第65話 足爪にペディキュア


 ソファーに座った彼が、リモコンを握ったまま、うとうととしている。

 リビングへ戻ってきた私は、呆れてため息をついた。


「眠たいなら、ベッドに行ったら?」

「……寝てないよ」


 はっと目を開けた彼は、私の方を見て、まだ半分夢の世界にいるような顔で答えた。

 「絶対に寝てたよ」と口の内側で言いながら、手で持っていたものを全てソファーとテレビの間のテーブルの上に並べた。ガラスの上から、ことりことりと音がする。


「あれ? ミッドナイトチャンネルは?」

「やっぱ寝てたじゃん」


 彼はテレビの画面を見て、十五分前に終わった番組の名前を出した。


「あー、今日アルヨが出るから楽しみにしていたのに。見逃し配信見るしかないかぁ」


 好きな芸人の名前を出しながら、彼は大きく伸びをした。もうこのまま眠るつもりらしく、リモコンをテーブルに置いて腰を浮かせた。

 そのまま部屋に戻ろうとした彼は、私が足の指の間にセパレーターをはめているのを不思議そうに眺めていた。


「何してるの?」

「ちょっとペディキュア塗ろうと思って」

「ここで?」

「うん。テレビ見たかったから」


 せっせと爪の油を落として、ベースコートを塗っていく私を見下ろしながら、彼はそんなことを訊いてくる。

 同棲して長いとはいえ、こういう作業を見せるのはちょっと恥ずかしい。早く彼が去ってくれないかなと思いながら、意識は爪の方へ集中させる。


 しかし、入念な下準備が終わっても、彼はその場から動かなかった。

 何か言うことも諦めて、私は淡い水色のペディキュアを手に取った。ラメも入っていない、シンプルで正直安物だけれど、特に明日出かける予定もないので、これで十分だった。


「……ちょっとさ、僕も塗ってみていい?」

「えっ?」


 蓋を開けようとした手が、思わず止まった。

 彼の顔を見上げる。真剣に、私の足の爪に視線を注いでいた。


「……興味あったんだ」

「うん。なんか、面白そうだなって思ってて。ちょっと貸して」


 戸惑う私をよそに、彼はどんどん話を進める。

 特に断る理由もなくて、私は彼にペディキュアを渡していた。


 彼は私の左足の前にしゃがんだ。そのまま、ペディキュアの蓋を開けてしまう。

 ぽたりぽたりと、ハケから零れ落ちた水色が、小瓶の中に戻っていった。


「あ、下準備しないとだめだよ」

「さっきやってたじゃん」


 彼は、じっと私の爪から目を離さずに断言した。

 この時になってやっと、私は彼が、私の足にペディキュアを塗りたいのだと気が付いた。彼が自分の足にしたいのかと思っていたけれど。


「大丈夫?」

「うん。プラモとかでもよく塗っているから」


 プラモと爪は違うんじゃないかなと思いながらも、自信満々な彼に水を差したくはなかった。

 それに私も、彼に爪を塗ってもらうことに微かな高揚感を感じている。安物のペディキュアではなく、一番のお気に入りのピンク色のやつを持ってくればと思っているくらいには。


 彼はハケを小瓶の縁でこすって、ペディキュアの量を調整する。その慣れた手つきに感心してしまった。

 プラモを作っている彼の姿を見たことはなかったけれど、手先は私が想像しているよりも器用なのかもしれない。


「ちょっとごめんね」


 彼は、私の左足の親指の方を掴んで持ち上げた。

 足の裏から伝わるくすぐったさと、こうして彼に足を持ち上げられるこそばゆさで笑いそうになるのを、無理やり口を閉じて耐える。


「どっち側から塗ればいいかな?」

「付け根の方から」


 彼は小さく頷いて、ゆっくりとハケを爪の付け根、白い三日月模様まで近付けていく。悠長にも見えるその動きから、彼の緊張が伝わってきた。

 彼の口から出た息が、私のあまり日焼けしていない足にかかった。


 ハケが、私の爪の真ん中を塗った。見飽きたはずの水色が、爪のほんのりとしたピンク色を左右に分かれさせて、より鮮やかに映る。

 思わずため息が出そうになった。ペディキュアは余分にはみ出していなくて、確かに彼は初めてとは思えないほど上手だった。


 次に、彼は右側を塗り、左側を塗る。集中しているためか、手は少し震えていたが、ハケは繊細な半円を描き、水色は爪の中に納まっている。

 白いLEDの光を反射して、鮮やかに輝く私の左親指の爪。彼はそれを見て満足し、ほうと息をついた。


「結構綺麗だね」

「言ったでしょ、自信があるって」


 伸びをしているいる彼をよそに、私は左足を持ち上げてみた。口には出せないけれど、私よりも上手いのかもしれない。

 彼の気も済んだかなと見ると、ハケを小瓶に戻してから取り出した。


 まだ塗るの? と驚いている私の左足を、彼がまた掴む。今度は人差し指だ。

 二回目はさっきよりも動きが速くなっているように見える。さっ、さっ、さっと三動作で塗り終えて、ハケは中指に移った。


 彼は熱心に、怖くなるくらいに集中して、爪を塗っていく。

 中指の全体まで塗られてやっと、私はテレビを見たかったことを思い出したけれど、彼の動きから目を離せなかった。


 今更ながら、恥ずかしくなってきた。足は爪以外のケアもちゃんとしているけれど、彼の真剣な眼差しが、指の毛穴にも注がれていたらと考えてしまう。

 だけど、自分の視点を彼の手元から額へ移したときに、玉のような汗を掻いていることに気が付いた。緊迫しているときに見せる、彼の癖だった。


 私の口元は緩んでいた。

 一緒に暮らしているのだから、恥ずかしいところなんてお互い見飽きているくらいなのに、何に赤面しているのだろう。


 彼の手が小指を持ち上げる。一番小さい小指の爪は、ハケを一度置いただけですぐに染められた。

 彼が微調整を行って、左足の爪は全て水色になっていた。どこもはみ出していなくて、私はうっとりと見とれてしまう。


「あー、意外と疲れるねこれ」

「うん。ありがとう」


 空いた左手で右肩を揉む彼にお礼を言う。

 本来なら、もう一度上から塗っていった方がより綺麗になるけれど、集中力の切れた彼は酷く眠そうで、これ以上引き留めるのは気が引けた。


「右もやりたかったけれど……」

「もう十分だから」


 それでも名残惜しそうな彼にそう言って、部屋に戻るように促す。

 ハケをペディキュアの小瓶に入れた彼は、のっそりと立ち上がって廊下へ出ようとドアを開けた。


「おやすみー」

「うん。おやすみ」


 ドアが閉まる前に声をかけると、彼はこっちを見ずに返事をした。

 一見冷淡に見える行為も、私にとっては慣れっこだった。むしろ、こちらに心を許しているようで誇らしくもある。


 改めて、彼の塗ってくれた左足の爪を見た。角度を変えて、光を白い帯のように反射せる。

 もうしばらく、このままにしておきたい。左膝に顎をのせて、自分の爪だけを眺めていた。






























































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