第40話 愛上丘菊
「あの約束を覚えている?」
今まで黙っていた彼が、不意にそう言った。
後ろを見ると、彼は真横を眺めていた。
臙脂色に染まる空、鴉の鳴き声が聞こえる。
「覚えてない」
悲しそうな声を作って、そう答えた。
昨日の再会が嘘のように、今の彼はよそよそしい。
黒い雲が流れているのを見上げている横顔は、寂しさを隠しきれていない。
決してこちらを向かないまま、彼が語り掛ける。
「子供の頃、故郷の丘に菊を植えようって、約束したんだ」
「三人で?」
静かにそう答えたつもりだった。
するりと出た声は、気持ちに反して震えている。
正解を言い当ててしまったのか、彼は少し嬉しそうに笑った。
「そうだね、覚えてたんだ」
ただの当てずっぽうなのに、私は否定できなかった。
違うと答えて、彼の笑顔を消すのは嫌だった。
辛い辛いと叫ぶ胸を押さえているのに、彼はこちらを見ない。
手で夕日を眩しそうに遮っている姿を見ると、意地悪な気持ちが湧いてきた。
「友達同士のふざけ合いだったのよ、あの約束は」
「何を言っているんだ」
にわかに、彼が下を向いて、声を荒げた。
ぬっと出てきた彼の怒りに、私は足が震えてきた。
「ねえ……」
喉に言葉が張り付いたまま、謝罪の言葉すら出ない。
遥か遠くのどこにいるか分からないあの子のことばかりを彼は考えている。
瞳はいつも、あの子の幻影を追い掛けてさまよっている。
二人きりでいるときも、私とは目を一切合わせない。
平気なわけがないけれど、それでも私は彼のことを、愛していた。
本当の私の気持ちを彼が見てくれる日が、来てくれなくても。
「まさか、君が覚えていてくれただけで、嬉しかったんだけどね」
港から吹く風を吸って、彼は少し落ち着いたようだった。
むしろ、昨日と同じくらい、穏やかな顔でいる。
目は相変わらず、沈みゆく夕焼けに向けられているけれど。
もしもここに、あの子がいたらと、そんなことを考えてしまう。
闇が東の空から迫ってくる。
ゆっくりと、町に明かりが点き始めていた。
「夜になるから、そろそろ帰ろう」
らしくないことを言いながら、私は彼の手を無理矢理握った。
理想通りにはならずに、彼は先に帰ってと、その手を振りほどく。
涙腺が壊れてしまう前に、私はそこから離れた。
レモン色のワンピースを着たあの子を、彼は夕日の中に見出したのだろうか。
論理的に考えなくても、彼はあの子のことしか愛していないのに。
「私の方も見て」
を聞いても、彼は決して変わらないだろう。
ん、とそっけなく、頷いてくれることさえ、望めないんだ。
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