第36話 薔薇香る憂鬱


 今年も綺麗に薔薇が咲いた。


 頑なだった緑色の蕾は、日を追うことにそれぞれの色に染まり、綻んでいき、今ではすっかりドレスを広げた女王のような姿を誇っている。

 重なり合った一枚一枚の厚い花びらの合間から、人々を誘惑させるほどの強い匂いが立ち昇る。


 庭の塀の上部に設置された、凝った曲がり具合の黒い鉄格子には、くねくねと白い薔薇が巻き付いて、門には白と赤の薔薇がアーチを形作っている。

 門から家へと続く飛び石を挟むように、黄色とピンクの薔薇の生垣が配置され、庭の左側の東屋にも、柱と屋根には紫の薔薇が咲き誇っている。


 大きすぎるこの庭は、夫が計算を重ねて、何年もかけて手入れをした甲斐もあり、誰が見ても立派だと思える仕上がりになっている。

 夫はきっと、今年も素晴らしいと、庭の方を向いて言うのだろう。私には、その喜びの顔を向けずに。


 そんな夫も、亡くなってからもう十年が経っていた。

 元々凝り性だった夫だが、私が顔も見たことのない親戚から相続したこの家の庭を、薔薇でいっぱいにすることにここまで情熱を傾けるなんて思わなかった。


 夫は仕事から帰るとまず動きやすい格好に着替え、日が落ちるまで土にまみれて庭を手入れしていた。

 庭の街灯が点く頃に、夕食を知らせるために夫を呼んだことが何度あっただろうか。それでも、すぐに夫が家に入ることは数少なかった。


 定年退職後は、青い薔薇を育てたい、品種改良にも挑戦したいと、弾む声で語ってくれた夫だったが、六十手前で、病に倒れた。

 すでに末期状態だったこともあり、夫は病室でゆっくりと衰弱していった。その間も、自分の体以上に気にしていたのは、庭の薔薇のことだった。


 ――庭の薔薇を、頼んだよ。


 それが、私が手を握っている時に弱々しく発した、夫の最期の言葉だった。

 その瞬間、私はどんな顔を向けたのか。きっと無理矢理笑ったのだけど、どうしてもぎこちなさは拭えなかったのかもしれない。


 私は夫の遺言を守り、家にあった沢山の園芸の本を頼りに、庭の手入れを始めた。

 予想以上に力仕事で苦労したが、庭が私の手で段々と美しくなり、薔薇の花が咲くのが楽しみになっていた。

 しかし、その気持ちも、最初の二三年しか続かなかった。


 夫は庭の薔薇を愛していた。

 まるで、自身の芸術作品のように。自分の子供のように。そして、愛人のように。


 子供がいなくても、仲のいい夫婦でいようと約束した夫は、私に向けたものと同じ愛の言葉を、庭の薔薇に囁いていた。

 夕食が出来たと呼びに来た、私が後ろに立っていることにも気が付かずに。


 夫亡き後に、何度世話するのを止めて、薔薇を枯らしてしまおうと思ったことか。

 それを実行出来なかったのは、植物に嫉妬する自分が、余りにみっともなかったから。


 今日もジョウロを持って、薔薇に水を与える。

 重たいジョウロを抱えることも、蛇口と薔薇との往復も、今の私には足腰が辛くなるものだったが、夫は景観に合わないからと、ホースを付けてはくれなかった。


 どこから吹いても薔薇の香りがする風を吸い込んで、私は変わりに溜息を吐いた。

 鉄格子の白い薔薇が生えている土に、水が吸い込まれていく様子を、何も考えずに眺めていた。


「こんにちは」


 その時、頭の上から若い男性の声が聞こえた。

 顔を上げると、二十歳前後の男性が、柵の向こう、薔薇のツタの間からこちらに笑みを向けていた。


「とてもきれいな庭ですね」

「ありがとうございます」


 私は立ち上がり、頬の汗を肩にかけたタオルで拭いながら答えた。

 青年は、近くを散歩中に立ち寄ったというような動きやすいTシャツ姿につば付き帽を被り、興味深そうに私の庭を眺めていた。


「毎日お手入れをしているのですか?」

「はい。とても立派でしょう?」


 私は感心している青年に、混じりけのない笑顔で答えた。

 庭仕事中に知らない人から話しかけられることはよくあるので、私もすっかり対応に慣れていた。


「ええ。本当にすごいですね。写真で見た以上です」


 青年は、門に咲いた赤白の薔薇を見上げながら、純粋にその目を輝かせていた。その称賛の言葉にも、嘘偽りはないのだろう。

 私は顔をにこにこさせながら、有難くその言葉を受け取った。


 テレビや雑誌で紹介されたことは無かったが、ネット上でこの庭の写真が上がっているようで、たまにわざわざ遠くからの来客が現れることがあった。

 この青年もそのような訪問客だろう。彼のことは、近所では見かけたことは無かった。


 ぼんやりとそう考えていると、不意に青年が私の方に向き直り、少しどきりとしてしまう。


「すみません。一つ、お願いをしてもいいですか?」

「はい。何でしょうか?」

「この薔薇を、何本か頂きたいのです」


 多少言いにくそうにしている青年の申し出は、決して珍しいことではなかったので、私は快く頷いた。


「誰かにプレゼントするのですか?」

「いいえ」


 薔薇を貰う人々の目的はそれしかなかったので、私は面食らって、首を振った青年の目を見詰めた。

 青年は、薔薇を眺めていた時よりも、爽やかで眩しい笑顔で、声を弾ませながら言い切った。


「この薔薇をドライフラワーにして、紅茶にするのです」






   □






 家のキッチンに、男性を立たせたのは初めてだった。

 一週間前に薔薇を貰った青年が、そのお礼にと、私に紅茶を振る舞うために、再訪したのだ。


「菱乃さん、ティーポッドはどこにありますか?」

「ここよ、高宮くん」


 大学二年生の高宮ひかるくんは、コンロ前に立って沸騰する薬缶から目を離し、こちらへ振り返った。

 私は食器棚の上から、一つの白地に青い蔦模様のティーポッドを取り出し、彼に差し出した。


「ありがとうございます」


 ティーポッドを受け取った高宮くんは、丁寧に頭を下げた。

 高宮くんが、茶葉と乾燥させた薔薇のオリジナルブレンドをポッドの中に落とすと、薔薇の香りが微かに漂った。それらを刺激しないように、ゆっくりとお湯を注ぐ。


「あとは三分蒸らします」

「庭の東屋で飲みましょうか?」

「いいですね」


 私の提案に、高宮くんは嬉しそうに頷いた。

 東屋へ向かう前に二人で、二つのお盆それぞれの上に二つのティーカップ、ポッド、私が作ったパウンドケーキを載せて、キッチンから裏庭へ出る。


 裏庭は、薔薇が満開の庭とは比べ物にならないほど質素で、暗く、じめじめしていた。

 雑草も生えていない地面を進み、自宅と隣家のコンクリートの高い塀に挟まれた通路を通って庭へ出ると、その余りの眩しさに別の世界に来たかのように錯覚させる。


 穏やかな春の風が囁く庭の真ん中、石造りの丸いテーブルを、同じく石造りの少し低めの四つの椅子が並んでいる東屋に、私たちはティーセットを運んだ。

 夫が亡くなってからそこへ腰を下ろしたことは無かったのだけれども、もしかしたらここでちょっとしたお茶会になるのかもしれないと、前日の内に掃除をしていた。


「何というか、こういう場所で飲むのは、まるで絵画のようですね」

「高宮くんはロマンチストね」

「いや、そう思っただけですよ」


 テーブルの上にお盆を置いた高宮くんが、東屋の内側の屋根にも蔦が巻き付き、紫の薔薇が小さく花開いているのを見て、そう呟いた。

 そこで私も、思わず少女のように、彼をからかいたいという気持ちが自然と湧き上がっていた。

 高宮くんは顔を真っ赤にさせながら、私の真ん前の椅子に腰かけた。


「……もう三分ですね」


 取り繕うようにデジタルの腕時計を見た高宮くんは、不意に真剣な顔になってそう呟くと、ティーポッドを持ち上げた。

 そして、カップの一つにそっと優しく紅茶を注ぐ。オレンジ色の紅茶がふわふわと湯気を立てながら、白いカップの内側を満たしていった。


「お待たせしました」

「ありがとう」


 緊張した面持ちの高宮くんが、私の目の前にティーカップを置いてくれた。

 少し持ちづらい装飾の取っ手を掴んで持ち上げると、生花の時よりも優しい香りが、ふわりと漂った。


 まずは砂糖もミルクも何も入れずに、紅茶に口を付けた。

 味は苦みのない濃いめの紅茶だったが、薔薇の香りが、鼻から抜けていくのを感じた。


「……どうですか?」

「とても、美味しいです」


 心配そうに声をかける高宮くんにそう言って微笑みかけると、彼もほっとした様子だった。

 もう一口飲みこむ。柔らかくて暖かな薔薇の香りに、体中の力が抜けていくのを感じた。


 高宮くんも自分の分を飲んでみたが、その表情はまだ硬かった。


「高宮くん、どう?」

「……美味しいですけど、もう少し茶葉が多くてもいいかもしれませんね。ちょっと割合を見直してみないと……ちょっと、メモを取ります」


 高宮くんはそう断りを入れて、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出すと、真剣な顔で何かを打ち始めた。

 きっと、今の感想を書き留めているのだろうと考えながら、砂糖二スプーン分を紅茶に入れて、かき混ぜる。


「高宮くんは、大学で何を勉強しているの?」

「経営学です」


 スマートフォンをポケットに戻した高宮くんに尋ねてみると、意外な言葉が返ってきた。

 薔薇に興味を持ったり、紅茶に詳しかったりしたことから、園芸関係かイギリス関係の勉強をしているのかと思っていた。


「将来は、会社を経営するのね」

「いえ、紅茶の専門店を開いて、追々はチェーン展開をしたいと思っています」

「あら、そうなの」

「僕は体質的にコーヒーが飲めなくて、でも、世の中にはスタバとかドトールとか、コーヒーの専門店が多くて、なんか、悔しかったんですよ。だから、紅茶をリラックスして飲めるお店があったらいいなと」

「今はその勉強中?」

「はい。個人的に紅茶について勉強しながら、カフェでバイトして、お金を貯めています。大学卒業したら、すぐに店を開けるように」


 高宮くんが目を輝かせながら熱く語っているのを、私は微笑を浮かべながら聞いていた。

 自分に子供がいたらこういう気持ちになるのかしらと思う一方で、眩い未来を持っている彼が羨ましくもあった。


 しばらくは二人で黙り込んで、紅茶の味を楽しんでいた。

 アーモンドの入ったパウンドケーキも、高宮くんには好評だった。


「……ところで、菱乃さん、どうしてこの庭に、薔薇ばかりを植えたのですか?」

「どうして……」


 庭を見回しながら、高宮くんが何気なく尋ねたので、私もはっとした。


 今まで、この景色が当たり前になっていて、そのきっかけも忘れかけていた。

 あれは確か、初めてこの家に来た日、荒れ放題の庭を見て、私が呟いた一言がきっかけだったのでは、なかったのだろうか。


「……確か、私が、『この庭には薔薇が似合いそうね』って言ったから、亡くなった夫が、頑張っちゃったんでしょうね」

「え、この薔薇、旦那さんだったのですか」


 カップを持った高宮くんは、ごくりと紅茶を飲みこんだ後に、バツの悪そうな顔をする。

 彼の顔にははっきりと、「この薔薇を飲むなんて、悪いことをしたのでは?」と書かれてあって、私はくすりと笑ってしまった。


「大丈夫よ。もう、夫が亡くなって十年、今は私がこの庭を管理しているから、文句は言わせないわ」

「そ、そうですか」


 それを聞いて、高宮くんはその顔を弛緩させた。

 私の一言には、嘘も強がりもどこにもなかった。本当に自然に、せせらぎを聞いているような穏やかな気持ちで、そう言い切ることが出来た。


 薔薇の香りが漂う紅茶を一口飲みこむ。その香りは、私の体中に染み渡っていくのを感じた。

 庭の方に目を移すと、今日も私が世話した薔薇たちは、太陽に向かってその花々を開いている。


 ――修吾さん、貴方の薔薇は、とても美味しいですよ。


 私がそう心の中で夫に話し掛けると、夫は「それは困る」と慌てる様子が想像できて、笑みが零れてしまった。










































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