第35話 生
生えている。
第一印象はその一言だった。
普段と変わらない、仕事場から自宅へと続く道の途中、何の変哲のない住宅街の白い壁から、それが生えていた。
夜の闇の中でも、数歩先の街灯のお陰で、それの存在には気付くことが出来た。
色は壁と同じ白色、大きさは一センチに満たないほどで、壁から生えて穏やかな半円を描いている。位置は自分の顎より少し下あたりか。
正面から見ても、反対側に回ってみても、それ以外の印象は得られなかった。
試しに触ってみる。壁と同じ位硬いが、その温度に驚いて、すぐに指を引っ込めた。
それは冷たくも、熱くもなかった。生温かかった。例えるなら人の体温と同じくらいに。
触った方の指には特に異変がないのにほっとして、そのまま家へと歩いて行った。
その時までは、変なキノコか何かだろうとしか考えなかった。
〇
次の晩も、それの前を通った。
職場に行く時は別の道からバスに乗るために気付かなかったが、遠目からでも大きくなっていることに気付いた。
足音を出さないように、ゆっくりとそれに近付く。
やはり、それは大きくなっていた。現在の大きさは二センチほど。
目の前で観察すると、色は同じだが、薄い膜のようなものが上に張っているように感じられた。
それがどこかで見覚えのあるようで、なんだろうと視線を下に向けた時に、自身の手が見えて、はっとした。
それは、指の形にそっくりだった。膜は爪だ。
自分の指を横に並べてみると、形が瓜二つだった。
ぞっとしながらも、気になって仕方がない。
少し強めに押してみたが、昨日と同じ固さと生温かさ以外を感じることはなく、何の反応もなかった。
その事に大きく落胆しつつ、今夜も遅いので、そのまま帰路についた。
〇
毎晩毎晩その壁の前に差し掛かるたびに、そこから生えている突起物は、段々と大きくなっているようだった。
色と固さと温度は変わらないが、出てくるスピードは少しずつ上がっているのではないだろうか。
そしてとうとう十一日目に、手が完全出てきていた。
人の右手にそっくりなそれは、こちらに掌を見せて、指もピンと斜め上に伸ばしている状態だった。最初に見えていたのは、中指だった。
掌に関節と指紋は見えない。まるで石膏かマネキンだ。
夜だからかもしれないが、今日も辺りはひっそりとしている。
この壁の向こうにも普通の家があるはずだが、そこの住民はこれに気付いているのだろうか。
気付いていてそのままにしているのか、もしくはそこの住民がやっていることなのか、ドアを叩いて問いただしたくなったが、現在の時間を鑑みて押しとどめた。
他の家や通行人たちの反応も気になる。
しかし残念なことに、この道を通る際に、他の誰かと会ったことは一度も無かった。
誰かとこれについての見解を提示し合いたかったが、どうも無理らしい。
今日も諦めて、そのまま帰った。
〇
最初の発見からもう一カ月以上が経っていた。
生えているものは、右腕の全てを壁から出して、横を向いた顔と胸板を少しだけ、左足の膝を上げた状態で半分ほど出していた。見えている部分に、服らしいものは着ていない。
顔は、誰かに似ているようで、誰にも似ていないようでもある。
瞳の無い目はぱっちりと見開いたまま前に向けて、鼻はそこそこ高く、唇は薄いという印象を与えた。性別はそこからは読み取れない。
微かに壁からはみ出た胸板は男性的だったが、乳首が無かった。
そう言えば、前髪がウェーブしている様子とかが、マネキンらしく見える。
右腕は曲がっていて、左膝はおへそに付きそうなほど高く掲げて曲げられている。
このポーズはまるで走る短距離走選手のようだった。
今日も辺りに人はいない。
昼間なら通行人がいるのかもしれないが、ここに来る瞬間まで、この生えているものについて忘れているため、バスに乗る道を通ってしまう。
家に帰ってネットとかで情報を集めてみようと思ったり、近くに住んでいる同僚に話してみたりしようといつも思うのだが、それも忘れてしまう。
この生えているものが視界に入ってきた瞬間に、ああ、忘れてきた、気になっていたんだという気持ちが、霧のように立ち込めてくる。
まるで魔法のようだなあと首をひねりながら、それの顔を見る。
一般的に端正だと言われそうなその顔は、呼吸も瞬きもせずにじっと動かずにいた。
あと、どの瞬間に生えてきているのだろうか。
自宅に向かって歩き始めた時にそう思って振り返った。
それは、変わらないポーズのまま、そこにあった。
〇
四カ月も経つと、それは体の殆どを壁から出していた。
あとは何も履いていない右足の踵だけだなと、夜道を歩いてそれに近付きながら思う。
そして、それの数歩前に立った。
身長が全く同じの、それの顔を見る。
やはり、性別はそこからは読み取れなかった。
胸は平たく、股間に何もついていないことは、反対側に回った時に確かめてある。
紳士服用のマネキンなのかもしれないなと、腕を組みながら考える。
触り心地と色は石膏ぽかったが、その割には造りが、何というか、雑だった。
今にも走り出しそうな姿をしているが、腕や足に筋肉の膨らみがなく、躍動感が感じられない。
なんだか、生温かいのに、もったいないなあと思いながら、一歩足を出したら、
それの顔が、突然滑らかに動き出し、こちらを向いた。
そして、口元に微笑を浮かべる。
生きている。
そう思った瞬間だった。
それは完全に右の踵も壁から出して、音もなく体を半回転させ、背を向ける格好になる。
一拍も置かずに、陸上選手もかくやというフォームで、走り出した。
こちらには全く目もくれずに、段々とその白い背中が小さくなっていく。
ただ真っ直ぐに走っているだけなのに、あっという間にそれは夜の光が届かない場所まで行ってしまい、見えなくなった。
ぺたぺたという足音が、暗い住宅街に響いている。
ああ、写真とかで残しておけば良かったなあと後悔しても遅かった。
もう帰ろうと肩を落として、そのまま前へと歩きだした。
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