第77話 午前三時の小さな冒険
「……あ、ごめん、起きた?」
ベッドの上でうっすら目を開けると、同棲中の恋人が、こちらを振り返って苦笑した。そう切り取ってしまえば、よくある一コマのように見えるけれど、実際にはそうじゃない。
クローゼットの前で佇む彼は、今夜も一張羅に着替えている。黒いタキシードに、シャツの襟元には貴族のような白い蝶ネクタイ、とどめは真っ赤な裏地の黒いマントという、古い映画の吸血鬼のような恰好に。
服装から入るタイプの私の恋人、
吸血鬼らしくあれというのが自らのポリシーである景は、動物の血などで代用できるにもかかわらず、夜な夜な通行人の血を求めてさ迷い歩く。よせばいいのに、動きにくそうなマントと先のとがった皮靴を履いて。
「夜明けまでには帰ってくる?」
「うん。もちろん」
スマホを見ると、時刻は午前の三時だった。夜明けまでそんなに時間はないけれど、ギリギリまで楽しむつもりらしい。
ついでに言っておくと、景は後天的な吸血鬼であるため日光を浴びても灰にはならなくて、酷い日焼けのように肌が赤くなるくらいだった。蝙蝠に変身するとか、霧になるとか、空を飛ぶとか、そういう吸血鬼らしい能力も、始祖と呼ばれる吸血鬼しか持っていないらしい。
「じゃあ、行ってくる」
「ちょっと待って」
ガラガラと、寝室からベランダへ出る窓を開けた景に声をかける。
驚いて振り返った景は、ベッドから体を起こした私と目が合った。
「私も一緒でもいい?」
「え、いいけど」
立ち上がった私を見る景は、口では了承しながらも、まだ目を丸くしている。
事態を飲み込んだらしき景は、自分のタンスの中から着替えを探している私を眺めて、ああと両手を打った。そして、自身の真横の窓を指さす。
「じゃあ、一緒にここから行こうか。お姫様抱っこするよ」
「いいよ。窓を閉めないといけないし、玄関から出るから。……着替えるから、下で待ってて」
「あ、はい」
選んだ服を手にとってもまだ居残っている景を睨みつけると、彼はしゅんと凹んだ大型犬のような顔で窓から出ていった。
吸血鬼だとは言っても、こういうところはやっぱり年下の男の子だ。かわいいと素直に思いながらも、私はしっかりとカーテンを閉めた。
□
午前三時に散歩をするのは初めてだから、その澄んだ空気だけでテンションが上がってしまう。誰もいない夜道の上では、普段よりも遠くまで見通せるような気がした。
空を見上げると、まだ満月には足りていない月が西の方に浮かんでいる。あの反対側から、太陽が昇ってくるのだと考えると、不思議な気持ちになった。
辺りは本当に静かだった。住宅街の真ん中でも、犬の遠吠えとか車の走る音とかも、何にも聞こえない。自分の足音と息遣いだけが、響いているみたいだ。
……訂正、私の隣で歩いている吸血鬼がマントをはためかして歩いている。しかも、小さく鼻歌なんか歌っているので、ムードが台無しだ。
「妙に上機嫌じゃない?」
「うん。樹と一緒に初めての夜の冒険だからね」
景は何の臆面もなく、そう笑顔で言い切るので、私は気恥ずかしさを誤魔化すように困り顔を作った。
「冒険っていうほどじゃないでしょ。散歩だよ、散歩」
「じゃあ、間を取って、小冒険で」
「だいぶ冒険よりじゃない?」
そんなくだらなすぎる会話をくすくす笑い合いながら交わしている。
冒険だ小冒険だとなんだと言っていた景だけど、目的地は特に決まっていないようで、適当に曲がり角があると、「こっちに行こうか」と促していく。そんな散歩だからか、自然と会話の内容も行き当たりばったりなものになった。
「今日は何で付き合ってくれてんの?」
「明日休みだからね」
景の純粋な質問に、素直に答える。ちょっと付け加えるとしたら、変な時間に目が覚めてしまったのと、彼がいつも見ている夜の町が気になったからだった。
景は、なるほどと頷いて、私に憐れむような目を向けてきた。
「いつもいつも仕事で、お疲れ様です」
「あんたはもうちょっと働きなさい」
対して私は、景を強く睨む。景は右ストレートが飛んでくると思ったのか、咄嗟に顔を腕でかばった。
景は、働いていないわけではない。ただ、一週間に一回、夜警のバイトに出るだけだ。
「いや、僕は吸血鬼だからさ」
「春さんに対しても、そう言えるの?」
「うう……」
景はがっくしとうなだれた。私の言うことに、全く反論できないようだった。
春さんは、景の遠い親戚にあたる吸血鬼の男性だ。奥さんと小さい娘さんがいて、昼間はサラリーマンとして働いている。
「まあ、春さんは確かにすごいと思うよ? でも、僕は催眠術は全然だからなぁ」
「とはいっても、雇ってくれるところはあるでしょ」
「うーん、けど、昼に働くのは抵抗あるし、夜はこうして血を吸わないといけないし……」
苦い顔をする景の口元からは、鋭い牙が覗いている。吸血鬼の基本的な能力として、彼らは催眠術を使い、その鋭い牙や年を取らない見た目を誤魔化している。
確かに、景は催眠術が苦手で、私に対して色々練習しているけれど、全く上手くならない。しかし、それが言い訳なのはバレバレで、本当は仕事をしたくないのを吸血鬼のプライドを理由にしているだけだ。
「そう言っても、私に拾われたときにあったかい部屋やベッドの柔らかさに感動していたじゃない。またあの時の放浪生活みたいな苦労は嫌でしょ?」
「樹はよく僕のことを拾ったっていうけどさ、」
話の途中で、景の言葉と足がぴたりと止まった。
私が「どうしたの?」と訊くよりも早く踵を返し、ぴょんとジャンプしてすぐ後ろにある木の中に姿を隠した。知らない人の庭なのに、一切の躊躇が無かった。
バツが悪くなったから逃げたなと、私が推測していると、私たちが要る道の先の交差点で、一台のタクシーが横切るのが見えた。
タクシーのエンジン音に気付いて逃げたのかと振り返った時に、景が「危ない、危ない」と言いながら木から顔を出した。こういう時の行動の速さは、野良猫っぽい。
「人に見られたくないなら、そんな恰好しなければいいのに」
「ばか。この正装で奇襲をかける素晴らしさが貴様には分からないのか」
景は高貴な口調を真似してみるが、ぷんすか怒っている顔とか、今の状況からしてだいぶ間抜けである。
そのまま木から降りて、散歩を続けるのかと思ったら、彼は器用に庭を囲む塀の上に立った。
「さて、行こうか」
「そのままで?」
「いつもはこうしているよ」
それがどうしたと言わんばかりに、景は胸を張って塀の上を歩き始める。仕方ないので、私もそのまま歩いた。
「夜でも結構暑くなってきたね。もうすぐ夏だね」
「いや、夏の前に梅雨が来る」
「景、梅雨は嫌いなの?」
「夜に外を出歩く人が少なくなる。あと、傘があるから首筋を狙いにくい」
「あー、確かに、気にしたことなかったけど」
「あと、こっちがびしょびしょになる」
「傘ぐらい持ちなよ」
「持ってるけれど、噛みつく時はどうしても邪魔になるから」
「……やっぱ話しにくいね、これ」
優雅にマントを靡かせて歩く景に合わせて、私は首を上に上げて喋っていたけれど、だんだんと筋が痛くなってきた。
吸血鬼の景にはそういう体の不調はぴんと来ないらしく、同じように首を下に向けていたのに、不思議そうに私と同じように首を触っている。
「こっちに降りてくれる?」
「えー、それだと、小冒険の意味がないからなあ」
「まだ小冒険にこだわっているの?」
眉を顰める私に、景はそうだと強く手を叩いた。
「僕がお暇様抱っこしよう」
「……変なところ触ったら、裏拳」
「しない、しないから」
エアお姫様抱っこをする景の両手は、妙にもみもみと動かしていたので、私はしっかりと釘を刺した。すると、彼は両手を降参するように上げて、何度も首を横に振った。
でも、景は景なりに、この夜の散歩で私に、自分がいつも見ている光景を共有したいという気持ちがあるのは分かっている。だから私も、妥協案を出した。
「じゃあ、おんぶしてよ」
「……君がそれを望むのなら」
マントにおんぶなんてみっともない! と無下にされることを予想していたけれど、それは裏切られた。
景は塀の上で器用に貴族のような一礼を見せると、ふわりとマントを翻しながら私の前に降り立ち、その背中を差し出した。
私をおんぶして、景は歩き出した。その内だんだんとスピードを上げて、私の下でマントがばっさばっさと揺れる。
その力強さに、私は正直驚かされていた。
「正直、重くないの?」
「全然全然。気にしないで」
「本当に?」
「お陰様で、太りましたから」
「ふふっ」
景の軽口に吹き出した直後、交差点で彼は思いっきりジャンプして、向こう側の塀に着地した。そのまま、細い塀の上をすいすいと走る。
初めて会った時は、私に担がれるくらいヒョロヒョロだったのに、頼もしくなって良かった。「吸血鬼は血があれば生きていける」と嫌がる彼に、ご飯を作り続けた甲斐があったもんだ。
塀の上でも助走をつけた景は、二回目のジャンプで、目の前の電柱のてっぺんに飛び乗った。
視界が何倍も高くなり、今更ながらに恐怖を感じる。
「大丈夫だから」
肩から前に回した両手に力が入ったのを感じたのだろう。景がこの上なく甘い声で囁いた。
たったそれだけで安心してしまう。こんなところで景にほだされるなんて、なんかちょっと悔しい。
ぴょんぴょんと、軽やかに景は電柱から電柱へと跳んでいく。空を飛べないことを本人は酷く悔しがっていたけれど、こんなに跳躍できるのなら構わないじゃないかと驚いてしまう。
午前三時の住宅街は、夜が明けるまで息を潜めているかのようだった。殆どの家が電気を消していて、街灯が縁取る立体の暗闇が目の下で近付いたり離れたりしている。
前を向けば、私の会社もあるビル街が立ち並んでいる。あの黒くてのっぺりしたいくつかのビルが、屋上の赤いランプを灯したまま聳えている。
空を見上げれば、ぽつぽつと星が光っていた。目下の住宅街よりも明るくて、今夜はやけに星が近く見える。
「ちょっと一休み」と言って、景は年季のある二階建てアパートの屋根の上にのった。
屋根の頂上で私は彼の背中から降りた。景がその場で腰を下ろしたので、私も同じように座る。
二人でしばらく、時間が止まったような深夜の町を眺めていた。
住んでいるマンションのベランダよりも低い位置なのに、後ろからそよぐ風を感じるためか、なんだか解放感を抱いた。
「いつもこんな夜を過ごしていたんだね」
「うん。電柱渡りは、こうして夜が深い時間にしかできないけれど」
私は膝の上で頬杖をつきながら、景は大きく体を伸ばしながら、普段よりも小さな声で私たちは話していた。ふと、景の後ろを見ると、マントはだらしなく皺になって屋根の上に広げられていて、なるほどいつもマントがくしゃくしゃに汚れているのはこれのせいなのかと、強く納得した。
毎晩こんな風に散歩をしているのなら、景が「吸血鬼らしさ」に固執する理由も分かってしまう。本人に言ったら、調子に乗りそうだから口が裂けても言えないけれど。
「私が明日休みの日は、また散歩に誘ってよ」
「うん。こんな小冒険でよろしければ」
私たちは朝日が昇り始めるギリギリまで、屋根の上でお喋りをした。
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