第83話 間違いなく君だったよ


 わたしの名前はアイです。耀弥あきやさんと一緒に暮らしています。

 耀弥さんは、人間のオスです。わたしにいつもご飯をあげてくれて、よく一緒にテレビを見ます。


 朝、自分の部屋から出てきた耀弥さんは真っ先にわたしの背中を撫でてくれます。

 その時、いつもにこにこしていますが、今日はちょっとだらしないくらいに笑っています。


「今日はね、真希ちゃんが来るんだよー」


 耀弥さんの口から出てきた名前に、わたしはこのにやにやの理由を察しました。

 真希さんというのは、耀弥さんのつがいのようなメスの人間です。わたしたちにとってつがいは、繁殖行為を行う関係のことですが、人間たちにはそれを行わない関係があるようです。非常に難しいです。


 真希さんは、たまに耀弥さんの家にやってきます。時々、耀弥さんの部屋で一晩一緒に過ごしているようですが、このリビングから出られないわたしには、二人が何がしているのか分かりません。

 そんな真希さんのことを耀弥さんは大好きなようで、一緒にいられる日はすごく上機嫌ですが、反対に一緒にいられなくなると、とても落ち込んでしまいます。そんなに好きならつがいになればいいのにとわたしはいつも思っていますが、人間の世界はそう簡単なものではないのでしょう。


「ごはん用意するから、ちょっと待っててね」


 耀弥さんはそう言って、キッチンの方へ行きました。わたしはついていきたいのですが、柵が邪魔なのでそわそわしながら待っています。

 耀弥さんが持ってきてくれたお皿には、いつもの牧草とニンジンの欠片が入っていました。普段は出ないニンジンを、耀弥さんは真希さんと会う日や今日のように真希さんが来てくれる時に出してくれます。


 大喜びで、わたしは早速ニンジンに齧りつきました。カリコリした歯ごたえと、土の匂いが混じった青い味がたまりません。

 そんなわたしの様子を、じっと眺めていた耀弥さんですが、ニンジンがもうすぐ無くなりそうになった時にぽつりと言いました。


「アイは、真希ちゃんのことは好き?」


 もちろん、大好きです。しかし、わたしは人間の言葉を喋れませんし、表情も人間には伝わりにくいので、それがとってももどかしいです。

 真希さんが初めてこの家に来た時、耀弥さんから教えてもらった抱き方をしてくれました。耀弥さんのお母様は、非常に乱暴な抱き方をしたので、なんて優しいんだろうと思いました。


 それから真希さんは、わたしに目線を合わせて話してくれます。背中の撫で方も、耀弥さんの次に気持ちいいですし、絶対耳には触りません。

 何より、耀弥さんは真希さんと一緒に話している時が、一番明るい声と顔で話します。あんな表情はわたしだけのものだと思っていましたが、真希さんが耀弥さんの一番であることは認めざるを得ません。


 だけど、そんなことは耀弥さんが一番分かっているはずなので、なぜわたしに訊いてきたのかが分かりません。

不思議に思ってお皿から顔を上げると、耀弥さんは真剣さと不安さが交じり合った表情をしていました。


「実は、今、真希ちゃんと結婚のことを考えているんだ」


 結婚! わたしの耳が、ぴんと立ちました。

 耀弥さんと一緒に見たテレビの知識で、結婚というのは、人間たちがつがいになるためにするものだということをわたしは知っています。つまりは、耀弥さんはこれから、いよいよ真希さんとつがいになれるということなのでしょうか。


「いや、その前に、色々準備するものが必要だけどさ。まだ、プロポーズの計画も立てていないのに、指輪を見たり、新しい家を探したりしててね……」


 わたしに対しても恥ずかしそうにしながら、耀弥さんは話しています。でも、真希さんとつがいになれることを想像して浮かれているのは、よく分かります。

 耀弥さんと真希さんと、一緒に暮らすと考えると、わたしもわくわくしてきます。新しい家には、どんな風が吹いてきて、どんな匂いがするのでしょうか。


「この前なんか、プロポーズの舞台はどんなところがいいかなって、色んなサイトを見ていたらさ、真希ちゃんからの電話に気付かなくって……本末転倒だよね」


 あははと声をあげて、耀弥さんは笑いました。こんな耀弥さんの笑顔を見るのがわたしは大好きですが、正直、どうして笑っているのかを理解できません。

 知っているのは、電話というものです。人間が遠くの相手と話すために使うもので、わたしたちが地面を足で叩いて警告するのとは比べ物にならないくらいに、正確な言葉のやり取りができるようです。


 真希さんの話をしている間、耀弥さんはずっとわたしがごはんを食べている姿を見ています。わたしのごはんが終わってから、耀弥さんは自分のごはんを食べ始めました。

 それが終わると、部屋の片付けをしたり、水浴びをして毛皮を変えたりと、耀弥さんはとても忙しいそうです。人間は、わたしたちと違って水が平気なようですし、毛玉を出さずにあっという間に毛皮を変えてしまうのが、いつも不思議です。


「お昼前に真希ちゃんが来るんだって。まだかな」


 耀弥さんは、そわそわしながら何度も電話を見ています。ケージから出してもらったわたしが、そんな耀弥さんの隣に行くと、わたしを抱き上げて膝に乗せてくれました。

 優しくなでる耀弥さんの手の温かさに目を細めていると、玄関の方から「ピンポン」と音がしました。「来た」と、耀弥さんの体が強張ったのが分かったので、わたしは咄嗟に彼の膝から降りました。


 耀弥さんは、そそくさと真希さんを迎えに行きました。こういう時、わたしは二人の雰囲気を察して、ついて行くことはしません。

 わたしも落ち着かない気持ちになり、リビングをぴょんぴょん回っている間に、廊下に出るドアが開いて、耀弥さんと真希さんが来ました。


「さ、どうぞどうぞ」

「あー、アイちゃん、久しぶりー」


 わたしと目があった真希さんは、すぐに駆け寄って屈みこみました。おっとりとした眼差しでわたしを見つめて、ゆっくりと背中を撫でてくれます。


「今日も可愛いパンダ柄だねー」


 真希さんは、いつもわたしを見るとそう言います。「パンダ柄」の意味は分かりませんが、褒めてくれているのは伝わります。

 一方で、耀弥さんはきっと真希さんが持ってきていた袋をキッチンの方に運んでいました。匂いとこれまでの経験から、あの中身は食べ物なのだろうと想像できました。


 これは、真希さんが来た時のいつもの光景です。でも、どこか可笑しいのです。

 真希さんは、いつも以上にわたしに触っていますが、耀弥さんの方は全く見ようとしません。反対に耀弥さんは、キッチンの方からちらちらと、真希さんの方を見ています。


「アイちゃん、もこもこだねー」


 そんなことを言いながら、わたしの前足の甲をふにふに触る真希さんは、なんだか手に余計な力が入っているようです。確かに、わたしと真希さんが再会するのは大分久しぶりですが、こんなに長く触っているのは初めてです。

 何か原因があるのかと、わたしは真希さんの匂いをクンクン嗅いでいると、耀弥さんが「真希ちゃん」と呼びかけました。


「なに?」


 振り返った真希さんの声に、多少の棘が混じっているような気がします。わたしの考えすぎなのかもしれませんが。

 耀弥さんは、それを気にしていないのかそれとも気付いていないのか、やっぱりニコニコしながら言いました。


「お昼は、僕が作ろうか?」

「うん。お願い」


 真希さんが遊びに来た日、二人は昼と夜と交代ずつでご飯を作ります。

 耀弥さんは「よーし」と言って、料理を作る時用の毛皮を着て、腕の毛をまくりました。真希さんは、「テレビ見てもいい?」と聞いて、やっとわたしから離れました。耀弥さんが「うん」と返したのを聞いて、リモコンを触ります。


 テレビの画面には、町の中を歩く人間のオスが二人いました。あまり外に出れないわたしは、何をするのだろうとドキドキしながら見ていましたが、真希さんはすぐにチャンネルを変えました。

 次に映ったのは、人間のオスとメスが両手を繋いで、くるくる回っている画面です。何をしているのだろうと注目していましたが、真希さんはそこからまたチャンネルを変えます。


 今度は、海と呼ばれる、たくさんの水がある場所でした。その中で、耀弥さんが良く食べているお魚が生きている状態で、たくさん泳いでいます。

 わたしには絶対に行くことができない場所なので興味深く眺めていましたが、真希さんの方は、テレビを全然見ていません。自分の電話を取り出して、無表情のままそれを触っています。


 しかし、そんなことをしながらも、真希さんはキッチンの耀弥さんの方を気にしているようでした。絶対にそちらの方には見ていませんが、意識はテレビにも電話にも向けられていないことは、隣のわたしにも伝わりました。

 その様子は、わたしの母が、お乳をあげながらも周囲への警戒を怠っていない姿を思い出させました。ただ、その警戒する相手が真希さんも大好きな耀弥さんというのは、全く理解できません。


「ああ、しまった」


 冷蔵庫を開けた耀弥さんが、そう呟くのが聞こえてきました。わたしは振り返りましたが、真希さんは身じろぎひとつしません。

 耀弥さんが、料理用の毛皮を外しながら、外に出るための鞄を用意しました。


「真希ちゃん、ちょっと買い物行ってくるね」

「うん。わかった」


 真希さんは、姿勢をそのままに頷きます。

 耀弥さんは苦笑を浮かべながらも、真希さんに対しては何も言わずに、鞄を持ってリビングから出ていきました。


 ガチャンと、マンションのドアが閉まり、鍵もかかる音も聞こえました。

 その瞬間、真希さんは、今までの無表情とは全く異なる、心配そうな顔をして、わたしの方を向きました。


「ねえ、どうしよう、アイちゃん」


 泣き出しそうな声で、わたしを膝に乗せながら、真希さんは言います。

 突然すぎる変わり身に、わたしは驚きましたが、じっと動かずに真希さんの話を聞くことにしました。


「耀弥君、浮気しているかもしれない」


 浮気! わたしはまた大きく耳をピンと立てました。

 テレビなどで、人間たちの言う「浮気」とは何か知っていました。それは、つがいじゃない相手と繁殖関係にあるということです。わたしたちは、強い子供のためならつがい以外の繁殖行為も気にしないのですが、人間たちはそれをとても嫌がっているようなのです。


 それにしても、耀弥さんが浮気なんて、どうして真希さんはそんなことを心配しているのでしょう。一緒に暮らしているわたしほどではないにしても、真希さんは耀弥さんのことをよく知っているはずなのですから。

 そんなことを疑っていると、真希さんは、わたしの背中を撫でながら、心配の理由を話し始めました。


「耀弥君ね、私からの電話はすぐに取るのに、この前無視したんだよ。それに、会った時もどこかそわそわしているし、目を合わせてくれないし……」


 それは、耀弥さんが真希さんと結婚するための準備に夢中になっていたからです。そわそわしているのも、真希さんとつがいになったらと考えているからかもしれません。

 ともかく、他のメスがいるわけではないことを、わたしは知っています。この家に入って来るのも、真希さんと耀弥さんのお母様だけですから。


「……こんなこと、アイちゃんに相談しても仕方ないけれどね」


 真希さんは、困ったような顔で溜息をつきました。その姿を見ていると、わたしはどうしようもなく悲しくなってしまいます。

 わたしが人間の言葉を話せたなら、真希さんの心配は全部勘違いだと教えてあげることができるのですが。そして真希さんも、自分の気持ちを話すだけで、わたしから返事がないことを分かっていることもまた、申し訳なく思いました。


「でも、怖くなるんだよね。前の彼氏が、浮気していたから。しかも三股で。耀弥君は、わたしのことを誰よりも愛してくれているのだと知っていても、どうしようもなく不安になってしまうの」


 真希さんは、寝起きのようなぼんやりした顔でそう言います。

 浮気されたというのは、中々恐ろしい出来事なのでしょう。真希さんは、絶対違うのに、前のつがいの相手と耀弥さんを重ねてしまっているようでした。


 その時、電話が鳴りました。真希さんのではありません。この音は、耀弥さんの電話です。

 真希さんは、咄嗟に振り返りました。テーブルの上に、耀弥さんが忘れた電話が置いてあります。


 しばらく無言で電話を見ていた真希さんは、それに向けて、手を伸ばしました。表情が見えない分、わたしはとてつもなく怖くなりました。

 そんなことをしてはいけません。そう言えない代わりに、わたしは真希さんの膝の上から降りました。ケージのすぐそばへ行って、息が詰まりそうな気持ちのまま、震えていました。


 こちらに振り返った真希さんは、耀弥さんの電話を握りしめて見つめていました。しかし、その表情は和らいでいて、おそらく他のメスからの連絡ではないことに安心していたようでした。

 その時、わたしの耳だけが、一番聞きたくない音がドアの向こうで響いたのに気づいてしまいました。


「……真希ちゃん?」


 ドアを開けて、立っている耀弥さんの戸惑った声に、真希さんは体を硬直させました。

 ああ、一体どうしたらよいのでしょう。わたしは訳が分からなくなって、ケージの前を行ったり来たりしました。


「どうして、僕のスマホを見ているの?」

「それは、あの」

「……もしかして、浮気を疑っているの?」

「……」


 真希さんの無言は、頷いていることと同じ意味だったのでしょう。耀弥さんは大きな溜息と共に、その場に座り込みました。

 真希さんはますます項垂れて、震える手で耀弥さんの電話を握りしめています。


「ごめんなさい」

「いや、いいんだよ。疑われた方に非があるんだから。真希ちゃんは、浮気されたことがあるんだから、疑り深くなるのもしょうがないし」

「ううん。疑った私の方が悪いから」


 冷たくそう言った真希さんは、自分の目元を左腕で強く抑えて、涙が流れないようにしていました。


「耀弥君の愛を、信じられなかったんだから、最悪だよ」

「そんなことないよ……僕の、態度の方がさ……」


 耀弥さんの言葉は、とても歯切れが悪いです。

 真希さんに、結婚したいという気持ちを伝えれば、この疑いも晴れるのでしょうが、耀弥さんはそのための準備を色々していたので、そう簡単に明かせない様子です。ただ、耀弥さんのこの態度だと、余計に真希さんを心配させそうだと思いました。


 真希さんは、テーブルの上に耀弥さんの電話を置いて、自分の荷物を鞄に入れ直し始めました。

 耀弥さんが、ふらりと立ち上がってドアから離れたのと同時に、真希さんがスクッと何かを決意したように立ち上がりました。そのまま振り返って、耀弥さんと向き合います。


「ごめん、今日は帰るね」

「ううん。お互いに冷静になった方がいいから」

「そうだね、ごめんね」

「いいよ、謝らなくて」


 真希さんは、悲しそうな耀弥さんに対して、小さく頷きました。今、真希さんはちょっとでもいいから笑っていてほしいと、わたしは思っていました。

 そうして、真希さんはリビングから出ていきました。いつもやっている、帰りの挨拶と次に会う約束を、二人は交わしていませんでした。


 「ああ……」と言いながら、耀弥さんはまたうずくまります。

 わたしはその足元に来て、自分の前足を耀弥さんの膝に触れました。耀弥さんは、わたしを抱き上げて、膝に乗せてくれました。


「今だったら言えるのにな」


 耀弥さんのおなかに顔を近づけて、その匂いを嗅いでいると、そんな言葉が上から聞こえてきました。


「僕の運命の人は、間違いなく君だったよ、って」


 耀弥さんが零した涙が、わたしの毛皮に付きました。

 水が嫌いなわたしですが、じっとそれを我慢していました。今、わたしに出来るのは、耀弥さんの腕にくるまっていることだけでした。





































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