第67話 さよならの景色
頭上は晴れているけれど、車が走っていく先は今にも降り出しそうな曇り空という、不思議な天気だった。遠く山々の連なる向こう、見えない地平線のあたりは白く霞んでいる。
薄墨色の雲は美しくて、これからの雨の予感すら忘れ、しばらく見惚れてしまった。
隣に視線を向ける。母は、フロントガラスの方を真っ直ぐに見据えたまま、微動だにしない。
ハンドルを握る手は、いつの間にか様々な皺が刻まれていて、僕の胸がきゅっと痛んだ。
家を出発した後から、沈黙が続いていた。
何かを言おうとしているけれど、言葉が見つからないというような、心地よくはない静けさだった。僕も、何度か口を開きかけたのだろうか。
ふと、カーラジオから、聞き覚えのある音楽が流れてきた。
「懐かしいわね」
母の口元に、優しい笑みが広がっていった。
僕はその様子にほっとしつつ、助手席で深く頷いた。
「父さんが、好きだった曲だよね」
「そうそう」
母も嬉しそうに肯定して、小さな声で、曲に合わせたハミングを口ずさんでいた。
僕もそれを聞きながら、子供のころに、父が「この歌は外国では『スキヤキ』と呼ばれていたんだよ」と教えてくれたことを思い出していた。
僕も一緒になって歌おうとしたとき、上空から、重苦しいジェット音が響いて、カーラジオの音を掻き消した。
閉め切っていた窓を開けて、そこから顔を出して、空を見上げた。戦闘機が空を裂くように飛んで行ったが、もちろんパイロットの姿までは見えなかった。
窓を閉めても、背後の方から残響が聞こえていた。
ラジオから流れる歌は寂しい思い出に代わってしまい、母も黙り込んでいた。
耐えきれなくなって、僕は膝の上に乗せていたリュックサックから文庫本を一冊取り出して、栞の部分を開いた。
もう何度も読んだ本だけれど、新しい発見が多くて、持ってきた一冊だった。ストーリーは主人公がタイムスリップして恋人が亡くなる過去を変えようとするもので、場面はちょうどタイムスリップの瞬間だった。
もしもタイムスリップができたなら、僕は過去を変えようとするのだろうか?
活字に目を落とす直前に、そんな疑問が頭の中に浮かび上がってきた。そんなことを考えたことは今まで一度も無かったから、まずそれに驚いてしまう。
僕は先人たちの選択を尊重している。そのはずなのに、「もしも」を考え出して止まらなくなってしまった。
文字を読んでいても上滑りするだけで、像を一つも結ばなかった。本を閉じて思考を深める勇気もなく、僕は無意味にページをめくる。
その時、母がブレーキを踏んだ。はっと見上げると、信号が赤になっていた。
母の方を向いた。無言の横顔越し、反対車線にこちらと同じく信号待ちをしている、装甲車が目に入った。
「……これから二年間、頑張ってね」
母が、絞り出すように一言だけそう告げた。
この言葉が、母の本心なのかどうかは、想像するしかなかった。
「うん……」
僕もまた頷くしかない。言葉に虚しさが滲み出さないように気を付けながら。
青信号になって車が再び走り出したとき、カーナビの機械音声が目的地の基地まであと五キロだと告げた。
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