第63話 風邪


「おはよう。今日も早いな」


 ドアを開けると、自身の席に座ったシェイクスピアから、そんな言葉がかけられた。

 しかし、それはいつもの鼻声ではないため、私は思わず廊下側の看板を見て部署名を確認した。部屋を間違えた訳ではないようだ。


「どうした、随分驚いているな」


 部屋に入ってドアを閉めた私へ訝しげに、しかし耳馴染みのない声でシェイクスピアが尋ねてくる。

 普段から表情が乏しいと言われる私の顔を見て、驚いていることに気付く彼は、本物のシェイクスピアらしい。私は彼の目の前の、自分の席に座った。


「風邪が治ったのか」

「ああ、本当に久しぶりにな」


 心から嬉しそうに、シェイクスピアは笑う。鼻が詰まっていないことや、数分おきに咳とくしゃみが出ないことが楽しくてしょうがないと言った様子である。

 普段ならば、私が部署に来るのが一番早いのに、今日は調子が良くて一番乗りしてしまったようだ。


「毎日風邪をひいていたら、健康の大切さを忘れてしまいそうになるな。体が資本、健康第一、健全な精神は健全な肉体に宿る」


 腕を組んだまま、しみじみとシェイクスピアが言うのも無理ないだろう。

 彼は年中風邪をひいているので、ある日完治してしまうとそれを持て余している姿さえ見せる。


「おはよー」

「チェスタトン、おはよう」

「おう! おはよう!」


 まだ眠たそうな口ぶりでドアを開けたチェスタトンは、シェイクスピアの大声にはっと目を見開いた。


「え? 声がかすれていない?」

「ああ、完治したんだ」


 なぜだか自慢するかのように、シェイクスピアが親指を立てる。

 未だに信じられないものを見るような目つきを仮にも部長の男に向けたまま、チェスタトンは私の隣の席に座った。


「今日は鼻も通っているし、喉も痛くないし、熱っぽさやだるさも全くない! 最高の気分だ!」

「普段はそんなに満身創痍なのか」


 眉を顰めたチェスタトンの一言を無視して、シェイクスピアは両手を高く天井に掲げた。


「いつも以上にバリバリ働くぞ!」


 しかし、悲しいことに、この部署は五人で事足りてしまうほどの閑職であった。






   ▱






「ほんっと、鬱陶しいわね」


 私の前の席に座っていたクリスティーがペンを動かしていた手を止めて、そう口にした。

 シェイクスピアが総務部に用事があると席を外してしばらくした後の発言だったので、すぐに彼のこと示しているのだと我々は察した。


「確かに、途切れることなく鼻歌を歌い続けていたからな」

「すぐ目の前に聞かされている私たちの身にもなってほしいわ」


 私の言葉に深く頷きながら、クリスティーは溜め息をつく。

 風邪が完治したシェイクスピアの上機嫌さは常軌を逸していて、この部署からドアを開けて廊下へ出る瞬間も、何故だか一回転していったからだった。


「まあ、仕方ないんじゃない? 三年四カ月十日ぶりに風邪が治ったんだから」

「わざわざカウントすることでもないだろ……」


 にこにこしながらそう話すカミュに対して、向かいの席のチェスタトンは顔を顰めて苦言を呈していた。

 カミュは五人だけの部署内でも、やたらと藪をつついて蛇を出す様な言動を繰り返す。流石に一線は超えないだろう……クリスティーへ届いたラブレターの騒動の時は危うかったが。


「しかし、それほど久しぶりの完治だった訳か」

「あんなに風邪をひき続けている方が可笑しいけれどね」

「鼻声に慣れているから、未だに違和感が拭えないけど」

「僕も僕も」


 私の独り言に、クリスティーもチェスタトンもカミュも乗っかってきた。


「今日は昨日より薄着だったな」

「コートを着ていないわけではないけれどねー」

「夏にコートを着ている方が変なのに、僕らも麻痺しちゃっているよ」


 いない人物の悪口ほど盛り上がるものはなく、チェスタトンとクリスティーとカミュは完全に仕事を中断して、お喋りに興じている。

 その時、私は廊下の方からスキップする足音を耳にした。


「戻ってきたのではないか?」


 私がそう呟いた途端、三人はぴたりと沈黙し、丁度その直後にドアが開いて満面の笑みのシェイクスピアが入ってきた。


「いやー、参った、参った。モテ期到来だな!」


 似合わないがはは笑いと共に、狭い部署内を横切って、シェイクスピアは自分の机に腰掛けた。

 三人は非常に面倒臭そうな顔をしていたが、私はどうしても気になって声をかけていた。


「何かあったのか?」

「聞いてくれよ、お前たち」


 疑問を口にしたのは私だけなのに、シェイクスピアは部署内を見回しながら説明し始めた。


「総務部の受付の子にな、『シェイクスピアさんって、かっこいい声をしているんですね。素敵です』って言われたんだよ! 脈ありだよな、あれは!」

「なるほど」

「お世辞でしょ」


 私の相槌とクリスティーの辛辣な本音を無視して、シェイクスピアは顎に手を当てて考える。


「名刺の裏に個人の連絡先を書いて渡したから、今夜あたりに電話があるかもしれん」

「そうか。良かったな」


 どのような形であれ、シェイクスピアの前向きな姿勢には見習うものがあると思っていたので、私はそう返していた。






   ▱






 昼休みが終わり、部署に戻ってきた私の目に、自身の机の上で項垂れているシェイクスピアの姿が入ってきた。


「一体どうした」

「……さっきな、お袋に電話したんだけど、」


 顔を上げず、地を這うような低い声でシェイクスピアが説明を始める。

 その時、ドアを開けてクリスティーとチェスタトンが並んで入ってきた。異様な部署内の雰囲気に呑まれながら、成り行き上黙って我が部長の言葉に耳を傾けている。


「……『誰ですか?』って、訊き返された……」

「ぶふぉっ」


 チェスタトンが噴き出した。クリスティーは、笑いをこらえて真っ赤になった顔を背けている。

 二人の反応に気付いているのかいないのか、シェイクスピアはますます俯いてしまった。


「すぐに、『息子のクロムだよ!』って言ったんだけどな、『息子ならもっと変な声だよ。最近流行っているとかいう、なんとか詐欺じゃないの?』って、言い返されてな……俺が初めてナンパした歳を言って、やっと信じてもらえた……」

「初めてナンパをした歳?」


 さらにタイミングが悪いことに、シェイクスピアの言葉の最後の方で、カミュが入ってきた。当然のことながら、話が分からずに訊き返す。

 笑いを必死に耐えているためにプルプルと震えているチェスタトンが、カミュを廊下へと押し出していった。ドアが閉まってしばらくすると、カミュの「あーはっはっは!!」と笑いながら手を叩いている音が、部署内にまで入ってきた。


「……今夜はヤケ酒だ」


 まだ顔を真っ赤にしたままこちらを見ないクリスティーと、最後の一言まで聞いていた私のことを余所にして、シェイクスピアは机の上に顔を埋めた。

 私は、彼の投げやりな言葉に対して、何やら嫌な予感がした。






   ▱






 翌日、始業ぎりぎりの時間まで現れないカミュが出勤してからも、シェイクスピアは姿を見せなかった。

 我々がどうしたのだろうかと顔を見合わせていると、部長机の上の電話が鳴った。副部長である私が代表して受話器を取る。


「はい」

「……、……が?」

「ああ、私だ」


 電話口から聞こえてきたのは、声というよりもザーザーという雑音のようだったが、私には相手がシェイクスピアだと気が付いた。


「シェイクスピア、風邪がぶり返したのか?」

「……」


 何か、向こうで頷くような風を切る音、そして、淡と血が絡んでいそうな激しい咳が一分ほど続いた。


「無理をするな。皆には、今日は休んでいると伝えておく」

「……………ぞ」

「ああ、任された」


 私は電話を切り、各々の机でシェイクスピアとのやり取りを見守っていた三人に向き直った。


「シェイクスピアは今日休むそうだ」


 ああ……と、全員分の溜息が混じり合った空気が部署内に漂った。


「風邪が治るのはいいけれど、その後必ず休むのはやめてほしいわね」


 クリスティーの溜息交じりの一言が、この場全員の気持ちを代弁していた。

 昨日のシェイクスピアは健康の有難さを高らかに語っていたが、我々からすると、悪化の前兆である小康状態よりも軽めの風邪の状態が長く続いてくれた方が助かるというのが本音である。


 一先ず、私は部長代理として、三人に今日の仕事の指示を出した。とはいえ、今日も出張の無い、平穏な一日ではある。

 部長がいなくとも仕事は出来る。残酷なことに、それが閑職の真実でもあった。





















































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