第39話 飴と傘
雨が降ると、いつも思い出す出来事がある。
□
僕は町の中を歩いていた。
しかしそこが、何という町なのかが分からない。
当時五歳だった僕は、お使いを頼まれて、初めて一人でバスに乗って、隣町へ向かったはずだった。
けれども辺りを見回せば、僕は全く知らない町で傘を差したまま、雨の中を歩いていた。
さらに言えば、この町には人が一人もいなかった。
僕は屋根のない商店街のような、歩行者天国のような場所を歩いていたのに、僕以外に歩いている人もいなくて、店の中にも誰もいなかった。
灰色の空からは、朝からずっと雨が落ちていた。
梅雨に入る前に買ってもらったばかりの黄色い子供用傘に雨粒が当たる度に、僕の不安が大きくなっていくようだった。
僕は不安を振り切るかのように、傘を差したまま大きく回した。滴が散らばって、濃い色のアスファルトにばらばらと音を立てる。
それでも振り切れなくて、僕はばくばく鳴る心臓のまま、走り出した。
ばしゃばしゃといくつもの水たまりを、黄色の長靴で蹴飛ばしながら、僕は一生懸命走っていく。
よく見る青い看板のコンビニ、看板の一か所が傾いている八百屋さん、陳列棚が空っぽの魚屋さん、真っ黒な画面のブランド管テレビが並んだ電気屋さん、男性用と女性用が一緒のハンガー掛けに収められた服屋さん―――現実離れして、恐ろしくて、誰もいないはずなのに、視線を感じて、僕はその場に蹲った。
「なんだ。こんな所にいたのか」
ふと、そんな声が聞こえて、僕は傘と顔を上げた。
数歩先に、真っ黒で大きな蝙蝠傘を差した、男の人が立っていた。黒いスーツに黒いネクタイを締めていて、けれどその顔は、傘で隠れて見えなかった。
僕は立ち上がったが、その顔はやはり見えなかった。
その人は、知っている大人の誰よりも背の高い男の人だったが、何故か怖いとは感じなかった。
「おじさん、あのバスに乗ってた?」
「うん? ……まあ、そうだな」
僕はなぜか直感的にそう思って、質問したが、おじさんは気まずそうに言葉を濁して、少しだけ横を向いた。
誰もいなかったこの町で二人だけだと、より雨の音が大きくなったように感じられた。
「家に帰りたいだろ?」
「うん」
「じゃあ、駅に行くぞ」
「え? バス停じゃないの?」
僕が首を傾げると、おじさんが頷くのが分かった。
「バスからじゃあ、帰れないんだ」
はっきりとそう言われて、僕はしまったと思う。
お母さんから散々注意されてしまったのに、バスで乗り過ごしてしまったらしい。もう一人でバスに乗れると思っていたのにと、よく分からない羞恥心に襲われて、顔が火照ってきた。
「ついてこい」
「うん」
背中を向けて歩き始めたおじさんの後を、僕は追い掛け始めた。
家族や幼稚園の先生たちから、「知らない人についていったらいけません」とよく言われていたけれど、人がこのおじさんしかいない状況では、そうするしかなかった。
ふと、前を歩いていたおじさんが、スーツの内側を開いて、何かを取り出している様子が見えた。
最初は煙草を吸っているのだろうかと思ったが、器用に傘を右肩に引っ掛けたまま歩いていて、両手でガサゴソとビニールの音を鳴らしている。
僕はどうしても気になって、少し早足でおじさんの真横に並んだ。
「あっ」
おじさんが持っていた、僕の顔の半分くらいある、オレンジ色に白の渦巻きが入った棒付き飴を見て、僕は思わず声を上げた。
「いいなー」
僕は元々飴が大好きで、こんなに大きな棒付き飴を見たことが無かったので、素直にそう言ってしまった。
それに気付いたおじさんは、飴を包んでいたビニールをスーツのポケットに突っ込んで、口に飴を運ぼうとしていた途中で、足を止めた。傘で隠れているけれど、顔は僕の方に向けているらしい。
「これを食べたいのか?」
「うん」
上下に揺れる飴へ、僕は猫じゃらしを見る猫のような視線を投げつけていた。
「悪いな。飴は、電車で町を出てからな」
「えー」
しかしおじさんは申し訳なさそうにそう言って、不満の声を漏らす僕を無視して飴を口にくわえたようだった。
「早く行こうよ」
「ああ」
僕が急かすと、口いっぱいに飴を頬張っているおじさんが、もごもごと頷いた。
今度は、二人並んだまま歩き始めた。
ふと前方の空を見ると、赤と白のビーチボールのような模様の巨大な風船が、何か文字の書かれた紙を垂らしたまま浮かんでいた。
「おっきな風船」
「ああ。アドバルーンか」
「アドバルーン」
それは僕が初めて見たもので、おじさんの教えてくれた名前を、無意識に繰り返していた。
アドバルーン、アドバルーンと心の中で繰り返しながら、この下はどうなっているのだろうか、僕を乗せて飛ぶことが出来るのだろうかと考えて、見えなくなるまでその姿を目で追っていた。
しばらくして、今度は僕の左側に、レンタルビデオ屋さんが建っているのが見えて、僕はその前で足を止めた。
店のガラスを覆うかのようにべたべたと、様々な映画のポスターが貼られていたが、そこに印刷されていたのは、僕が見たことのない形の言葉だった。
「どこの言葉だろう」
「ポロラジバ語か」
「どこの国?」
「飛行機でも船でも行けないくらい、遠い国だ」
立ち止まってくれたおじさんは少しそっけなくそう言って、そのまま先に進もうとするので、僕も慌てて後を追った。
大人になってからネットで検索してみたが、「ポロラジバ語」はヒットしなかった。
黙ったまま、飴を舐めながら歩いているおじさんの横に並んで、僕は辺りを見回してみた。
激しくはならないが、雨脚はまだ止む気配を見せず、人気のない商店街を濡らしている。
「……本当に誰もいないね」
「人も動物も植物もな」
わざわざ飴を口から出して教えてくれたおじさんの言う通り、ここにきて、僕は一度も犬や猫、街路樹も見かけていなかった。地面を注視しても、雑草すら生えていない。
そう言えば、おじさんに会う前に見かけた八百屋さんに置かれていた野菜や果物は、売り物とは思えないほど腐りかけていた。
車道と歩道の間に乗り上げて、斜めに停まった、フロントガラスの割れた青い車を横目に進んでいると、おじさんが不意に「見えたぞ」と呟いた。
前を見ると、茶色い屋根に白い壁の木製の駅舎があった。家一軒分の隙間が隣にあるだけで、商店街の途中に無理矢理駅を作ったような、不思議な光景だった。
鉄のフェンスの向こうには、線路が一本分しか敷かれていなかった。
その線路の遥か向こう、雨でぼやけているけれど、そこには観覧車が一つ、ゆっくりと回っているのが見えた。
おじさんは駅舎に入ろうとはせずに、緊急脱出用らしい、ホームから外へ出るための階段を上っていった。
僕が首を傾げながら眺めていると、おじさんは立ち入り禁止の白い柵の内側に手を回して、がちゃがちゃと何かした後に、その柵を開けてしまった。
「ほら、ここから入れ」
「え? 大丈夫?」
「どうせ駅にも誰もいないから」
おじさんはこちらに顔を向けて、オレンジの飴を持ったままそう断言する。
僕はその時初めて、そのおじさんのことを少し怖いと思ってしまった。
悪いことをしているという意識はあったものの、僕には誰もいない駅舎を一人で通る勇気もなかったので、僕はそのままホームに続く階段を上った。
おじさんの蝙蝠傘の下を、傘を差したままの僕が通って、ホームの上に立つ。そこはどこにでもあるような、白線が引かれて、壁際にベンチが二箇所置かれた、寂しいホームだった。
傘を閉じて振り返ると、おじさんはまだ雨の下に立っていた。
僕は瞬きを繰り返しながら、飴を舐めているらしいおじさんのことを見ていた。
「おじさんは電車に乗らないの?」
「ああ」
「ずっとここにいるの?」
僕が不安そうな声でそう尋ねたからだろう。
おじさんが飴と傘を持ったまま、笑う気配がした。
「俺の心配してくれるなんて、君は優しいな。他の方法で帰るから、安心しろ」
おじさんは傘を肩にかけて、左手で僕の頭を撫でた。
その手はびっくりするほど冷たかったけれど、僕はなんだか嬉しかった。
その直後、ずっと雨音しかしなかった世界に、ゴオッと、背後から何か迫ってくる音がした。
後ろを見ると、クリーム色に緑のラインが入った電車が、ホームに滑り込んでくるところだった。アナウンスも何もなかったため、僕はその電車も幻か何かのようにしか思えなかった。
「丁度来たみたいだな」
おじさんが、雨のせいで見えない電車の運転席側を向いてそう言った。
それから、飴を口にくわえたまま、スーツのボタンを開ける。スーツの内側は、たくさんの棒付き飴が、漫画のキャラの隠しナイフのように、括り付けられていた。
「何味がいいか?」
「メロン、ある?」
おじさんから飴を貰う約束をしていた僕は、その夢のような眺めからはっとして、緑色の飴を指差した。
おじさんはそれを取り出して、僕に差し出した。自分の顔の半分くらいするその飴を持って、頬を紅潮させながら、僕は頭を下げた。
「ありがとう、おじさん」
「いやいや。食べるのは、電車から降りてからな」
「うん」
僕が頷いた時に、電車が一斉にドアを開けた。
僕は駆け足で、一両目に飛び乗る。向かい合うように設置された長椅子の、観覧車側が見える席に座った。
何の合図もせずに電車のドアが閉まり、ゆっくりとゆっくりと走り始めた。
後ろを向いて結露した窓を手で拭うと、傘を差して立っているおじさんが見えた。おじさんに手を振ると、おじさんも手を振り返してくれた。
僕は席に座り直して、おじさんのくれた飴を見ていた。
大きな渦巻きの付いた飴を何度も回しながら、電車から降りて、これを口に入れるのを楽しみにしていた。…………
□
電車に乗った後、僕がどうしたのか、よく覚えていない。あれほど楽しみにしていた、メロン味の飴を食べたことすら忘れていた。
確かなのは、僕はちゃんと自分の生まれ育った町に帰ってきたことが出来たということくらいだ。
高校生の頃、雨が降った日に、何気なく母にこの思い出話をしたことがある。
その時に、母は目の色を変えて、「何も覚えていないの?」と尋ねられた。
母によると、五歳の僕が隣町にお遣いに行った日、乗っていたバスがスリップしたダンプカーと衝突し、僕は意識不明の状態で病院に運ばれたという。
半日後に僕は意識を回復させたが、僕より前の席に乗っていた二人と運転手は亡くなってしまうほどの大事故だった。
僕はその話を聞いても、事故の瞬間の様子や、入院していた頃のことなどを全く思い出せなかった。
青ざめた顔で、「あんなに怖かった出来事はない」と語る母の言葉も、自分とは関係のない、何かの映画の話のようにしか聞こえなかった。
その一方で、僕はおじさんと歩いた、町の様子をまざまざと思い出せる。雨の音や匂いまでも。
あれはきっと、臨死体験というものだったのだろうかと、母の話を聞いた後ではそう思う。ただ、何もいないあの町を、天国だとは思えないのが正直な気持ちだった。
おじさんの正体は一体誰だったんだろうとも考える。
僕を電車にのせて、あの町からこの世に返してくれたのだから、悪い人ではないのだとは思うのだけど。
家族に訊いてみても、僕の亡くなった親戚には、二メートルを超えるほどの長身の男性はいなかった。
バスの事故の犠牲者かもと思ったが、亡くなったのは、運転手以外は二人とも女性だったと、古い新聞には載っていた。
――僕はバイト先の窓から、雨に包まれた街を見下ろして、あの日見た町を思い出す。
おじさんもあの時言っていた通りに帰ってしまった、本当に誰もいなくなった町を。
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