第61話 「元気出して」


 今日で、クルミが亡くなってちょうど一カ月目になった。

 私は、仕事が終わった後に夜の散歩へ出た。


 一人で歩いていても、右手はリードを持っていた時のように握り締められたままになってしまう。

 ちょっと目線を下にしたら、クルミの可愛らしい茶色くカールした尻尾が揺れているのが見えてしまいそうだった。


 病気になったクルミは、まだ五歳なのにどんどん弱っていってしまい、散歩に行くことも出来ないくらいだった。

 朝と夜の散歩が大好きだったクルミは、それがとても嫌だったんじゃないかと思う。どうにもしてあげられなかったけれど。


 車がびゅんびゅん通り過ぎる道を渡り、河川敷の方へ歩いていく。

 そこの散歩コースですれ違う人たちは、挨拶をするしないに関わらず、殆どが顔見知りだった。ジョギングする人、ウォーキングする人、そして犬を散歩する人、みんな私が一人だという事に気付いて、不思議そうな顔したまま去っていく。


 土手の階段を下りて、ドッグフリーへと向かった。

 仕事が休みの日は、いつもここで行っていた。リードを離したクルミは、すごく嬉しそうに走り回っていた。


 柵に囲まれたスペースには、誰もいなかった。

 そもそも鍵がかかっていて、これ以上先には入れない。私は木の柵に手を置いて、ぼんやりとそこを眺めていた。


 川の向こうから、風が吹いている。湿ったその匂いを嗅いだら、鼻の奥がつんとした。

 譲渡会で、初めてクルミを見た時を思い出す。今よりもずっと小さな体で、私を見上げて尻尾を振っていたクルミ。トイレを失敗して、しゅんとしていクルミ。「ただいまー」とドアを開けると、こちらに向かって走ってきたクルミ……。


 私の中には、たくさんの思い出があるはずなのに、何故だか心は空っぽのままだった。

 いつまでも、くよくよしていたら駄目なのに……そんなことを考えて下を向いた時に、何かが転がっているのが見えた。


 それは、おもちゃのサッカーボールだった。私の掌に乗るくらいの大きさの、緑色のボール。

 土手側の街灯と月明かりで見えたそれは、なんだか懐かしいものだった。


 そうだ、これ、クルミのだった。ふと、大切なことを思い出す。

 クルミがまだ子犬だった頃に、私があげたボールだった。いつもこのボールを、家中転がして遊んでいたっけ。


 いつの間にか、無くしてしまっていたボールが、どうしてこんなところにあるのだろう。

 私は柵の間から手を伸ばして、ボールを拾おうとした。


 すると、ボールが勝手に転がって、私の手から離れてしまった。

 不思議に思っていると、今度は勝手にぽんぽんと跳ねだした。右にいったり、左にいったり、急にぴたりと止まったり。


 それは、なんだか懐かしいものだった。

 クルミが、一番好きなボールでの遊び方だったから。


 ――元気出して。


 クルミが、そう言って私を励ましているような気がした。


「……ありがとうクルミ、私は、大丈夫だから」


 そう呟いた時に、ボールがこちらに転がってきて、柵の外へ出てきた。

 それをそっと拾い上げて、両手で強く抱きしめる。緩やかな弾力を感じた。


 私は立ち上がり、家へ向かって歩き出した。
















































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