第37話 弁当屋の前には森がある


 十一時から始まったピークは、二時を過ぎてやっと落ち着いた。

 私は、カウンターの内側にある丸椅子に座り、ほっと息を吐く。


「お疲れ。今日も大変だったでしょ?」


 店長のとよさんが、笑顔で赤色のコップに入ったドクダミ茶を渡してくれた。


「ありがとうございます。でも、ちょっと慣れてきましたね」

「そう。もう五日目だもんね」


 豊さんは、そう言って頷く。

 私も「そうですね」と笑顔で返して、ドクダミ茶を飲んだ。からからの体に、水分がただただ嬉しい。


 ちなみに、豊さんは「豊」という名字で、物腰の柔らかい五十代前半の女性だった。子供たちが独り立ちしたのをきっかけに、小さな弁当屋さんを開いたと言う。

 私はこの弁当屋の近所に住んでいて、五日前に働き始めた。いつか、おいしい料理を提供するお店を出したいという、ざっくりとした夢のために。


 これまでは朝の仕込み、昼のラッシュにヘロヘロになって、この時間帯には殆ど燃えかす状態になっていることが多かった。

 でも、さすがに今日は、少しだけ元気が残っていた。私は、ドクダミ茶の残りを飲み干して、立ち上がる。


「じゃあ、豊さん、私は洗いものしてきますね」

「あ、美亜ちゃん、少し待って」


 いつもの仕事のルーティーンに戻ろうとする私を、豊さんは引き留めた。

 そして、キッチンの方に戻ると、唐揚げ弁当を一つ持って、殆ど空いている陳列棚の上に置いた。


「今日は水曜日でしょ? そろそろあの子が来るんじゃないかしら」

「あの子?」


 私が首を傾げると、豊さんはにっこりしながら頷いた。


「いい、美亜ちゃん。これからくるお客さんは、ちょっと怖がりだから、絶対に大きな声を出したら駄目よ」

「はい、分かりました」


 秘密を話すように、しかしどこか嬉しそうな豊さんの言葉に、釈然としないながらも、私は調子を合わせた。

 そのまま豊さんは弁当屋の出入り口に目を向けていたので、私も同じようにそちらを見ていた。


 弁当屋の真ん前には、片側一車線の道路が通っていて、その先は小さな森になっていた。

 豊さんによると、そこは鎮守の森で、弁当屋からは見えない場所にある、殆ど獣道のような道を進めば祠に辿り着くという。

 話を聞いただけで、私はその森の中へはまだ行ったことが無かった。


 森の中に生えている、青々とした葉っぱを風に任せて揺らす木々を眺めていたら、なんだか眠くなってきた。

 あくびを一つして、前を見ると、小さな女の子が弁当屋のドアを開けようとしている所で、私ははっとした。


「あ、いらっしゃいませ!」

「いらっしゃい、みどりちゃん」

「こんにちは、豊さん!」


 茜色のワンピースを着て、焦げ茶色のショートボブに、白いリボンの麦わら帽子を被った小学一年生くらいの少女が、ドアをくぐってにこにこしながら豊さんに挨拶した。

 いつの間にドアの前に来ていたのだろうと、ぽかんとした私の方へ歩いてくる少女の後ろに、信じられないものがあって、私は目を見張る。


 尻尾だった。少女の背中越しに、揺れる尻尾が見えた。

 茶色くて、長くて太い茶色の尻尾が、少し不安そうに右往左往している。


 しかし豊さんは、そこには何も触れずに、普段のお客さんと接するときのような笑顔で、少女に話し掛けた。


「今日もから揚げにする?」

「はい! お願いします!」

「分かったわ。美亜ちゃん、唐揚げ弁当、一つね」

「…………あ、はい、分かりました」


 いつの間にか口が開けっぱなしになっていた私は、豊さんの声にはっとして、唐揚げ弁当を普段通りに白いビニール袋に入れた。

 みどりちゃんと豊さんに呼ばれた少女は、カウンターを挟んで私の目の前に立っていて、不安そうな視線を真っ直ぐにこちらへ向けている。


「みどりちゃん、このお姉さんはね、この前から働き始めた、美亜さんっていうの」

「初めまして。みどりと言います。私はあっちの森――」


 みどりちゃんは嬉しそうに自己紹介して、大きく真後ろの森を指差したまま、まるでリモコンの四角ボタンを押されてしまったかのように動きを止めた。

 今まで動き続けていた尻尾も、ぴたりと固まっている。


「――の向こうに住んでいます!」


 少しして、にっこりと笑いながらみどりちゃんは最後まで言い切った。

 私は「そうなんですね」と笑いながら返していたが、言葉の途中で軌道修正していたことは丸分かりだった。


 隣のレジカウンターに唐揚げ弁当を置くと、その前に立っていた豊さんは、カタカタとレジを操作して、唐揚げ弁当の値段を入れた。


「唐揚げ弁当、三百六十円ですね」

「はい!」


 みどりちゃんは元気よく返事をして、肩から下げていたピンクのポシェットから、百円玉三枚と十円玉六枚を取り出した。


「あら、今日は百円玉があるのね」

「へへー」


 不思議な褒め方をする豊さんに、みどりちゃんは照れ臭そうに笑っていた。

 豊さんはみどりちゃんの支払ったお金をレジに入れると、唐揚げ弁当を彼女に手渡した。


「はい。どうぞ」

「ありがとう!」


 みどりちゃんは今まで一番大きな声でお礼を言うと、そのまま踵を返して、弁当屋の出口に向かった。

 その背中には、やっぱり茶色い尻尾があって、少し上を向いたままふりふり揺れている。


「豊さん、美亜姉ちゃん、じゃあねー!」

「みどりちゃん、バイバーイ」

「あ、ありがとうございましたー」


 ドアを開けて外に出る直前で、みどりちゃんは大きく手を振った。

 豊さんはそれを満面の笑みで見送って、私はまだ混乱しながらも頭を下げる。


 可愛らしい尻尾を揺らしてスキップしながら、左へ曲がったみどりちゃんが店の中から見えなくなったタイミングで、私は豊さんに詰め寄った。


「い、いいい今の子、な、なんだったんですか!?」

「美亜ちゃん、落ち着いて。みどりちゃんはね、ただの化け狸の女の子よ」

「化け狸って時点で、『ただの』ではないですよね!?」


 我ながら無茶苦茶なことを言っている私に、豊さんは明るい声であははと笑って説明してくれた。


「店の前の森で、みどりちゃんは両親と弟と一緒に、そこで暮らしているのよ」

「本人がそう言っていたのですか?」

「森の中で、とは言っていないけれど、いつも住んでる場所を訊かれたら、森の方を指差してしまうからね」


 豊さんは、くすくす笑いを堪えながらそう説明する。きっとそこから推測したのだろう。

 私は一瞬はっきりと森を指差して固まってしまったみどりちゃんの様子を思い出し、ああと完全に納得した。


「あと、みどりちゃん本人は、尻尾とかちゃんと隠して上手く化けられているつもりだから、そこを指摘しちゃだめよ」

「そうなんですね。あ、もしかして、帽子も、」

「ええ。いつも被ってくるわ。きっと、耳が出ちゃうからでしょうね」

「なるほど……」


 私が納得して頷いていたが、はっとして首の動きを止めた。

 先程使われていたレジの方を見て、次に豊さんのきょとんとした顔を見る。


「もしかして、さっきのお金も、本当は葉っぱだったりして……」

「あ、それは大丈夫よ。祠にはね、小さいながらもお賽銭箱があって、そこから持ってきているみたい」

「いいんですか、それは?」

「きっと、大丈夫よ」


 心配して眉を顰める私に、豊さんはからからと快活に笑った。


「そのお賽銭がね、水曜日に丁度三百六十円くらいになるみたいだから、それを持って唐揚げ弁当を買いに来てくれるの」

「じゃあ、また来週も来てくれるんですかね?」

「きっとね。今までもそうだったから」


 声を弾ませながら返事をした豊さんの表情を見ていると、私まで早くも来週の水曜日が来るのが楽しみになってきた。

 みどりちゃんはきっと、ポシェットに唐揚げ弁当代を入れて、嬉しそうに尻尾を揺らしながら、店の前の森の中からやってくるのだろうと。









































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