第45話 「中秋の名月ね」
早朝に降っていた雨は午前中には上がっていたが、空はまだ灰色の雲に覆われていた。
今夜は月が見られないようだと、五時半を刺す時計と硝子越しの曇り空を見比べる。
別に月を見るのが趣味だという訳ではないけれど、今日は中秋の名月だから、それを見られないのは少しもったいないような気がしていた。
そういえば、彼の所は晴れているのだろうかと、ビル風に押されてゆっくりと流れる雲を見上げながら考える。そこへ、私を呼ぶ声がして、振り返った。
会社の廊下に立っていたのは、二人の同僚の女性だった。長い髪の方は笑顔で、一つ結びの方は少し怪訝そうにこちらを見ている。
「これから合コンがあるのだけど、行く?」
「いえ、私は結構です」
私は一言そう言って、踵を返して歩きだした。
そのまま会社を出て帰ろうという意志を、強く漲らせて。
後ろでは、二人がこそこそと話しているのが聞こえていた。
一つ結びの同僚が「やっぱり断られたじゃない」と責めると、髪の長い同僚が「仕方ないでしょ、そこにいたんだから」とよく分からない言い訳をする。
私はそれを、怒りも悲しみも感じずに、ただの事実として受け止める。
出張でこの会社に入ってから九ヵ月、未だ同僚たちに腫れ物扱いされていることは、私が一番知っていた。
断ったのは、私が飲み会や合コンなどの酒の席が苦手だからだった。
歓迎会に最初から参加しなかった主役は、この会社の歴史の中でも私だけだろう。
ただ、別に合コン自体を否定するわけがない。
そこで思わぬ出会いが起きることがある。例えば、一年九ヵ月前に、私が彼と出会った時のように。
□
あの夜、私は当時の同僚たちに合コンの数合わせにと、文字通り引っ張られて参加させられた。
その際、同じく数合わせに来ていたのが彼だった。
合コンに馴染めず浮いてしまった者同士、私たちはとても話が合い、初対面とは思えないほどおしゃべりに興じていた。
それでもお開きの時が来る。彼がこのまま別れたくないと言ったので、私は付き合うことを提案し、二人は「恋人」という関係になった。
それからは博物館や公園などで、いわゆるデートをしていたのだが、合コンから半年後、私は出張を命じられて、生まれて初めて故郷を離れて暮らすことになった。
だが、特に理由がなかったので、私たちは別れずに、そのまま「遠距離恋愛」をすることになった。
ラインで会話をしたり、思い出したように電話をしたりして過ごして、およそ半年を過ごした後、私は会社に呼び出されて、彼のいる県へと一度帰ることになった。
奇しくもそれは、織姫と彦星が出会う七月七日の出来事だった。
その二日後の九日は土曜日だったため、私は彼と再会した。
姿形はお互い全く変わっていなかったが、胸の中には話したいことがいっぱいに詰まっていた。
彼の運転してくれる青い軽自動車で、いつも行っていた動物園に向かう道中も、話が途切れることが無かった。
二人とも、お互いに見聞きして思ったことを伝えるだけで精いっぱいだった。
動物園では私が出張に行った後に一歳を迎えた小象に会ったり、園内の池で魚釣りをしたり、同じ敷地内にあるミュージアムを回ったりして、閉館時間まで楽しんだ。
そこから南に行ったところにあるショッピングモールの本屋をぶらぶらしている間に日が沈み、夕食は彼がおすすめだと言ってくれたあるカフェへと案内してくれた。
赤い三角屋根が可愛らしいその一軒家のカフェは、アメリカの郷土料理を出してくれるお店だった。
彼が昼に来たらしいが、食後にそこで本を読んでいたら、店員からケーキを一つサービスされたという。
「それで、次は君と一緒に行きたいと思ってたんだ」
私の向かいに座りながら、彼は珍しく顔を綻ばせながら言った。
天井にはオレンジ色の鈴蘭型のランプが灯り、二人掛けのテーブルに店員が硝子の筒の中のアルコールランプに火を灯してくれて、温かい雰囲気に満ちていた。
青いテーブルクロスの上にはスプーン、フォーク、ナイフが並んでいて、ナプキンが立てて置いてあった。
おしゃれだけど気取らない、昔の洋画に出て来そうな店内を、私は物珍しくてあちこち見まわしていたが、彼もまるで初めてきたかのようにきょろきょろしていた。
「ここは二回目じゃないの?」
「あの時はお昼だったから。夜とは全然違うなーと思って。流れているのも、ビートルズからボサノバに変わっている」
「あの時は何を読んでいたの?」
「芥川の全集。文庫版の」
長編小説が好きな私と違い、彼は短編小説が好きだった。
「芥川は有名どころしか知らないけれど、何が好き?」
「僕は『捨児』が好きかな。芥川の家族に関する話は『杜子春』が有名だけど、『捨児』のラスト一文は鳥肌が立った。もっと、色んな短編集に載ってほしい」
「それは面白そう」
二人でメニューも開かずに話し込んでいたので、さすがに店員の視線が気になり、私たちはやっと料理を選び始めた。
それでも、お互いが優柔不断で、ちょっとしたことからお喋りが始まってしまうので、注文をするのは三十分後のことだった。
料理が来ても、食事が始まっても、私たちの話題は尽きなかった。
私がイッカクの骨格標本を初めて見た話、彼が調べた織姫と彦星の距離の話、私が紹介して彼も好きになった音楽家のライヒの話……取るに足らないことを延々に語り合った。
そして、お互いの幼い頃の話になり、彼は一番の宝物のことを話してくれた。
「クリスマスにもらった『アレクサンダとぜんまいねずみ』の絵本は、ボロボロになるまで読んだなー」
「レオ=レオ二の本だっけ」
「そう。あのネズミの姿が本当に好きで、真似して描いていたよ」
「確かに、シンプルだけど、可愛らしいデザインだよね」
「君の宝物は何だった?」
「私は……ビー玉かな」
「ビー玉」
フォークを持ったままオウム返しをした彼に、私は頷いた。
そして、かつての思い出をゆっくり紐解くように語り始めた。
「道端に落ちているビー玉を拾って、集めていたの。土がついていたりしても、綺麗に洗って。嫌なことがあると、日に翳して、眺めていた」
「硝子って、不思議な魅力があったよね」
「うん。それを、大きな三十センチくらいの、洋画に出てくるお菓子屋さんのキャンディーとかが入っているような瓶に入れて、好きな時に好きな色を取り出していた」
「いいね、それ」
「ありがとう。ここも、まるで映画みたいで好きだよ」
「あのレジが素敵だよね」
彼が指差した先には、出入り口のレジカウンターだった。
そこにちょこんと座ったレジは、青銅色のとても古い型で、これが本当に動いているどうかが不思議なくらいだった。
「うん。なんだか、ウェス・アンダーソンの映画に出て来そう」
「ああ、よく分かる」
「ビー玉も大事だったけど、同じくらいその瓶も宝物だった」
「それも拾ったの?」
「ううん。もらったの。親戚の家に置いてあったのをね」
私は子供頃、本当に時々しか行ったことのないあの家を思い出していた。
「あの家は、Y字路のVの間に立っていて、船の先みたいだから、私は心の中で舳先の家って呼んでいたの。平べったい一階建ての家で、そこよりも広い庭が特徴だった。家の中も面白くて、そこで一人で暮らしているおじさんのコレクションでいっぱいだった。さっき言った瓶もいくつかあったし、誰が描いたか分からない絵が壁に立てかけられていたし、古いカレンダーがいっぱいあったの」
「面白い人だね」
「うん。私の突拍子のない空想話に付き合ってくれたし、自分からのってくる時もあったの。両手で数えるくらいしかあの家には行ったことが無かったけれど、おじさんのことは本当に好きだった」
そんな大好きなおじさんから初めてもらった物だったから、私はあの瓶を本当に大切にしていたのだが、いつの間にかあの瓶とビー玉の行方は分からなくなってしまっていた。
彼も『アレクサンダとぜんまいねずみ』を無くしてしまったのか、お互いに宝物の現在を尋ねることはしなかった。
食事が終わっても、新しくデザートと飲み物を注文して、それがなくなっても、閉店時間ぎりぎりまで私たちは店内で語り合った。
まるで、お互いにしか話し相手がいないかのようだったが、実際友達が少ない私たちだったので、それは仕方ない事だった。
□
私は、嫌な事や辛い事があると、自然に彼との会話を思い出していた。
それが、出張に行ってから、急に増えたような気がする。
彼と見た景色や、交わした言葉や、彼の教えてくれた物事は、どれもきらきら光っていて、今の私にとって、あの頃のビー玉のように美しいものだった。
それを眺めている時は、どんな不条理な叱咤も、心無い陰口も、物珍しそうな視線も、あっという間にくだらないものに成り果ててしまう。
だけど私はまだ、彼のことを愛しているのかどうかが、分からないままだった。
彼と話していると楽しい、思い出は美しい、会えないと寂しい、別れは辛い。
しかし、私たちはお互いに「好き」「愛してる」と言い合ったことは無く、キスやハグをしたことが無く、はっきり言ってしまえば彼に対して肉欲が沸き上がったことも無かった。
これで恋人同士だと言い合ってしまっていいのだろうかと、私は真剣に悩んでしまう。
確かに、付き合うことを提案したのは私の方だが、それは合コンで出会った男女がもう一度会うための口実のようなものだった。
私が彼に感じているのは、友情なのではないのかとさえ、思ってしまう。
彼はどう思っているのかが気になるが、何でも話す間柄でも、これを尋ねることだけは躊躇ってしまう。
それは、この質問で彼を傷つけてしまうのではないのかという不安が胸の内を支配していたからだった。やはり私は、彼を悲しませることはしたくない。
そもそも、友情と恋愛感情の違いとは?
好きという気持ちはどこから湧き上がってくるのか?
そんなことを考えている内に、私は今住んでいるマンションの部屋の前に辿り着いていた。
雨が降らなくてよかったと、日が沈んでしまい、真っ暗になった室内に電気を点けながら思った。
南向きの大きな窓の外を見ると、風が強くなり、外の雲が流れていく。
それからは、着替えたり、パスタをゆでたり、読書をしたりと、何事もなくのんびり過ごしていた。
そして、お風呂から上がった直後、テーブルの上に無造作に置いていたスマホが震えていた。
見ると、それは実家の母からの電話だった。
□
……ベランダに出て、ずっと空を眺めていた。
月も何も出ていない曇り空だけど、何か見えるかもしれないと、縋るように。
そして、ふと我に返り、今まで握り締めたままのスマホを操作して、彼に電話をかけていた。
時刻はもうすぐ十一時だったが、ともかく彼の声が聞きたかった。
『もしもし』
「もしもし、久しぶり」
『どうしたの、急に』
彼は私の震えた声で勘づいたのか、心配そうに尋ねた。
「うん、ちょっと、色々あって」
『どうしたの?』
「……前に、舳先の家の話をしたの、覚えている?」
『うん。もちろん』
「さっき、母から電話が来て、そこのおじさんが亡くなったって……」
『……』
彼からは返事がなかった。
当たり前だ、こんな話を突然されて、困らないわけがない。それでも、私は電話を切れなかった。
「おじさん、今まで知らなかったけれど、腎臓の病気で入院していたって。そんなに悪くはなかったけれど、夕方に急変して、そのまま……」
『……うん』
「本当は飛行機に乗って、すぐに向かいたいけれど、明日も仕事で……」
『分かるよ、その気持ち』
「一体どうしたら、いいのか分からなくて……」
『大丈夫……ごめん、無責任に大丈夫って言っちゃったけれど、それしか言えなくて』
「ううん、いいの」
ただ彼の声を聴いているだけで、私は少し落ち着きを取り戻していた。
ゆっくりと深呼吸をして、彼に話す。
「あなたの声のお陰で、助かった。ありがとう。どうしようもない事があるとね、あなたのことを思い出すの。小さい頃、ビー玉を眺めていた時みたいに」
私は、ずっと彼に対して思っていたことを、初めて告白した。
そして彼がお礼を言ってくれるだろうと思っていたが、彼の返事はそれに反したものだった。
『僕も、同じことを考えていたよ』
私ははっと息を呑んだ。
そして、昔読んだ本の一文を思い出した。
「愛するということは、おたがいに顔を見合うことではなくて、いっしょに同じ方向を見ることだ」――ずっと独りよがりだと思っていた私は、彼と同じ方向を見詰めていた。
それが、愛し合うことだと気づくと、口元は綻んでいた。
「ねえ、今、何を見ている?」
『ベランダで月を見ているよ』
「中秋の名月ね。こっちはすっかり曇っているけど」
『ずっと待っていれば、少しだけでも見えるかもしれないよ』
彼の言葉は月のように眩しくて、明るくて、温かかった。
それらが、ゆっくりと心のかさぶたとなっていく。
「分かった。もうちょっと待ってみるよ」
ずっと同じ月を眺めながら、私たちはお互いに飽くるまでお喋りを続けていた。
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