすぎだろうと俺は反対したが、こうまでしないと埋もれると押し切られてしまった。


 上手から飛び出した西平が、小走りで右側に置かれたマイクの元へと向かう。サンダルでダッシュする姿を追いかけるように、俺も続く。

 二人の真ん中にはアクリル板、距離はぴったり百八センチ、そしてセンターマイクの代わりにそれぞれの前に置かれたスタンドマイク、まばらな観客と隙間の目立つ客席と、大きな拍手。何もかも違う、でも、ここに戻ってこれた、それがただただ有り難い。


「どうも、みちくさカッパの野元です」

「宿代が払えなかったので、友達を人質にして高飛びしました、西平です」

「それ、太宰治のエピソードな。『走れメロス』の元ネタになったやつ」


 西平が、文豪の豆知識を披露して、俺がそれを補足するいつものツカミのパターンも、温かい笑い声と共に受け入れられた。

 内心ガッツポーズをしながら、俺は観客席を見回して続ける。


「いやー、こうしてまた、お客さんの前で漫才ができるのが嬉しいですよ」

「ほんっと、見に来てくださった皆さん、ありがとうございます。もちろん、配信で見ている皆さんも」


 珍しく、西平もペコペコ頭を下げながらそう言っている。ここは笑いとかを置いといて、二人とも本心を話した。

 そのまま、漫才の本題に入っていく。持ち時間いっぱい、失敗もなくラストまで駆け抜けることができた。


 頭を下げて、万雷の拍手を背に舞台袖へ戻っていく。ウケたという満足感を一人噛みしめる。

 この時、思い出したのは、サンダルでダッシュする西平の背中だった。


 ひったくり犯を追いかけた時よりも、かっこよく見えたな。

 そんなことを考えている自分に気付き、これは相方にも誰にも、一生言えないと胸に秘めておくことにした。














































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