第56話 ある愛煙家の独白
この店も全面禁煙だった。
俺は、ドアのガラスに張られた禁煙マークに対して溜息をかけた。
十二時に昼食を摂ろうと店を探し始めてから、一時間が経っても、喫煙できる店が見つからない。
よく行く喫茶店はここから三十分かかるので行くのを諦めたが、こうなるならそっちに行った方が早かった。
春の北風に吹かれながら、スラックスのポケットに手を入れて歩く。
ここは路上喫煙禁止なので、携帯灰皿を持っていても蒸かせない。
最近は本当に禁煙の場所が増えたなと、何年も前に全席喫煙になったファミレス横目にそう思う。
「嫌煙」という言葉もいつの間にか浸透していた。お陰様で、喫煙者の肩身がどんどん狭くなっている。
もちろん、俺も煙草が有害であることや、ポイ捨ての問題はよーく分かっている。
だからこそ、ちゃんとマナーを守り、節度ある喫煙者を目指していたのだが、それだけで済む問題ではないらしい。まあ、禁止薬物よりも害は無いだろうと言ったところで、それは負け犬の遠吠えなので、もはや口を噤むしかないのだが。
しかし、それでも「これは無いんじゃないか」と眉を顰めたくなることは時々ある。
あるショッピングモールの喫煙室は、全面ガラス張りの四角い箱だった。まるで動物園のようじゃないかと思いながらも、入った。そうするしかなかったからだ。
コンビニの従業員出入り口の外に、灰皿が設置されていたところもあった。そこは衝立が二か所だけあって、道路側からは見えなかったが、友人と共にその前を通った女性が「私煙草の匂い、苦手なんだよねー」というのが聞こえた。
通り過ぎた彼女が振り返り、俺の目と合い、お互いに気まずい思いをしたことを思い出す。
だが、どんな形でも、喫煙所がある場所はまだいい。まるで色を塗り潰されているかのように、世間では「全面禁煙」の場所が増えているからだ。
病院や学校は仕方ないとしても、遊園地も全面禁煙がどんどん増えているのには、目を覆いたくなった。……あまり遊園地へ行く予定はないが。
「百害あって一利なし」とは昔から言っていたけれど、まさかここまで嫌われるなんてなあと、ぼんやり考える。
煙草が完全に禁止になってしまった世界というのが舞台の小説を読んだことがあるが、それが段々と近付いてきていて、こちらとしては全く笑えない。
電子煙草に変えたらどうかと、同僚の立木に言われたことがある。実際に、俺も試してみた。だが、どうも駄目だった。
あの形、あの細さ、あの煙が、俺にとっては馴染み深いからだろう。我ながら、昔気質というか、意固地というか、妙なこだわりがあることに驚いた。
スーツのポケットの中にある煙草の箱を握る。これも今日で二箱目だが、もう少しでなくなりそうだった。
今日は仕事が立て込んでいたからか、まあまあ吸っていたらしい。
まだ、喫煙できる店が見つからない。もう、いつもの喫茶店に行こうか。
煙草のことばかり考えていたから、口が完全に寂しがっている。先にどこかの喫煙所を見つけるのが先かもしれない。
前に警察官をやった時は大変だったなと、不意に思い出した。
俺は交番勤務で、主にパトロールをやっていたのだが、その地区が路上喫煙禁止で、こちらは制服だからそれを破ることも出来ず、ものすごく歯痒い思いをした。もう警察官をやりたくないと感じたくらいに。
「あなたは人類が絶滅しても、煙草を吸っていそうですね」といったのは同僚の霧島だった。いつものように、満面の笑みで的を射る。
腹は立ったが、あいつの言っている状況は簡単に想像できた。隣に誰かがいることを全く気にせず吸う煙草は、格別の味がするだろう。
……歩き回っている間に、仕事の時間が近付いていた。仕方ない、昼食は諦めよう。
仕事が終わったら、どこかのビルの屋上で、蒸かそうかな。春の入り口の風に、煙草の煙が混じっていく様子を思い浮かべていた。
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