第76話 春風ひとつ、想いを揺らして


「石田さん……石田さん、すみません、石田さん?」


 三度目の呼びかけで、石田さんはぼんやりとパソコンを眺めていた目を、ようやくこちらに向けた。ずっとブルーライトに晒し続けていた両目を、まだ焦点を合わせていないまま瞬かせている。


「あ……ごめん、どうしたの?」


 取り繕うように微笑みかける石田さんへの返答に困ってしまった。

 直属の先輩である石田さんは、仕事もよくできるし、教え方も優しくて、とても頼りになる人だ。ただ、先程のように、何もせずにぼんやりとしているとしていることが稀にある。


 一先ず、聞きたかった質問をして、石田さんに答えてもらった。石田さんは分かりやすく、物覚えの悪い新人に対しても根気強く付き合ってくれた。

 「ありがとうございました」と頭を下げて、自分のデスクに戻る。石田さんは笑顔で「頑張ってね」と言ってくれたけれど、それ以上に脳裏に残ったのは、呼び掛けても反応しない、何も見ていないような横顔だった。






   ▢






 課長に言われて、応接間にあったコーヒーカップを片付ける。

 給湯室へ行くと、川島さんがポットを沸かそうとしている所だった。


「誰かが沸かし忘れていたのよ。あなたも、ポットの水が無くなったら、沸かすようにしてね」


 川島さんが溜息を吐きながらそう忠告するので、神妙な顔で頷く。

 我が部で一番年長の女性社員である川島さんはやはり、細かいところに気を配れる人だ。こんな時、犯人探しをするわけでもなく、何気ない口調で注意を促してくれる。


「……今日もまた、石田さんがぼんやりしていたでしょ?」

「はい」


 流し台のスポンジを手に取ったタイミングで、川島さんからそう尋ねられた。石田さんの斜め後ろに座っている川島さんには、あの時のやり取りが筒抜けだったようだ。

 隣の川島さんは、多少気まずそうに、珍しく目に逡巡の色を見せてから、決意したように口を開いた。


「三年前のことなんだけどね、石田さんの彼氏が、突然自殺して、」

「えっ?」


 予想だにしない告白に、何と返せばいいのか分からなかった。

 教えてくれた川島さん自身も、これを言ってしまったことを後悔しているような顔で、目を逸らした。


「……だから、急にぼんやりしていたら、そっとしていてね」

「……はい、分かりました」


 ポッドの湯沸かしボタンを眺めながら、川島さんはしんしんと話す。その雰囲気に飲まれて、頷くことしかできなかった。

 川島さんの言葉は、善意から来るもので、石田さんのことをこちらから変に突っついてしまわないようにという心配されているのだろうとは分かる。だけどもちろん、そんな話をされては困ってしまう。


 給湯室から川島さんが出て行った後、改めてコーヒーカップと向き合い、洗うのを再開する。それでも、心に去来するのは川島さんの一言だ。

 「彼氏が、突然自殺した」……それを知ってしまった後、石田さんに対してどんな顔をすればいいのだろうか。






   ▢






 終業時刻はいつもよりも遅くなってしまった。自然と、同じ時間まで部署に残っていた石田さんと一緒になる。


「お疲れさま。今日は遅くなったね」

「あ、お疲れ様です」


 ほぼ同じタイミングでエレベーターへ向かう。石田さんはちょっと疲れた様子はあるけれど、気にするほどの変化はない。

 そのため、石田さんの過去を知ってしまった後は、こちらの余所余所しさは異様に見えたらしい。当たり障りのない受け答えを心掛けたはずなのに、乗り込んだエレベーターのドアが閉まった途端に、石田さんが口を開いた。


「……私の彼の話、誰かから聞いた?」

「えっ?」


 二人きりというのに、焦って、エレベーターの中を見回してしまった。背後の監視カメラと目が合い、途端に気まずくなる。

 どうにか誤魔化さなければならいだろうが、この反応が何よりの証明となってしまった。俯くように、石田さんへ頷く。


「そう。知っているなら、仕方ないね」


 石田さんは困ったように、口角を上げた。これを見て、ますます申し訳なくなって息が詰まるような思いだ。

 きっと、色んな人からこんな反応をされてしまったのだろうなと、安易に予測できるような雰囲気を石田さんは醸し出していた。


「今夜、何か用事はある?」

「いえ、ありませんけど」


 一階に着く前に、石田さんが滑り込むように言ってきた。

 もちろん、断る理由などなく、明日も仕事だけど石田さんが望むのなら朝まで呑むのに付き合う覚悟を決めていた。


 会社を出ると、辺りは真っ暗になっていた。日は長くなってきていると感じるけれど、さすがに七時を過ぎるとすっかり夜色に染まっている。

 石田さんは、長い髪を揺らしながら歩きだした。軽やかとは言えないけれど、決して重くはない足取りに、こちらの方が戸惑ってしまう。


 恋人が自殺した人に対して、何と言葉をかければいいのか、もちろん分からない。愚痴を言われるのかと思っていたけれど、そんな雰囲気も見せないので、もう吹っ切れているのかもしれない。

 ただ、それならどうして時々ぼんやりしてしまうのだろう。そして、何に誘ったのも、どこに行くのかも。何も語らずに歩いていく石田さんの行動の理由を、読み取ることができなかった。


「ここよ」


 オフィス街を外れて、薄暗い路地を進んでいく内に見えてきた古い雑居ビルを、石田さんは指差した。

 目的地はここのようで、石田さんは何もためらわずに入っていく。ビルは、小さな出版社、不動産屋、弁護士事務所などが入っているようだった。


 一階のロビーの角に、ガラスで仕切られた管理室があった。その中の初老の警備員と石田さんは言葉を交わしているが、会話の聞こえない位置に立っていたので内容までは分からない。

 管理室から離れた石田さんは、エレベーターを指さしながら、「上へ行くわよ」とだけ告げた。エレベーターは、丁度一階で止まっていたので、すぐに乗り込む。


 エレベーター内は、会社のよりも一回りほど狭くて、薄暗かった。頭上を見上げれば、黄色い蛍光灯が二本だけ灯っている。

 石田さんは迷わず、最上階のボタンを押した。


「……ここね、私の彼の仕事場だったの」


 ぶうんとエレベーターが動き出す振動に紛れるそうなほどの声で、石田さんが教えてくれた。

 亡くなった石田さんの恋人のことだろうと、察しがついた。しかし、どんな仕事をしていたのかは言ってくれず、もちろん尋ねることもできなかった。


 エレベーターが最上階に着いた。石田さんに続いて降りていく。

 最上階には何の事務所も入っていなくて、目の前には階段が、その先には扉があった。石田さんがそれを上がっていくので後を追う。


 扉の先は、ビルの屋上だった。春だというのに、冷たい風が吹き抜けている。

 雑居ビル自体は周りのビルよりもずっと小さくて、カツアゲをされて委縮している子供のようだった。ただ、屋上を縁取るようにぐるりと背の高いフェンスに囲まれているのが妙な感じだった。


 石田さんは、ゆっくりと、一歩一歩を確かめるかのようにビルの中央を横切った。

 そして、出入り口の真っ直ぐ進んだ先のフェンスの前で立ち止まり、後ろを振り返った。


 その時の石田さんの表情は、今まで見てきたどんな人間の表情とも違っていた。

 悲しみと憎しみと懐かしさと……何かまた別の心情を織り交ぜたようなものだ。そんな顔のまま、石田さんは何とか口元だけでも微笑もうとした。


「ここから、私の彼は飛び降りた」


 息が詰まる。自分の人生経験を総動員させても、なんと言えばいいのか、分からなかった。

 この沈黙は、石田さんにとって正解だったのだろうか。何か言葉を促すことはなく、石田さんは振り返って菱形のフェンスへと指を掛けた。


「今更こんなのつけても、何の意味もないけどね」


 諦めきったその口調を吹き飛ばすような強風が、石田さんの長い髪とロングスカートを柔らかく揺らした。

 頭上は、我々を押し潰してきそうな重苦しい夜空だ。目を凝らしたところで、星などは見つけられない。


「仕事と家族のことで悩んでいるのは知っていた。だから、急にここへ呼び出したときは、単純にそのことを相談してくれると思っていたの」


 ふうと石田さんが吐いた溜息も、春の風に紛れていく。

 想像してみる。一人の男性が、このビルの縁から飛び降りる瞬間を。心臓がギュッと縮むかのようだった。


「最期にあの人、なんと言ったと思う?」


 こちらを向いて尋ねられた。見当もつかないので、首を横に振る。


「――愛しているよ。そう笑って、落ちていったの」


 石田さんは、優しく微笑んだ。

 勝手に口が開いた。何か言おうとしたかったのだろうが、もちろん言葉も声すらも出てこない。


 彼の最期の言葉が、石田さんの心に重くのしかかっているのだろうか。どうして彼はそう告げたのだろうか。

 石田さんに、自分のことをいつまでも覚えてほしかったのかもしれない。自分が死んだ後に、石田さんが誰か他の人と愛し合うのが許せなかったのかもしれない。


 そんなのはエゴだ。彼女にとっての呪いだ。第三者の視点からは、そう言い切ることができる。

 だけど、石田さんはどう思っているのだろう。恋人と様々な時間を過ごした石田さんにとって彼は、彼のことは憎みたくても憎み切れない存在になってしまったのか。


「今日は風が強いね」


 顔にかかる髪をかきあげながら、石田さんが隣に並んだ。いつも通りに笑っているのが、より悲しい。

 石田さんが手を合わせて、目を閉じたので、それに倣う。


 ……石田さんは今、何を想っているのだろうか。自分が今抱いている想いと、同じものなのだろうか。

 また強い春風がひとつ吹いて、ビルに並んだ二人の髪を揺らして過ぎ去っていった。

































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