第41話 『七夕ですね。』


『…十九時になっても、曇りのままです。今夜は七夕ですが、織姫さまと彦星さまが再会できなくなってしまいますねー』


 サンドイッチを齧りながら、朝のテレビ番組で天気予報を見ていた。この時になって初めて、今日が七夕だったことを思い出す。


 天気予報担当の女性はそう言っていたが、日本が曇りでも大雨でも、宇宙の彼方にいる織姫と彦星にはあまり関係ない事で、勝手に天の川を渡って再会しているのだと思う。

 こちら側の星が見えないという感傷を勝手に持ち出すのは、むしろ失礼ではないのだろうか。


 そんな事を無責任に考えている間に、サンドイッチを食べ終えてしまった。レタスとトマトとスクランブルエッグを挟んだ簡単なサンドイッチだが、僕の一番得意な料理だ。

 これを彼女に話すと、納得のいっていない表情をしていたが。


 食後に皿洗いをしながらふと、今彼女はどうしているのだろうかと気になった。まだ会社に行っていないはずだ。

 ラインでメッセージを送ってみようかと、タオルで手を拭きながらスマートフォンに目を向ける。


 彼女も朝支度をしているから邪魔になるのではないのかと一瞬思ったが、いや好きな時に読めて返せるのがITの良い所ではないのかと自分に言い聞かせて、スマートフォンを持って、ラインのアイコンをタップする。

 と言うより、先程のよう逡巡は、彼女と知り合ってから何度も行なったもので、殆ど意味のなさないものとなっているのだが。


『七夕ですね。』


 ラインの最初はシンプルな方がいい。恋人が出来てからの一年間で、僕が学んだことの一つだ。

 彼女とは日常の何気ない会話を交わしたくてラインを使っているのだから、あまり硬くならない方がいい。


『そうですね。』


 彼女から返事が来た。

 それが味気ないものであることはいつも通りとして、僕はその返事が一分も経たないうちに来たことに、喜びよりも戸惑いを感じていた。


 一体どうしたのだろう。

 しかし、文面はそれを諭されないように気を付けながら打つ。


『こちらは夜、曇りになるそうですが、そちらはどうですか?』

『こちらも曇りです。』


 またすぐに返事が来る。

 この次に、織姫と彦星の再会の話をしようと頭の中で文章を練っていると、彼女からメッセージが送られてきた。


『今夜の飛行機で、そちらに行きます。』


 読み終えた瞬間、スマートフォンを落っことしそうになる。慌ててしまい、無意味な事を言ってしまった。


『本当ですか?』

『嘘ではありません。』

『こちらに帰ってくるのですか?』

『いえ、仕事なのですぐに戻ります。』


 彼女の、喋り方と全く同じの淡々とした文面を見て、僕は肩を落とした。

 彼女が短期とは言え出張で海を渡ってから早半年、やはり寂しい時は寂しい。


 落胆する僕を知ってか知らずか、彼女からの言葉はまたしても意外なものだった。


『非常にタイトなスケジュールですが、後日時間を見つけてあなたに会いたいと思います。』


 この彼女からの要望に、僕は気分が高揚するのを止められなかった。

 本来ならば、どのような仕事なのか、滞在期間はいつまでなのか、夜の飛行機に乗ってくるのは何故なのかなど、気になる箇所は沢山あったが、会えるかもしれないとなれば話は別だ。直接会って話せばいい。


 僕の指は自分のものとは思えないほど、滑らかに液晶画面の上を滑り、自分の気持ちを正直に彼女に送っていた。


『それはとても楽しみですね。早くその日になってほしいです。』






   □






 会社で仕事をしていると、時間は瞬く間に過ぎてしまう。いつもの机でパソコンと向き合っているだけで、もう昼食の時間になっていた。

 席から立つ前に、隣の席の同僚が、「メシ喰いに行かないか?」と話しかけてきた。快く承諾する。


 彼とは同期で、同じ部署で、席まで隣同士という偶然から、ほぼ毎日共に昼食を食べに行くという関係になっていた。

 ただ、それ以外の場所ではなかなか会わない。


 どこに行くか軽く話し合い、三日前にも訪れた食堂に向かうこととなった。その道中、僕は何度もスマートフォンを見ていた。

 食堂の空いてる席に座り、料理を注文した後も、僕が鞄からスマートフォンを取り出すのを、彼は不思議そうな顔をして見ていた。


「なんか、今日、やたらとケータイ見てるな」

「ん? ……ああ、彼女からメッセージが届いているのかなって思って」

「彼女!? お前、彼女いたの!?」


 彼女からの音沙汰がない事に気を落としていたため、投げやりに答えると、素っ頓狂な声が返ってきた。

 彼は繁々と僕を眺める。その不躾な視線から、お前にも恋人がいたとはと思っている事は読めている上に、いつもの事なので、僕も特に何も反応せずに「そうだよ」と受け流す。


「いつの間に作ってたんだよ…」

「大体、一年くらいかな。数合わせに出た合コンで知り合って、それが終わった後に付き合おうって話になった」

「マジかよ……。そんなにうまくいくもんかよ……」


 同僚は何故だか絶望して、頭を抱えていた。

 僕は、「意外とそんなもんだよ」と返したが、実際の話はもう少し複雑だ。


 僕は一年前、大学時代の友達に急に呼び出されて、その日特に用事も無かったので、合コンに参加した。

 生れて初めての合コンで、元々テンションを上げる等という行為とは無縁の性格の為場の空気に馴染めず、会話を交わしてもゲームをしても、僕は終始浮いていた。


 しかし、僕と同じような状況になっている人が、女性側のメンバーにも一人いた。

 その内誰からともなく席替えが起った時に、必然的に僕と彼女は向かい合っていた。そこで彼女と初めて一対一で話をした。


 彼女も、会社の同僚から人数合わせの為に呼ばれたと語っていた。

 だが、僕よりも仕方なく来たという様子で、実際に「本当は来たくなかった」と一度だけ口に出していた。


 会話を進めていくと、彼女の性格や趣味、思考なども僕と似ていることに気付いた。

 大きく異なっている所は、僕が出不精なのに対して彼女はよく休日は出掛ける事が多いということだった。特に、動物園や水族館が好きだと言う。


 丁度その頃、その動物園で生まれた小象が最近一般公開されたことを思い出した僕が、彼女にそれを見に行ったかと尋ねると、彼女は淡々と「見ました」と答えた。


「自分の体ぐらいある大きなボールを、一生懸命追いかけて、とても可愛らしかったです」


 その時彼女は食事の手を止めて、その様子を思い出したのか、ふふっと小さく笑った。

 僕は初めて彼女の笑顔を見た。だからなのか、その笑顔が非常に印象深く残り、別の話題に移っても、彼女がまた笑ってくれないかなと思ってしまうほどだった。


 普段飲み会の席では、早く終わってくれないかと願っている僕だったが、その夜は彼女との語らいが楽しくて、居酒屋の閉店の時間になり合コンがお開きになるのが惜しいほどだった。


 会計を支払った後に居酒屋の外に出て、また自然と僕と彼女、他の参加者たちの二組に分かれた時、僕はもう彼女と会えなくなるのが嫌で、「また会いたかったらどうすればいいのかな」と彼女の方を見ずに独り言のように呟いていた。

 すると彼女はあっけらかんと、「だったら、恋人になるしかないんじゃないの?」と返して、僕らは付き合うことになった。


 そんな回想をしている間に、食堂で注文した料理が運ばれてきた。同僚はとんかつ定食、僕はもやし炒め定食を前にして、箸を持つ。

 同僚は食事をしながらも、まだ僕の発言が信じられないといった様子で、怪訝そうな顔を崩さないで喋りかける。


「いやー、おまえに恋人ができるなんてなぁー」

「友達も、そんな反応をしてたよ」


 僕は、恋人ができた事を知った時の、一緒に合コンに行った友人たちの反応を思い出していた。彼等は混乱の余り、しどろもどろになりながら、何故だか僕を責めるような言葉を並べていた。

 しかし母親の反応はそれよりもひどいもので、僕を憐れむような眼をして、「お母さんが孫を欲しがっているからって、こんな嘘を吐くのは良くないよ」と諭すように語りかけてきた。


 僕自身には全くそのような意識は持っていないが、周りの人々にとって僕に恋人ができること、誰かを愛することは天地がひっくり返るほどの事件であるらしい。

 それを示すように、同僚はご飯を噛みしめながら、しみじみと言った。


「ホント、世の中ふしぎなことが起るもんだな。正直、お前がキスしてるところとか想像できんわー」

「……そう言えば、彼女とキスしたことないかも知れない」

「ハア!?」


 同僚は大きく口を開けて叫んだ。ご飯粒が飛び出してくるのが見えて、僕は顔を顰めて思わず仰け反る。


「お前、まだ、彼女とキスしたことねえの!?」

「うん、したことないね」


 僕は彼の口から飛び出たご飯粒を紙ナプキンで拾いながら、返した。

 彼は僕に心底呆れた様子だ。


「信じられない。付き合って、一年経つんだろ?」

「確かにそうだけど、半年前に彼女が出張で県外に行ったから、会った回数はあまりないかも」

「それでよく続くなぁ」


 同僚は半分感心するような声色で言った。

 しかし、その点に関しては僕も同感だったので、大きく頷く。


 彼女から出張の話を聞いた時、このまま別れてしまうのかと秘かに落胆した。

 勿論僕は別れたくなかったので、口には出さなかったが、彼女の方からは何もなかった。その後、彼女が出張に行ってしまっても、彼女と僕との関係が途切れることはなかった。


「じゃあ、『愛してるー』『好きだー』『大好きー』とか言ったり、言われたりしたことないのか?」

「ないよ」

「……デートは?」

「デートはある。何回も」

「どこで何するんだ?」


 彼の好奇心溢れた視線から、僕らの事を珍妙な動物として見ていてる上に、その生活を根掘り葉掘り聞くのは、親しいと言えども失礼に値するのではないのかと思ったが、返さない理由もないので、もやし炒めの豆腐をお茶で流し込んでから話した。


「別に普通だよ。動物園とか水族館とか、面白い展示があるときは美術館や博物館に行ったり、のんびり公園を散歩したりしてる」

「なんつーか……子供のデートみたいだな」

「いいじゃないか。人の嗜好とかは、人それぞれなんだし。僕らはそれが一番楽しいだけだよ」

「けど、公園で歩くだけって、飽きたりしないか?」

「飽きないよ。たまに遊具に乗ることもあるし。大人になって乗ると、子供の時よりも大きく動かせて結構楽しかったなあ。あの、動物にバネがついた遊具があるよね? あれを二人でそれぞれ乗って揺らしたとき、大きく後ろに仰け反るから、背中が地面につきそうになったよ」

「お前……ほんとに子供のデートだな。幼稚園生かよ」


 同僚はそう言って、場も弁えずにゲラゲラ笑いだした。

 僕は流石にむっとしたが、このような状態になった相手に何を言っても無駄だということを、今までの経験からよく知っていた。


 しかし、それでも一言だけ言いたい事はあった。


「君がなんて言おうと勝手だけどさ、それでも僕らは恋人同士なんだよ」






   □






 結局、お昼の時間に彼女からのラインは来ず、夕方の退勤後に送られてきた。


『夜七時十分に出発する飛行機に乗ります。飛行ルートを調べてみたら、あなたの家の上を飛ぶことが分かりました。九時半過ぎにベランダに出ていたら、私の乗っている飛行機が見えるのかもしれません』


 この文章を目にしただけで、僕は生れて初めて心が躍るという感覚がした。

 最後の、「私の乗っている飛行機」という言葉が、詩的で素晴らしく思えた。


 かつて、僕らの関係を、恋人と言うよりも友達のような関係だと言った人がいた。この時僕は激しく動揺して、その人の言う通りかもしれないと思ったこともあった。

 僕らはキスをしたことが無く、愛を囁き合ったこともない、一般的な恋人という定義からは、大きく逸脱した関係なのだろう。


 けれども、彼女と出会ってから、僕の中は思いもよらない自分の感情があることを、何度も意識させられた。

 小学生の頃から騒がしいのが苦手で、友達からも冷めてると何回も言われたことのある、僕も心臓が高鳴ったり、切なくなったりすることがあるということは、大きな発見だった。


 これらは、申し訳ないが友達と一緒にいるときには生まれなかった感情だ。

 そして単純に、恥ずかしくて彼女に行ったことはなかったが、彼女の笑顔を見る事が、僕は大好きだった。


 同じ思いを、彼女も抱いているのだと思いたい。

 直接確かめた事はないが、飛行機のルートを調べた事が、その根拠の一つとして挙げられる。


 僕はバス停でバスを待ちながら、ラインで返事を打っていた。


『それでは、あなたは僕の家の見える窓側の席に座ってほしいです。僕もあなたの姿が見えるように目をよくこらしますから』

『お互いの姿が見えたら、とても面白いですね』


 彼女からの返信に、思わず口元が緩むのが分かった。

 僕らはラインを使うということに不慣れで、まだ敬語で話す所は変わらないが、このように冗談を言い合えるのなら、敬語が外れるのも遠くはないのだろうなと、多少楽観的に考えていた。


 その後彼女から、僕と再会出来るのが、二日後の午後七時頃になりそうだという言葉が送られてきた。それを知ると、僕の心はまた再び落ち着きを失った。

 バスに揺られている間も、面白い返事が思いつかず、結局家に着いてから、『楽しみです』としか言えなかった。


 簡単に夕食を作って食べても、読書をしている間も、心はそわそわとし続けていて、時計の秒針が一秒一秒を刻むことさえ疎ましく感じるほどだった。

 彼女と離れてからの半年間と比べると、この二時間半はあっという間のはずなのに、僕は待ち切れずに九時前にはベランダに出ていた。


 僕が一人暮らしをしている部屋は、四階建てアパートの最上階で、社会人になってから借りた。

 今まではベランダの洗濯物が乾きやすいという事しかこの部屋の利点は無かったが、こうして意識して上を見上げると、空が近くてよく見えることも魅力的に感じられた。


 今朝の天気予報の言っていた通り、夜空は曇っていた。

 しかし、完全に真っ黒く塗り潰された訳ではなく、七割くらいの曇り空で、綿菓子のような形をした黒い雲の切れ間からぽつぽつと星が見えた。


 ふと思い付いて、スマートフォンを開き、七夕の夜空の見方を調べてみる。

 せっかくだから織姫と彦星を探してみようと思ったのだが、この中途半端な曇り空では何処にどの星があるのかさえはっきりと分らなかった。


 一年ぶりに会える織姫と彦星に、半年ぶりに会える……正確には見えるかもしれないのだが、僕と彼女と似ているようで親近感が湧いてきたが、やはり星が見えないのは寂しい。

 今朝も思った通り、本人たちにはそんなことは僕の感傷など全く関係なのだが。


 再び夜空からスマートフォンに目を移すと、開いているサイトに、織姫と彦星は十五光年ほど離れていることが書いてあって驚いた。この距離では、お互いの事が見えているのかどうかも怪しい。

 しかし、織姫ことベガは一等星で、彦星ことアルタイルは太陽よりも大きな星であり、互いの光は距離に関係なく届いているのかもしれないと思い直した。


 僕と彼女も遠距離恋愛であるが、ほぼ毎日ラインで会話をしていて、距離を感じた事はあまりない。

 それでも、半年間一度も会えなかったことは、僕にとって想像以上に堪えていたことを、嫌になるほど思い知らされた。今日一日だけで僕は何度も、驚いたり落胆したり喜んだりを繰り返している。


 空を見上げて、雲が微かに流れているのを眺めている間も、ずっと彼女のこと考えていた。

 彼女が好きだと言っていたライヒという音楽家の事、最後に一緒に見た『母と暮らせば』という映画の事、動物園の小象は彼女が出張に行った後に一歳の誕生日を迎えた事、今度彼女も連れて行こうと思ったケーキをおまけしてくれたビートルズの流れるカフェのこと……。


 そう言えば、彼女が旅立つ前に、暇なときに読んでくれと阿部公房の短編集を渡しことを思い出した。

 僕は『天使』という一篇が一番好きなのだが、彼女は何が好きなのだろうか。


 彼女の事を考えていると、時間はあっという間に過ぎていて、時計の長針が八を指した頃、遠くに小さく赤いランプをともした飛行機の影が見えて、僕は思わず「あっ」と声を上げていた。


 あの、低めに海の上を右から左に向けて飛ぶジャンボジェット機の中に、彼女は乗っているのだろう。

 勿論ここから彼女の姿は見えないし、彼女が僕の家の見える場所に座っていても、僕の事は見えていないと分かっていても、僕は手を振っていた。顔は自然とほころんでいる。


 僕らとは関係なく遠い宇宙の星は再会し、僕らも僕らでまた再び会い、またきちんと顔を合わせる日が、地球の回転のお陰で刻一刻と近付いているのを感じた。
















































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