第44話 額縁系


「ありがとうございましたー」


 からんからんとドアにつけた鈴を鳴らして、二人の主婦のお客様が外へ出ていった。

 私は九十度下げていた頭を上げる。


 時刻は四時三十分。

 今、店内には私たち店員しかいなくて、カフェ・ユゼフの中は小休憩状態になった。


「丸山さん、お疲れさま」


 大きく伸びをする私に、同じバイト生の高宮くんが声をかける。

 私は振り返り、カウンターの中にいる彼に「お疲れさま」と笑顔を見せる


 先程のお客様たちが座っていた席に行って、皿をまとめて流し台へと運ぶ。

 そのまま、布巾でテーブルをピカピカに磨いた。


「丸山さん、何かリクエストはあるかい?」


 カウンターから出た芝原店長が、蓄音機の前に立って、私にそう尋ねてきた。


「あ、じゃあ、ファッツの曲でお願いします」

「分かった」


 ジャズのレコードしかないこのカフェで、私が知っているジャズミュージシャンの名前が、ファッツ・ウォーラーだった。

 店長がレコードをセットして、ジジジという音の後に、軽やかなピアノの音、気の抜けたようなサックスの音、そして愛嬌のある英語の男性の歌声が流れ出した。


「へー。丸山さん、結構ジャズに詳しんだね」

「この人くらいだけどね」


 カウンターから出てきた高宮くんに、苦笑しながらそう答える。

 最近見た、レンタルのDVDの映画に、ファッツの名前があって、覚えたという形だった。


 いつもジャズが流れていて、木の床張りに、控えめな観葉植物、重厚感のあるテーブルと椅子があるこのカフェは、どちらかという喫茶店という雰囲気だった。ベストに蝶ネクタイ、口ひげがダンディな店長の立ち姿も、非常に合っている。

 こういう場所でコーヒーを飲めるのは最高なんだろう。大通りに接している訳ではないけれど、このカフェは歴史と人気があった。


「そう言えば、高宮くん、この前の紅茶、すごくおいしかったよ」


 カウンターに戻った店長が、高宮くんにそう話し掛ける。

 コーヒーが飲めないけれど、紅茶を入れるのは店長よりもずっと上手い高宮くんは、嬉しそうに頷いていた。


「試作品第二号ですね。一号よりも良くなりました」

「あ、やっぱり、高宮くんのブレンドなんだ」


 私が驚きの声をあげると、高宮くんは「そうなんですよー」と鼻高々だ。

 大学生の彼は、経済を勉強しながらここで修業して、将来紅茶専門のカフェを持ちたいという。


 店長は、不思議そうに小首を傾げながら高宮くんを見た。


「あの紅茶、薔薇が入っていたようだけど、あれはどこから?」

「ああ、実は、近所に薔薇が沢山咲き乱れている庭がありましてね……」


 高宮くんが説明を始めた丁度その時、からんからんと、ドアが開く音がした。

 私はそちらに向かって「いらっしゃいませ」と言いかけて、言葉が止まってしまう。


「こんにちは」


 店内に入ってきたのは、橙色のワンピースを着た、常連客の石本さんだった。

 にっこりとこちらを見る彼女の肩には、身長の半分以上の大きさのある、額縁の枠をショルダーバックのようにかけていた。


「……今日は一段と、アグレッシブですね」

「ありがとう。芸術の秋だからね」


 私が苦笑しながらそういうと、石本さんは「ふふっ」と笑ってそう答える。

 席がすべて空いているので、カウンターのすぐ近くのテーブルに石本さんは座った。その椅子に、額縁を立てかける。


 石本さんは、この近所に住んでいる、芸術家だ。

 絵を描いたり、彫刻を彫ったりするのではなく、自分の体と町の風景を、芸術として表現している。


 だからたまに、こうして変わったものを持ってお店にやってくる。

 和紙で出来たドレスを着ていたり、グッピーの入った金魚鉢を抱えていたり、本物の花で彩られた麦わら帽子を被ってきたり。


 石本さんの発想は、私には想像がつかないものなので、今日もおしぼりとお冷をテーブルに運びながら、尋ねてみる。


「今日のコンセプトは何ですか?」

「丸山ちゃん、慣用句で『絵になる』っていうけど、それってどういう状態を表すと思う?」

「え?」


 石本さんは、挑むようにこちらを見上げながら、そう尋ねてきた。

 私は戸惑いながらも、真剣に考えてみる。国語の成績は悪い方だったけれど。


「絵に描きたくなるくらい、すごく綺麗って意味じゃないですか?」

「ぶぶー。高宮くんは、どう思う?」

「俺にも訊くんですか?」


 高宮くんの方を見て、石本さんは同じ質問をする。

 高宮くんは苦笑しながらも、腕を組んで考え始めた。


「絵で描かれていること自体を指すんじゃないですか? もう絵になっている、みたいに」

「うーん、惜しい!」


 石本さんは、嬉しそうにパチンと指を鳴らした。


「じゃあ、答えは何ですか?」


 ちょっと不貞腐れた様子の高宮くんの言葉を無視して、石本さんは真横の額縁を手に取った。

 そして、その大きな額縁を、座ったままで膝に乗せた。頭のてっぺんからおへその辺りまでを、額縁から見せたまま、石本さんは高宮くんの方を向いた。


「正解は、額縁に入っている状態です」

「ああ、なるほど」

「とんちというより、屁理屈じゃないですか」


 石本さんの一言に納得している私に対して、高宮くんは不満そうに口を尖らせていた。

 そんな私たちのやり取りを見て、店長がふふっと笑みを漏らした。


「だから今日は、額縁を持って来たんですね」

「ええ。いいアイディアでしょう?」


 石本さんは額縁を持ったまま、マスターのいるカウンターの方を向いて、お茶目にウィンクしていた。

 そのまま、自分の両腕を伸ばした。


「こうしてみると、マスターも絵みたいね」

「身に余る光栄ですね」

 マスターが、石本さんの方を見ながら優しく微笑んだ。

 石本さんは姿勢を変えずに、ぐるりと店内を見回した。額縁は重たいのだろう、手は細かく震えているけれど、両眼は嬉しそうに細められている。


「本当に、良いカフェね、ここは」

「ありがとうございます」


 石本さんがため息をつきながらそう言うと、マスターは深々と頭を下げた。

 私は石本さんの気持ちがよく分かるので、何度も頷きながら、何気ない調子で声をかけた。


「いつか、石本さんの作品も、ここに飾りたいです」

「……そうね。そうしてもらいたいわね」


 石本さんは小さく、なんだか寂しそうにそう呟いたので、私には不思議だった。石本さんなら、「私の作品は屋外で輝くんだから」と笑い飛ばしそうなのに。

 そして、店長も何故か、一瞬だけ暗い顔になったので、それと何か関係があるのかもしれないと考えた。


 石本さんは額縁を、椅子に立てかけた後、メニューを開いた。

 注文を選ぶ顔は楽しそうだったので、やっぱりさっきのは気のせいだったのかもしれない。


「丸山ちゃん、キリマンジェロコーヒーのホットとチョコワッフル、お願いね」

「はい、かしこまりました」


 私が注文をメモして、振り返ると、高宮くんとばっちり目が合った。

 高宮くんは、右手でオッケーマークを作ると、カウンター内の調理場へ戻っていき、店長もコーヒーの準備を始めた。


 しばらくは、みんな無言で、それぞれの仕事を始めた。私も、観葉植物に水やりを始める。

 店長が、ミルでコーヒー豆を挽く音がジャズと重なり、そこへ石本さんが文庫本のページをめくる音も加わる。カフェ全体で音楽を奏でているようで、私はこの時間が心地よかった。


「来週、田舎の兄がサツマイモを送るって言っていまして」


 コーヒーのドリップするいい匂いが漂い始めた頃、不意に店長がそう言った。

 観葉植物の葉に積もった埃を拭いていた私と、本の世界に没頭していた石本さんが、店長の方を見る。


 確か、店長の出身は茨城の農家で、今はお兄さんの家族がそこを継いで、色んな農作物を育てているらしい。その中の一つにサツマイモがあり、時期になるとたくさんカフェに送ってくれる。

 店長はにこにこしながら、石本さんに言った。


「今度、サツマイモのパイをつくろうと思うから、ぜひ食べに来てください」

「いいですね! ありがとうございます!」


 甘いものが好きな石本さんは、心から嬉しそうな声を上げた。

 それを見た店長は、そう言えばといった様子で、そのまま石本さんに話し掛ける。


「石本さんには、ご兄弟はいますか?」

「いえ、ひとりっ子なんです」


 石本さんがそう言うと、オーブンを見ていた高宮くんが急に振り返った。


「あ、僕もひとりっ子です」

「兄弟がいるって、なんだか羨ましいよね」

「よーくわかります」

「私は、妹がいて、小さい頃は喧嘩ばっかりだったから、ひとりっ子が羨ましかったですね」


 一人っ子同士の石本さんと高宮くんの話を聞いて、私は思わずそう口を挟んでしまった。

 兄のいる店長は、私に同意して、何度か頷いていた。


 しばらくして、キリマンジェロコーヒーとチョコワッフルが出来上がり、私はそれらを石本さんのテーブルに運んだ。

 笑顔で注文を受け取った石本さんは、コーヒーをじっくり味わい、ワッフルを小さく切りながらちょっとずつ食べていた。

 私は石本さんの、この時間を味わうかのような食事方法が好きだった。


 コーヒーもワッフルも綺麗に平らげた石本さんが、レジカウンターを挟んで私の目の前に立った。

 相変わらず額縁を肩にかけていたけれど、その顔は入ってきた時よりも和んでいるように見える。

 私は、店に出るときにお客様が幸せな顔になってくれるこの仕事に誇りを抱いていた。


「今日もおいしかったわ。ご馳走様」

「ありがとうございます」


 お釣りを手渡すときに、石本さんがそう言ってくれたので、私も丁寧に頭を下げる。

 すると、石本さんは額縁を持ち上げて、そこから顔を出した。


「また来週ね」

「はい。本当に絵になりますね」

「ありがとう」


 石本さんはそうお礼を言った後、額縁を持ったままカウンターの店長と高宮くんの方を向いて、「お二人もお元気で」と手を振った。

 店長は「またのお越しをお待ちしています」と答え、高宮くんは「今度は紅茶も注文してくださいね」と声をかける。


 石本さんは二人に頷くと、額縁を肩にかけ直して、ドアから外へ出た。


「ありがとうございましたー」


 レジから出て、私はドアが閉まる直前に、そう言って頭を下げる。

 窓の外で、額縁が落ちないように気を付けながら歩いている石本さんを眺めた後に、私は彼女が座っていたテーブルに向かった。


「……先週の火曜日、虎ノ門の方に用事があって行ったんだが、そこで石本さんを見かけたんだ」


 レコードが終わったタイミングで、ぽつりと店長が呟いた。

 音楽が流れていたままだったら聞き逃してしまいそうなくらいに小さな声に、片付けを始めていた私たちは思わず手を止めていた。


「スーツ姿でね、早歩きしながら電話していたから、話し掛けられなかった。何か切羽詰まった表情で、いつも店に来る石本さんとは信じられずに、もしかしたら姉妹なのかもしれないと思っちゃったんだよ」


 それを聞いて、私ははっとした。

 石本さんに、店長が先週見かけたことを言わなかったのは、自然に兄弟はいないかと訊いていた理由は……。


「ちょっと待ってください。石本さんって、OLだったんですか?」


 同じことを思い付いたのか、高宮くんがそう口走っていた。

 寂しそうな横顔の店長が、小さく頷く。


「石本さんが、OLの格好をして街を歩くというパフォーマンスをしていた可能性も、あるけどね」


 確かに、店長の言う可能性もあるだろう。でも、店長は石本さんにはそう尋ねなかった。

 私にも、心当たりがあった。石本さんが、いつも平日、人が少ない時間に来ていたのは、休みを取って、その時間帯を狙っていたからじゃないのかって。


 体から、段々と力が抜けていき、頑張らないと足元から崩れ落ちそうになるのを、テーブルに手をついて必死に支えた。

 きっと、石本さんはいつも忙しいOLの自分を忘れて、変わった芸術家という役を、この空間だけでも演じていたかったのではないだろうか。そんな彼女と、私はこれから……。


「今度から、石本さんとどんな顔をして会えばいいのでしょうか」

「……きっと、いつものように、笑顔で接客すればいいと思うよ」


 私の一人言を拾い上げて、店長はそう言った。

 店長は、泣き出しそうな笑顔を作っていた。


「ここで、忙しい日常を忘れてくれるなら、本望じゃないか。私は、石本さんとの約束を守って、美味しいサツマイモパイを作って、芸術家の石本さんを迎える、それだけだよ」


 自分に言い聞かせるような店長の言葉には、確かな迷いがあった。店長にも色々思うことがあるけれど、石本さんと接するのはここだけだから、この場所で出来ることしかないのだろう。

 その隣で、高宮くんも力強く頷いている。


「僕も、サツマイモに合う紅茶を用意しますよ。きっと、石本さんも楽しみにしてくれていると思うから」


 彼の決意も固かった。真っ直ぐな瞳は、石本さんとの未来を見据えているようだった。


 私は、私はどうしようか?

 お客様が出入りするドアを眺めて、石本さんがとんでもないものを持ってくる瞬間を、想像する。


「いつものように驚いて、たくさん一緒に話して、一緒に笑いたいです」

「それはいいね」


 石本さんがそれを望んでいるのなら。店長の言葉の後には、それがあるような気がした。

 私は店長の方に振り返り、ゆっくりと微笑んだ。

































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