第64話 猫の話


「そうそう、ミーすけの新しい写真が撮れたんですよ」


 むつがそう言いながら、自分のスマホを操作し始めた。

 他の先輩方が「えー、見たいー」と言いながら、彼女に群がっているのが視界の隅に入って、僕は全身ががちがちに緊張しているのを感じた。


 夏休み目前のテストやレポート提出期間中、図書館や自習室が空いていないから、僕は部室で自分のパソコンでレポートを書いていた。

 同じことを考えていた部員も多くて、僕以外の三人は全員女性だった。それだけでも結構どきどきしていたのに、同じ一年生の睦が飼っている猫の話をし始めてから、さらに居心地が悪くなった。


「わーかわいいー。カメラ目線だねー」

「そうなんですよ。スマホを向けるとピタッと停止してくれて」

「モデルさんみたいー」


 数原先輩と睦は黄色い声ではしゃいでいる。

 どうか、自分たちだけで盛り上がってくれますように……! そう願いながら、キーボードを叩くことに専念する。


「双葉先輩は、猫飼っているんですか?」

「ううん。あ、でも、一菜先輩は飼っているって言っていたよ」

「そうなんですか。写真とか、見てみたいですね」

「今度来た時にお願いしたら?」


 睦と数原先輩の話は、当たり前のように猫のことが中心になっていた。

 レポートもちょうどいい区切りになったし、部室から出てしまおうか? いや、でも自分から彼女たちのいる部室に入ってきたんだから、それは失礼なのでは……。


「ねえ、苗山くん」

「はいっ! なんでしょうか!」


 急に数原先輩に話し掛けられて、僕の声はひっくり返ってしまった。

 恥ずかしいと思っていると、こちらに六つの目が向けられていることを意識して、ますます赤くなってしまう。……一年の雑魚部員に、この洗礼はきついです。


「苗山君は、猫飼っているの?」

「……すみません、飼っていないです」


 僕は小さくなりながら、さらに頭を下げた。

 数原先輩は、「謝らなくてもいいよー」と明るい笑い声を立てていて、ほっとした。僕の発言で、不快になったわけではないようだ。


 僕は、小さい頃から猫アレルギーだ。一度、酷く重症化して病院に運ばれて以来、猫自体がトラウマになっている。

 正直、猫の写真をずっと見ていると体むずむずしてくるし、猫の話も出来るだけしたくない。睦が僕に愛猫の写真を見せてくれなくて本当に良かった。


 だけれども、猫を飼っている人や、猫が大好きな人は世の中にはたくさんいる。猫の話題で盛り上がっている所で、水を差すようなことをしたくない。

 だから、僕は何とか言葉を濁しながら、猫の話をしないようにしている。場合によっては、猫アレルギーだということを言う時もある。


 ただ、本物じゃないなら大丈夫でしょというノリで、猫写真を見せてくる人がたまにいる。

 確かに、猫の写真や映像を急に見たらびっくりするけれど、我慢できる。その分、宣言された後に見せられたら平気という訳でもないから、困ってしまう。


 自分が構え過ぎなのかなーと、心の中で溜息をついてしまう。

 アレルギーがあっても猫を飼っている人の話は聞いたことがある。僕だって猫が可愛いということも分かるのだが、どうにもならない感情もある。


 そんなもやもやした気持ちのままでレポートを書いている間に、横のテーブルの三人はまた別の話に移り変わっていた。

 こんなふうに、余計なことを考え過ぎてしまう所も、僕の悪い点だなと思いながら、エンターキーを押した。






   △






 レポートを完成させた後にそれをコピーしようと図書館のパソコン室に行ってみたが、そこは全部埋まっていて、僕は諦めてそこを出ていった。

 もう日が暮れているし、工学部校舎の自習室なら空いているかもと思い、僕はそちらへ足を運んだ。


「ゔ……」


 校舎の玄関口が見える位置で、僕は思わず足を止めた。

 二枚並んだ透明な扉のうちの一つの前に、一匹の猫が堂々と寝そべっていた。


 あの猫は、学食の周りに居ついている野良猫で、学生たちから餌を貰っているため、随分人慣れしていた。

 普段は大体数名に囲まれてかわいがられているので、僕は学食へ入ることが出来ていたのだが、まさか学食から離れたここで、一匹だけでいるとは思ってもいなかった。


 猫は完全にリラックスモードで、コンクリートの上で胴体も足も尻尾も伸ばしたまま寝転がっている。目を細めて、ピンク色の舌で、左前足をペロペロと舐めていた。

 よっぽどのことが無いと、ここから動かなさそうだ。そうこうしている内に、手も伸ばして、顎もコンクリートの上に置いて、眠り始めてしまった。


 人を怖がらないので、僕が近付いても逃げないだろう。

 遠回りに猫のいない方の扉に入れば、アレルギー反応も出ないかもしれない……でも、こっちに向かってきたら? と思ったら、どうしても動けない。


 大きな音を出してみようか? でも、あんなに気持ちよさそうにしている所を驚かせてしまうのは、申し訳ない……。

 仕方ない、順番が回ってくるまで時間が掛かるかもしれないけれど、図書館に行こうと思った時に、猫が突然ぱっちりと目を見開いた。


 背中の毛を逆立てながら、猫はガラス越しに校舎の中を見た。そのまま立ち上がると、あっという間に走り去っていった。

 不思議に思いながら校舎の方に目を向けると、見知った顔がそれまで猫のいたガラスの扉の横の扉を開ける瞬間だった。


「岩根先輩!」


 ほっとした僕は、自分でも驚くくらいに明るい声を上げて、校舎の三段の階段を降りようとしていた先輩へと駆け寄った。

 工学部の三年生の岩根先輩は、いつもと変わらない無表情な顔を僕の方に向けた。


「えーと、一年の、苗山、だっけ」

「はい、そうです。お疲れ様です」

「うん。お疲れ」


 岩根先輩は同性だけど、異性と話している時みたいに会話がぶつ切りになってしまう。ただそれは僕が悪いのではなく、岩根先輩が自分から誰かと話そうとしないからだった。

 岩根先輩が愛想の悪いわけではないと分かっているから、普段の僕ならそれくらいの挨拶で終わるけれど、今は岩根先輩にお礼を言いたい気持ちでいっぱいだった。


「先輩、先ほどはありがとうございました」

「え? 何かしたっけ?」


 当たり前のことだけど、突然頭を下げられて、岩根先輩は首を傾げている。

 あんまり人には話していなかったけれど、この人なら大丈夫だろうという根拠ない理由で、僕は猫アレルギーのことを打ち明けることにした。


「僕、猫アレルギーで、さっきまで猫がいたから校舎に入れなくて困っていたんです」

「ああ、猫、いたね」


 岩根先輩は淡々と答えながら、猫が一目散に逃げていった方向を、真っ黒な瞳で眺めていた。


「だから、岩根先輩に猫が驚いて逃げてくれて、助かったんですよ」

「そうなんだ。俺、動物に嫌われているんだよね」


 こっちが驚くような事実を、岩根先輩は寂しそうにするわけでもなく、当然のことのように話した。

 近付くだけで猫が逃げていくなんて、羨ましいと一瞬思ったけれど、犬とか小鳥とかと触れ合えないのは辛そうだ。


「嫌じゃないですか?」

「そんなふうに思ったことは無いかな」


 岩根先輩は瞬きを繰り返しながらそう答える。強がりでも何でもなく、本心のようだった。

 自分のことをそんな風に受け入れている先輩のことが、僕はすごく羨ましく感じた。


「僕、猫に対しては、嫌な気持ちになってしまうんですよ。アレルギーだからって理由で、そう思うのは可笑しいですよね」

「じゃあ苗山は、地球上の猫が全て滅べばいいとか思っているのか?」

「そんなこと、考えたことありませんよ!」


 岩根先輩が急に極端な例えを出すので、僕は慌てて首を横に振った。


「猫だって生きていますし、僕の都合だけで滅んでほしいとか、変な話じゃないですか」

「苗山は猫を傷つけたくは無いんだな」

「当たり前ですよ。可哀想じゃないですか」

「優しいんだな」


 そう言われて、僕はちょっと眉を顰めた。

 同じ学部とはいえ、岩根先輩とこんなに話すのは初めてだったので、この人は結構変な人だという事がやっとわかってきた。


「どういう事ですか?」

「人間は当然のように、自分本位で生きているんだ。だけど君は、自分が大変な思いをしても、他の生き物を大切に思っている」

「いや、僕だってアレルギー反応が出るのは避けたいですよ」

「けど、寝ている猫を無理矢理どかそうとはしなかっただろう?」

「まあ、そうですけど……」


 僕はまだ腑に落ちていなかった。

 誰だって、寝ているのを邪魔されたくはない。だから、僕も猫のいない方へ行こうとした、それだけの話ではないのだろうか。


「嫌なものに対しては、とことん攻撃的な人間もいる。君の優しさを普通だと思っているけれど、誇りにしてもいいくらいだ」

「……あの、先輩、今日は大分しゃべりますね」

「……考えてみたら、一週間分喋ったかもしれない」


 急に褒められたのが気恥しくて、そう言い返したら、先輩は真剣な顔で頷いた。

 僕は自分の表情が柔らかくなっているのを感じながら、改めて岩根先輩に頭を下げた。


「そう言ってもらえて嬉しいです。ありがとうございました」

「うん。別にいいよ」

「先輩はレポート提出しましたか」

「うん。これから帰るところ」

「僕はここで印刷してきます。では、お疲れ様でした」

「そう。お疲れ」


 僕たちはそう挨拶して、それぞれの方向へ進み出した。

 僕にとっての当然なことが、誰かから優しいといわれるのは、恥ずかしくも嬉しい。猫アレルギーだという事が、もうちょっと受け入れられるようになれるかもしれない。























































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