第68話 くじらパンのお店


 町本小学校の校門、その前の道路を渡った先には一軒のパン屋がある。

 オープンして十八年が経つそのパン屋、「スカイ・ベーカリー」は、いつも学校や部活帰りの子供たちで賑わっていた。


 スカイ・ベーカリーの名物は、鯨の形をした「くじらパン」である。種類はあんことチョコとカスタードがあり、どれも中身がぎっしり詰まっていて、チョコで書かれたシンプルな顔も可愛らしく、子供たちからの人気も高かった。

 ある秋の放課後、くじらパンをレジに持ってきた男の子がお金を払いながら、ふとした疑問を口にした。


「おじさん、なんでこのパンは鯨の形をしているの?」


 店主の緑谷は、男の子にお釣りを渡しながら、懐かしそうに目を細めた。


「ここをオープンする前にね、一つ名物が欲しいと思っていたんだが、何にも思いつかなくてね、散歩していたんだ。その時ふと見上げた空に、大きな雲が浮かんでいて、それが鯨に見えたから、このパンを思いついたんだよ」

「へー」


 店主から袋に入ったパンを受け取った男の子は、感心しながら頷いた。そのまま、元気よくお礼を言って、店から出て行った。

 その男の子の後ろに並んでいたのは、浮かない顔をした女の子だった。三年生のその子は、名前を花梨といった。


「いいな。私も見てみたい」

「花梨ちゃん? どうしたの?」

「あ、おじさん、何でもないよ」


 レジカウンターに、カスタード味のくじらパンがのったトレイを置いた花梨がぼそりとそう呟いた。

 緑谷が不思議に思って尋ねると、なんでもないように微笑み返したが、顔に浮かんだ寂しさは拭えなかった。


 花梨が友達と一緒に店から出た後、偶然彼女と同じ三年生の女の子である双葉がレジに来た。


「花梨ちゃん、何か元気がないようだったけれど、どうしたのかな?」

「うん……金曜日にね、お父さんの仕事の都合で転校するんだって」

「え、そうだったのかい」


 花梨の普段の様子からはそんな事情が見えなかったので、緑谷は酷く驚いた。

 しかし、その双葉も沈んだ様子だったので、それは事実なのだろう。


 緑谷は、その後も店内の仕事をこなしながら、何度も俯いた花梨の顔のことを思い返していた。

 明るくて社交的で、学年内外でも友達の多い花梨は、転校することをどう思っているのだろうか。レジ前での呟きは、どんな意味が込められていたのだろうか。


 閉店時間を過ぎ、厨房以外はすべて電気を落として店内でも、緑谷はまだ家に帰ろうという気持ちにはなれなかった。

 レジの横に置いた椅子に座ったまま、暗闇の中でぼんやりと輪郭だけが見える天井を見上げていた。






   △






 金曜日の放課後、花梨は五人の友達と一緒に町本小学校の校舎から出てきた。

 今日がこの学校で過ごす最後の日ということもあり、彼女の元には挨拶に来る友達が絶えなくて、いつもよりも遅い下校になった。


「花梨、絶対手紙書いてね」

「うん。書くよ、双葉」

「寂しかったら、いつでも電話してね」

「朱美、ありがとう」


 そう話しかけてくる友達に対して、花梨は無理に作った笑顔で答えていた。

 友達には気を使いながらも、時折花梨は無意識に目線を空に漂わせていた。


 秋の空は柔らかい水色で、一面羊雲に覆われている。この前、パン屋の緑谷が話していた、鯨のように大きな雲は見当たらない。

 あの日、緑谷の話を聞いた時、花梨はもしもそんなに大きな雲が浮かんでいたら、私の転校先でも見えるかもしれないと、そんな空想をしてしまった。


 人知れず小さなため息をついたときに、「ねえ花梨」と友達の春恵に話しかけられて、はっと我に返る。


「この後、くじらパンのお店に行かない?」

「あ、うん、いいよ」


 花梨は特に用事もなかったので、笑顔を作って頷いた。

 その直後に、くじらパンを食べるのも今日が最後なのかもしれないと、また暗い気持ちが過ってしまったが、そんな様子はみじんも見せずに校庭を横切った。


 スカイ・ベーカリーはいつもよりも賑わっているのが、その出入り口まで溢れた小学生の姿に現れていた。

 校門から出た花梨は、その様子を横断歩道で信号待ちをしながら、不思議そうに眺めている。


「どうしたんだろう」


 花梨が疑問を口にすると、他の友達はみんな笑いをこらえる様子をしていた。


「ねえ、なんか知ってるの?」

「あ、花梨、信号青だよ」


 不審がる花梨の背中を、双葉が押しながら進んでいく。

 他の友達に尋ねても、いいからいいからと誤魔化されて、花梨はパン屋の前に来た。


「あ! 花梨だ!」

「どうぞどうぞ」

「おじさーん、花梨が来たよー」


 店の前の子供たちの様子はさらに可笑しかった。花梨が来たことに気付くと、彼女のために道を開けて、中には店主に訪問を知らせる子供もいた。

 首をひねる花梨だったが、店の中に一歩踏み入れた瞬間、そんなことはどうでもよくなり、立ち止まった。


 花梨の見上げた先、店の天井から巨大なくじらパンがぶら下がっていた。

 くじらパンを支えているのはパンから伸びたピアノ線で、天井は埃除けのビニールで覆われていたために店内は少し暗かった。いつもパンが置かれている台は片付けられていて、代わりに真ん中には大きなテーブルとその周りにはパイプ椅子が何脚か置かれていた。


「ああ、花梨ちゃん、いらっしゃい」

「おじさん! これ、どうしたの!」


 レジの前で満面の笑みで迎えてくれた緑谷に、花梨は天井のくじらパンを指さして言った。


「今日で花梨ちゃんが転校するって聞いたからね、ちょっと驚かせようと思って」

「ちょっとどころじゃないよ……」


 花梨はぽかんとした表情で、巨大なくじらパンを見た。

 緑谷が描く、鯨の目や口はそのままで、それを大きく膨らませたような形だった。こんがりと焼けた表面に、全体はふっくらと仕上がっていて、いい匂いも漂ってくる。


「おじさーん、花梨おねえちゃんも来たから、食べようよー」

「はーい。待っててねー」


 店先の低学年の子からの催促に返事をして、緑谷は店の奥から梯子を持ってくると、それをくじらパンのおなかの下に置いた。

 おなかの部分を千切った緑谷は、それをまだ信じられないという様子の花梨に手渡した。


 いつも食べている大きさくらいになったパンのかけらの、中身は花梨の好きなカスタードだった。

 花梨は皆が見守る中で一口齧ってみる。いつもと変わらない、カスタードの優しい味が口の中いっぱいに広がった。


「おじさん、おいしいよ」

「良かった」


 緑谷は花梨の笑顔に微笑み返した。

 それから、羨ましそうに眺めている子供たちに呼びかけた。


「ほら、みんなも入ってきて、こっちに座って。好きな味があれば、それをおじさんが取るから」


 店先の子供たちが、ワッと入ってくる中で、花梨は友達と一緒にテーブルの方へ座った。

 友達もそれぞれのくじらパンを受け取り、一緒になって頬張る。


「おいしいね」

「おじさん、こんな大きいパン作るの、大変だったでしょ?」

「そうだね。窯には半分しか入らないから、半分ずつ焼いたんだ」

「これ、いくら?」

「ひとかけら分は、いつものくじらパンと同じ値段だよ」

「えー、お金とるのー」


 おじさんと子供たちのやり取りに、花梨も思わず吹き出してしまう。

 そして、少しずつ小さくなっている、くじらパンをもう一度見上げた。


 緑谷が見たという大きな雲は見つけられなかったけれど、こうして友達や小学校のみんなと一緒に、こんなに大きなパンを食べたことを、花梨はいつまでも忘れないだろうと思った。

 パンをゆっくり噛みながら、花梨は微笑みながら、友達たちと話していた。
















































  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る