第57話 「また会いに来たよ」


 私の生まれ育った島には動物園が一つだけあった。

 キリンやライオンはいたけれど、象だけは、何故かいなかった。小学校の遠足で行った記憶の中でも、象を見た覚えがない。


 私にそんな経験があるからか、象に対して妙な憧れがあった。

 テレビや写真で象を見ることはあったけれど、どれくらい大きいのか、どんな風に動くのか、触り心地はどうなのか、そんなことを考えてしまう。機会があったら、背中に乗りたいと夢想するくらいだ。


 そして私が高校生の時に、やっとその動物園に雄と雌の二頭の象が寄贈された。

 もう自分が、動物園に行く歳ではないと分かっていたけれど、どうしても気持ちが抑えられずに、バスを乗り継いで、その動物園を訪れた。


 初めて見た一頭の雌の象は、すぐ目の前の柵の向こうにいて、私は茫然とその姿を見上げた。

 体の大きさと反して目は小さくて、優しい眼差しで私たちを眺めていた。


 「象は私たち人類の友である」と、昔読んだ小説の内容がふと思い出された。

 すぐそばで飼育員さんがいても、たくさんのお客さんの視点に晒されていても、彼女はゆったりと歩き、渡された草を食べている。その行動一つ一つに、親愛の意が感じられた。


 それからしばらく、私は動物園に通うのが日課になっていた。バイトをしていなかったので、月に一回くらいだったが、休日は殆ど一日中象を眺めていた。

 大学受験と進学した後にバイトを始めて、ますます通う機会は減ったけれど、三カ月に一回くらいは見に行った。


 気が付けば、私は社会人になって、すでに新入社員とは言えない位置に立っていた。

 そんな時に、象の雌が妊娠、無事に女の子を産んだ。


 私は、本当に嬉しかった。生意気ながら、初孫が出来たような気持ちになってしまっていた。

 初お披露目の日はもちろん、丁度梅雨の最中で酷い雨風の中で行われた命名式にも、たくさんのちびっ子たちに交じって参加した。


 子象は、人間の女性の飼育員よりも小さく、しかしその分元気いっぱいだった。

 母親が見守る中で、赤土の運動場を元気よく走り回り、自分と同じくらいの大きさのボールにアタックしては転がしていた。


 私は、象の展示場にいる時間が今までよりもさらに長くなっていた。

 どんな瞬間でも見逃したくなくて、常に携帯電話を構えて、容赦なくシャッターを押した。録画もたくさんした。


 そんな風に、私は象の親子に夢中になっていたが、その事をあまり社内の人には話していなかった。

 というよりも、そもそも社内で雑談を交わせるほど親しい人なんていなくて、恐らく私は上司先輩後輩同期問わずに、「仕事はちゃんとしているけど、人付き合いが悪くて、何考えているのか分かんない人」と見られているようだった。


 だから、突然私が、同僚に合コンの欠番埋め合わせを頼まれた出来事は、まさに青天の霹靂だった。

 忘年会や新年会ですら辛いのに、なんで見知らぬ男性と顔を合わせて飲まなくてはいけないのかとは思ったが、上手く断る理由も無くて、首を縦に振っていた。その時、頼み込んできた同僚の方が、虚を突かれたような顔をしていたのを、今でも思い出せる。


 初めての合コンは、正直言って退屈だった。

 愛想のない私に、男性陣の殆どは会話をすることすら諦めていたけれど、例外が一人だけいた。


 私と同じく、人数合わせで呼ばれたという彼は、そのせいなのか最初からシンパシーを感じていた。そして、いつの間にか、彼と二人きりで向かい合うように話していた。

 彼に対しては共通点が色々とあったので、何の緊張もせずに、休日の会話から、動物園に象を見に行っているという話をしていた。すると彼は、休みの日は家でよく本を読んでいるのだと話していた。


 私も読書は大好きだったので、たちまち本の話で盛り上がった。

 私は長編が好きだったが、彼は短編の方を好んで読むらしい。


「短編か……あんまり読んでいないかも。芥川とか、星新一とか、その辺くらい」

「海外作家は?」

「もっと疎いね」

「じゃあ、エイヴラム・デイヴィットソンも読んだことない? 『あるいは牡蠣でいっぱいの海』の作者なんだけど」

「その題は聞いたことあるかも。面白い?」

「面白いよ。星新一が好きなら、気に入ると思う」


 私たちはいつの間にか、ため口で話していた。

 私が初対面の人に対して敬語を外すのは初めての出来事だったが、後々に彼も同じだという事を知った。


 楽しい時間はあっという間で、お開きの時に居酒屋の外で彼が会えなくなるのは寂しいと呟いていたのを聞き、私は恋人になることを提案していた。

 これは、私にとっては隕石が直撃したほどの信じられない言動だった。自分の口から、そんな言葉が出るなんて。


 さらに、彼はその提案に乗った。

 そうして、私たちは恋人同士となった。


 私たちは、世間一般でいう所の「デート」を繰り返した。公園を散歩したり、美術館や博物館に行ったり、図書館に寄ったり、もちろん動物園や水族館も。

 喫茶店で何時間も話し続けていることもあった。彼の知識と見解は非常に興味深くて、話題が尽きて沈黙することは決して起こらなかった。


 ただ、私たちは世間一般の「恋人同士」という括りからは外れていた。

 お互いに、愛していると言い合ったことが無くて、スキンシップといえば、たまに手を繋ぐぐらいだった。


 それで満足していたため、特に何も言うことは無かったが、私に突然東京への出張が決まった時は、さすがに関係が途切れるかもしれないという危惧はあった。

 しかしそれは杞憂で、海を挟んで離れても、私と彼は相変わらずラインや電話で、ささやかな会話を楽しんでいた。


 出張は長引いて、二年以上が経っていた。

 その間に、私は彼との間を密かに確かめた出来事があったけれど、それ以外は案外平凡で、のんびりと時間は過ぎていった。


 そして去年の十二月、クリスマスの日に、私は出張が終わり、彼のいるふるさとへ帰る算段が付いた。

 年末年始は実家に帰る予定だったが、急に二月に出張が終わることになったので、引継ぎや荷物などをまとめることになり、帰省はキャンセルになった。


 彼に会えなくなってしまった事は、本当に寂しい。でも、あと一か月だからと、我慢できた。

 それとはまた別に、よく通っていた動物園のあの子象はどうしているのだろうかと、考えることがあった。ネットで情報は確認していたが、写真と実物を見るとでは、心持ちが全然違うのだろう。


 二月の半ば、私は故郷へ帰ってきた。

 彼と再会して、またくだらない話に花を咲かせる。それもまた楽しかった。


 しかし、今度はこっちでの準備が色々忙しくて、私はまだ動物園に行けなかった。

 前に住んでいたアパートは出張の際に引き払ってしまい、新しい家を探さなければならなかった。いつまでも、実家の世話になるわけにもいかない。


 それはよく分かっていたが、私は家探しなどを全て後回しにして、彼と一緒に動物園へ向かった。

 無理して作った空き時間は、三月の最初の日曜日。空の色は穏やかで、日光も心地よく降り注ぐ、行楽日和だ。


 彼が運転してくれた車の中、そして動物園の中も、私たちはずっと無言だった。

 出張中、ずっと話したいことが色々あったはずなのに、全て蒸発してしまったかのようだ。気まずさもあったが、彼も私に気を使ったのか、あまり話しかけてこない。


 園内の真ん中にある池に架かる橋を渡って、スロープを下りていくと、象のいる場所だった。

 口を結んだ私の胸の鼓動が、段々と大きくなっていく。


 日曜日なのに、人はまばらだった。父親象の方の運動場に人が集まっていたが、母親象は檻の中にいるようで、運動場は空っぽだった。

 私たちはそれを無視して、二つの運動場を挟んだ、檻へと続く道に入る。その途中で、足を止めた。


「また会いに来たよ」


 私は、壁に貼られたたくさんの写真に声をかけていた。

 それは、ここに生まれた女の子の象の写真だった。


 ……子象は、ある日突然食欲不振になり、そのまま衰弱し、五日後には息を引き取ったという。未だに死因は不明だった。

 それは私が出張中に起こり、この動物園のSNSで初めて知った出来事だった。


 一枚一枚の写真を眺めていく。子象が飼育員さんを背中に乗せていたり、寝っ転がった所に布団をかけてもらっていたり、母親の足元で甘えていたりしている、そんな何気ない様子の写真ばかりだった。

 カメラに向かって走ってくるような、子象の写真を眺めていると、この子がこの上なく愛されていたことが分かり、涙が零れてきた。


「……後ろにも人がいるよ。行こう」


 彼が優しくその手を引いて、私は一分くらいでその場を離れた。

 再会がこんな形になってしまうなんて。私は遠くなる運動場を、何度も振り返った。






   □






 私と彼は、一緒に動物園内を回ったが、私はずっと心ここに在らずで、何をどう見ていったのかすらよく分からないままだった。

 長い坂道を上る途中で、屋根と二か所の壁を緑のツタに囲まれた東屋があり、彼はここで一休みしようと提案した。中にはベンチが二つ向かい合うように並んでいて、外側に向いている方を私たちは並んで座った。


 その間、私は一度頷いたくらいで、ずっと黙っていた。

 頭の中では絶えず、亡くなった象の子供のことを考えていた。しかし、その気持ちを上手く言葉に出来ずに、彼に何と話せばいいのか分からなかった。


 何時間もこの場所にいたのだろうか。

 あと五分で閉園を知らせる放送が鳴り、私ははっと上を向いた。


「……帰ろうか?」


 彼は恐る恐るといった様子でそう声をかけると、腰を浮かせた。

 私は、彼の服の袖をつかんで、下へ引っ張ってしまう。


「ちょっと待って」


 彼は、無言でベンチに座り直した。

 私は、一度大きく息を吸って、心の中のわだかまりを話し始めた。


「ずっと考えていた。あの子、今まで、幸せだったのかなって」

「幸せだったと思うよ。あんなに愛されていたんだから」

「うん。分かる、たくさん悲しんでくれる人がいたからね。でも、でもさ、二歳で逝ってしまうのは、短すぎるよ」


 正直に言葉にしてしまった途端、私はまたとてつもない悲しみに襲われて、座ったままうずくまるような格好になった。涙が、ぽつぽつと落ちていく。

 彼の方から、困惑気味の沈黙が流れてくるのが分かった。彼が優しく背中をさすってくれるから、私はまた本音を出してしまう。


「分かってる。私には、どうすることも出来なかったってことくらい。だから、せめて、あともう一度でいいから、元気なあの子の姿を見たかった」

「うん。悔しいね。よく分かるよ」


 こんな気持ちになるのは、初めてではなかった。

 私が出張中に、故郷の叔父が亡くなってしまい、お通夜にも行けなかったことがあったからだ。どうして、こんな時にと、罪悪感に苛まれた日を思い出す。


 私は、顔を上げて彼を見つめた。

 私を心から心配してくれる彼の顔を見ていると、無意識の言葉が飛び出してきた。


「あなたも、知らない間に、いなくなったりしないよね?」


 彼が目を丸くして、私はとんでもないことを言ってしまった事に気が付いた。

 言い訳しようとするが、彼の方が先に口を開いた。


「実は、君がこっちに帰ってきてからずっと考えていたんだけど……」


 彼が不意に目線を逸らす。

 私は言いようもない不安に潰されそうになりながらも、じっと彼の次の言葉を待った。


「僕たち、一緒に暮らさないかな?」

「えっ?」


 今度はこちらが驚く番だった。

 私の目を見て、彼が慌てたように付け加える。


「無茶なことを言っているのは分けるよ。でも、僕も怖くなるんだ。急に君がいなくなったらどうしようって」

「うん」

「でも、きっとそれを避ける方法は無いんだ。だから、出来るだけ、一緒にいたくて、色んなことを話したくて、後悔が少ないようにしたくて……ごめん、変なこと言って」


 彼は自信がなくなってきたのか、俯いてしまった。

 私は、彼を勇気づけるために、力強く首を横に振った。


「ううん。嬉しい。一緒に暮らそう。今すぐには難しくても、一緒に……」

「ありがとう」


 こちらを見つめ返した彼が、微かに照れ笑いを浮かべた。

 丁度その時、閉園を知らせるチャイムが鳴った。私たちは、急いで立ち上がる。


「もうゲート、閉まっちゃったかな」

「怒られちゃうかもね」


 哀しみが完全に癒えることは無くても、今は明るい未来を素直に信じられそうだった。

 私は、彼と手を繋いで、動物園の出口を目指した。空は夕焼けの途中の金色で、あの向こうであの子が笑ってる、そんな気持ちになれた。



















































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