第69話 絵画トリップ


 自宅からバスに乗って三十分、人通りの少ない郊外にある美術館へ、私は今月も訪れた。

 十三時の日曜日でも、来客は少ない。地元でも知る人ぞ知る小さな美術館で、今は特別な展覧会もやっていないからだろう。


「こんにちは」

「こんにちは。ひと月ぶりだね」


 チケット売り場で、顔なじみの学芸員さんとそんな挨拶を交わす。私がこの美術館に通い始めてから、すでに三年が経っていた。

 代り映えの少ない常設展示場の中を進む。展示室の中を通る途中で監視員さんたちと目が合い、会釈を交わす。


 そうして、コツコツとスニーカーの音を白い大理石の上で鳴らしながら進んでいき、目当ての絵の前で立ち止まった。

 思わず、ため息が出る。この三年間、月一で来ていたから三十六回くらいは見ているけれど、それでも見飽きることはない絵だ。


 作者は、美術界隈でもそれほど有名ではない画家で、私はこの絵を見るまでは名前も知らなかった。

 百年以上前の油絵で、大きさは四号だとプレートに書いてあったが、詳しい長さは調べていない。タイトルは、「森に聳える」。


 描かれているのは、緑の生い茂る森だ。それを俯瞰で捉えている。

 しかし、森の中はどこか薄暗い。それぞれ異なる緑色で塗られた葉の一枚一枚に暗い影が落ちている。


 森の中で風は手前から吹いているようで、葉は一方方向になびいている。

 葉の生い茂る木の下は、さらに薄暗い。幹は全て、下へ降りる内に暗い影を濃くしていき、殆ど草も生えていない地面は殆ど灰色だった。


 森の奥の方へと目を移すと、城が聳え立っているのが見える。

 石造りの、歴史のありそうだ城だ。屋根は青色で、左側には立派な塔も二棟建っているが、やはり森と同じく暗い雰囲気が漂っている。


 静かで厳かな印象のあるその城もじっと観察すると、石のひび割れに交じって、茶色い蔦が壁の右側の三分の一を覆っていることに気付く。その蔦は葉も生えていなく、私も何回目かの鑑賞でやっと目に入ったほど細かく描かれていた。

 城には窓が嵌め込まれている。塔の方に一つ、母屋の方に三つ。中は真っ暗で何も見えないが、これも目を凝らせば、内側にカーテンがあることが分かる。


 風に吹かれる森と、突然その中に現れる城の上には、曇り空が広がっている。

 手触りを想像させられるような厚みのある、灰色の雲が空を覆っていた。どれほど風が吹こうとも形が変わらなさそうなその雲たちからは、今にも降り出しそうな湿り気が感じ取れる。


 そんな雲と森の間、城よりもさらに奥へ向かう形で、鳥が一羽飛んでいる。

 鳥のシルエットはとても小さい。森や城と比べると、恐らく雀ほどの大きさの鳥だと思う。


 灰色にわずかな茶色が混じったような羽を広げたその鳥は、こちらに背中を向けているため、黒いくちばしで、喉元がオレンジ色をしているのが少しだけ見える。

 作者がヨーロッパ出身なので、その地方の野鳥を色々調べた結果、この鳥はコマドリではないかと思っている。


 鳥が真っ直ぐに、斜め左側に向かって飛ぶ先には、雲のわずかな切れ間から、斜めに差し込む太陽の光が帯となって、薄暗い森へと降り注いでいる。

 この雲の切れ間が時間の経過とともに広がって晴れ渡るのか、それとも雲が自らの比重に耐え切れずに雨粒を落とすのが先か、そのどちらにも転ぶ瞬間を映した絵だ。


 私は、この絵の前に立ち続けて、額縁で隠されていない隅々まで眺めている。

 以前には、木の枝に鳥の巣があることを発見した。先月は、雲の切れ間の周りの方がその厚みを増していることを観察した。


 今日、葉の一枚に虫食いがあるのを見つめている。

 これを齧った虫はどこにいるのだろう。かさかさと囁く葉の擦れの中でそれを探していた。雨が降る前に、いや晴れてしまった方が見つかりやすいのかな……


「お客様、閉館のお時間です」


 隣からの声に、はっと我に返った。

 耳元の風の音も、湿り切った土の匂いも、たちまちに消え失せる。


「すみません。失礼します」


 すっかり顔馴染みになった警備員さんが笑顔で頷くのを背に、私は美術館の出口へ向かう。

 それでも、心はまだあの四号の額縁の内部に閉じ込められたままのようで、足元がふわふわとしている。


 あの絵に、なぜあれほど引き付けられるのか、私にはまったく理由が分からなかった。最初に見た瞬間から、足がぴったりと止まって、そこから一歩も動けなくなったのを鮮明に思い出す。

 その時に抱いたのは、懐かしさだったのか、衝撃だったのか、その二つが交じり合ったものなのか。雨が落ちるのも、晴れが訪れるのも、同じくらいに待ち望んでいて、それを見届けたいと思ったような気もする。


 美術館から一歩外へ出る。現実の風に打たれて、私は今立っているのがアスファルトの上だと実感した。

 空は美しい茜色で、その眩しさに目を細めた。



















































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