第74話 星明りで読む
「ブックホテル」というものがあると聞いた時から、一度でいいから行ってみたいと思っていた。
そして今年の冬休み、以前から目を付けていたとあるホテルに予約を入れることができた。
場所は山の中腹にあり、駅からも遠いので、専用のバスに揺られて向かった。
その途中でも、枯れ木の立ち並んだ景色を楽しみつつ、持参してきた本を読んでいた。
山の木々が突然開けて、その先に目的地のホテルが建っていた。見た目は、真っ白なクリームだけが塗られたホールケーキのようだ。
窓の一つ一つに、バルコニーが付いている。そこにはそれぞれイスとテーブルが合って、そこに座って本を読んでいる人たちの姿か点々と見えた。
バスから降りると、木の葉を踏みながら進んでいく。私も、一緒に来た数名もわくわくした気持ちが抑えきれないのか、足音はみんなリズミカルで軽やかだった。
出入り口をくぐると、早速図書館のように壁に埋め込まれたたくさんの本棚が私たちを出迎えてくれた。
古い紙の匂いを胸いっぱいに吸い込む。たったそれだけで、心が安らぎ、ここが自分にとっての故郷のような感覚すらしてくる。
ホテルの真ん中には白い柱が、吹き抜けのさらに上、天井まで届いて聳え立っている。ここがホテルの大黒柱なんだろうなと思いながら、それを右回りに歩くと、受付カウンターがあった。
宿泊受付をした後に、ホテルのルールを教えてもらった。
本棚の本は、何冊でも部屋に持ち込んでもよい。ただ、ホテルの外に出すのは禁止。読み終わったら、一階の棚ではなく各階のワゴンに戻すようにと。
荷物は結構持ってきていた。二泊の予定なので、着替えだけでもボリュームがあるのに、それに加えて移動用にとまあまあの厚さの文庫本が二冊。キャリーバックとはいえ、異動が面倒臭い。
カウンター横のエレベーターへ乗って、先に荷物だけでも自室に置いていこうかと思った。だけど、誘惑に負けて、早速本棚を物色し始めていた。
棚への本の納め方は、図書館の分類法や本屋のジャンルと作者順ではなかった。かといって、全くの無秩序でもない。
例えば、幕末のコーナーがあったら、『燃えよ剣』や『竜馬がゆく』といった小説はもちろん、吉田松陰について書かれた歴史書、大河ドラマのシナリオ本、西郷隆盛の伝記など、一つの題材にジャンルレスで色々並べられていると印象だった。
確かに、素人目には分からない並べ方があるようなので、読後の本を勝手に戻されたら、従業員たちが困ってしまうだろう。そんなこんなで何冊か手に取り、丸い形の壁をぐるりと回る。
途中で、ロビーのソファーでじっくりと本に熱中している人を見かけた。きっと、試し読みのつもりがのめり込んでしまったんだろうなと、真剣に活字を追うその眼差しを見ながら、その気持ちよく分かるよと心の中で何度も頷いた。
棚から取り出したのは、合計で四冊だった。本当はもっと読みたい本があるけれど、手に持てる限界があるため仕方ない。後ろ髪が引かれる思いでエレベーターに乗った。
定年退職後は、ここの本を全部読むために泊まり続けてみたいな。そんなことを夢想してしまうくらいに、素敵な空間だった。
当てが割れた部屋は、三〇三号室だった。ドアを潜ると、乾いた空気に乗っかった畳の匂いがふわっと香る。
自宅は洋室だけど、せっかくだからリラックスして、だらけたままで読んでみたいという要望を出していた。床の間に座布団と座椅子があって、ロビーとは全く違う旅館のような雰囲気が魅力的だ。
コートを脱いで、加湿器と暖房のスイッチを入れてから、座布団の上にどさっと座った。
これから読むのは、ここに向かっていたバスの中で読んでいた一冊。もう少しで読み終わるので、そこから先に片づけておきたかった。
……三冊目の本を読み終えて、ふと窓の外を見ると、すでに真っ暗になっていた。壁の時計を確認すると、七時を過ぎていた。
時間を意識すると、途端におなかが空いてきた。読んでいる間は夢中になっていたが、ここに来る前に駅内でのお蕎麦以来、何も食べていなかった。
ここのホテルにはレストランが付いていなくて、全部ルームサービスになっている。床の間のメニュー表を開いて、横の電話で親子丼を注文した。
料理が来るまでの間、ちょっと個室内を歩き回ってみることにした。ホテルでの宿泊時には一番最初にすることだけど、今回は本のことで頭がいっぱいで、全く気にならなかった。
まずは、バルコニーに出れる窓へ。すぐ隣にあるスイッチを押すと、バルコニーの電気が付いた。
外へ出てみると、下から見たバルコニーと同じようにテーブルと椅子が置いてある。ここでも本を読めそうだけど、さすがに今夜は寒いなと思いながら、木で出来たテーブルを撫でる。
バルコニーの柵に身を預けて、そこから見える景色を眺めた。遠くに黒々とした山が聳えて、周りの木々が葉を落とした枝を揺らしているが、それ以上に釘付けになったのは夜空だった。
散らばった星が、それぞれの光で瞬いている。澄んだ冬の空気とどこまでも広がる星空に、息を呑んだ。
こんなに星が輝いていたら、この明かりで本が読めるのかもしれない。そんなことを思いつき、急いで部屋に戻った。
読む本は、『銀河鉄道の夜』に決めた。我ながらストレートな選択だが、これ以上のものはないと思う。コートを着て、バルコニーの電気を消し、再び外へ出る。
椅子を、出来るだけバルコニーの柵に近付けて、そこに座る。
星明りはかろうじて文字を照らす程度で、多分室内からの光の方が強烈だろうけれど、それでも十分雰囲気を楽しめた。
文庫本のタイトルをなぞり、そっとページを開く。
今から始まるのは、星とともに巡る宇宙への旅だ。……ルームサービスが到着するまでは。
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