第32話 憧れの話
大学構内を歩いていると、どこの校舎の壁にも、たくさんのサークルの新入生募集チラシが貼っていることに気が付いた。
聞いたことのないサークル、高校の部活にもあるサークル、色とりどりの「新入生募集!」の文字を眺めながら、僕は特に入りたいサークルはないなーと、正直思っていた。
今まで部活をやったことが無かった上に、スポーツも不得意、趣味らしい趣味も無かった僕には、どこも無縁な世界なように感じられたからだ。
一度、漫画サークルの前で足を止めたけれど、僕が好きな漫画は一作しかないからなあと思い、そのまま通り過ぎてしまった。
その後に、一階から二階へ上がる階段、踊り場に貼られている、カラーのポスターに、僕は再び足を止めた。
それは、草原に一輪だけ咲いている、オレンジ色の花をアップで撮った写真だった。素人目にも、草原の緑と僅かに写る空の青によって、花のオレンジ色がより鮮やかに写った。
花の下には控えめに、「写真サークル新入生募集」の文字と、活動の場所や活動時間などが書いてあった。
僕はさらに注意深くポスターを見て、右下の隅に、「撮影者:三好沙樹」と書いてあることに気が付いた。
この三好さんという人は、どんな人なのだろうか。僕の興味はもっぱら、そちらの方に向いていた。
何故この花を撮ろうと思ったのか、写真を始めたのはいくつの頃からとか、一度会って、色んなことを訊いてみたいと思った。
その為には、写真サークルに入らなければならないのだろうけれど、やはり僕自身は写真への興味が全く持てなかった。
美術の点が特に高かったわけでもなく、スマホのカメラ機能もそれほど使ったことが無かった。兄はイラストレーターをしているのだけど。
やっぱり、会うのは無理だなと、それだけ思って、僕は二階へと上がっていった。
△
写真サークルのポスターを見てから、二週間ほど経った頃だった。
僕はある講義を受けようと、二十分の休み時間に、一週間に一度しか行かない教室へ向かっていた。六棟の五階の空中渡り廊下を進んで、五棟へとたどり着く。
そこは、ちょっとした広場になっていて、壁沿いにテーブルと椅子が置いてある、学生たちの憩いの場だった。
ただ、いつもとの違いは、壁に黒い布が貼られて、一人の男子学生が、額縁に入った写真を飾っている所だった。
写真とは別に、「写真サークル 定期展覧会」と書いてある紙が貼られていた。
その隣には枝に留まった小鳥の写真、そのまた隣にはタンポポの写真が飾られていた。
僕は無意識に、タンポポの写真の前に立っていて、じっくりと写真を眺めていた。
相変わらず、写真のテクニックとかはよく分からないけれど、僕は空に向かって伸びるタンポポと、そこへ向かってはばたくモンシロチョウがとても綺麗だと感じた。
写真の下には、小さなプレートがあり、そこには作品名と撮影者の名前が書かれていた。
「花と蝶 三好沙樹」……僕が初めて気になった、新入生募集ポスターと写真の撮影者と同じ人だった。この人はきっと花を取るのが得意なんだろうなと、見ながら考える。
「……三好の写真、気に入った?」
突然後ろからそう話し掛けられて、僕はびくりと体を震わせた。
振り返ると、さっきまで写真を飾っていた大柄な男性が、驚かしてごめんと小さく頭を下げていた。
「いや、なんか熱心に見ていたから、気になって。……君、新入生?」
「はい、そうです」
頷きながら、僕は背負っていたリュックの肩をぎゅっと握る。
まだ垢抜けていないのかもと、自信を無くしてしまった。
「あ、俺、種子島って言うんだ。四年生で、写真サークルの部長なんだけど」
「はあ」
男性は、四角い顔に人懐っこい笑顔を見せながら教えてくれた。
こちらは、こんな雑用を部長自らがやっていることに驚いて、気の抜けた返事しか出来ない。
「写真が気になるんなら、ぜひ、うちに入ってみてよ」
「……でも、正直、美術とかは苦手で……」
僕は真っ直ぐな種子島さんの視線から目を逸らしながら、ぼそぼそと言い訳をした。
しかし、種子島さんは、ああそんなことかといった表情で、何でもないように話してくれた。
「美術がどうとかは関係ないよ。三好も、めちゃくちゃ絵が下手だし」
「あ、そうなんですか?」
思わず顔を上げて、種子島さんを見た。
種子島さんは、意地悪そうに笑っている。
「人を描いたのか、犬を描いたのか分からないくらいの画力なんだよ。写真を始めたのは、一年で入った時だから、今は三年目だな」
「たった、三年で」
こんなに上手になれるなんてと、僕はもう一度後ろを振り返って、写真を見る。絵がものすごく下手な人が撮ったとも思えなかった。
種子島さんは、気持ちはよく分かるといった様子で、何度も頷いていた。
「うちのサークルは、本気で写真に関する仕事に就きたいと頑張っている奴もいれば、みんなでワイワイできればそれでいいって奴もいるからな」
その話もまた、僕には意外だった。写真サークルに入る人は、大袈裟に言えば、年中写真のことを勉強している人ばかりだと思っていた。
確かに、三好さん以外の写真を見ると、素人目にも上手い下手が現れているように思える。
「ただ、その緩さが気に食わないって意見もあるけど。まあ、サークルだし、自分の合ったスタイルで活動すればいいよ」
種子島さんは、そう言って笑っていた。
それを見ている僕の心は、殆ど写真サークルへと傾いていた。
「……あの、活動日は火曜と木曜の六時からですよね?」
「ああ。待ってるよ」
にっこりと笑う種子島さんに一礼して、僕は次の教室へと向かった。
歩きながら、僕は写真部でどんな部員になろうかなと考えていた。
動物を撮るのを上手くなりたい。実家の愛猫の写真を撮って、離れてアパート暮らしをしている兄に送れば、喜んでくれるかもしれないなと、考えていた。
△
ドアをノックした僕を出迎えてくれたのは、種子島さんだった。
「やあやあ。君が来るのを待っていたよ」
初対面の時のように、彼はにこやかに挨拶をした。
「よろしくお願いします」
「ああ。よろしく。今日は珍しく、他のメンバーも全員来ているから、早速挨拶してよ」
種子島さんに促されて、ドアをくぐる。
窓以外は殆ど写真が飾られた狭い部室には、真ん中に細長い机が置いてあって、六人の男女がそれぞれ座っていた。
一斉に彼らの視線を受け、緊張で体中の筋肉が硬くなっていく。
「じゃあ、一番奥から自己紹介してもらおうか」
種子島さんは、一番奥に座っていた女性を見ながらそう言った。
「はい」と頷いて立ち上がった女性は、長くて茶色い髪を後ろで一つの三つ編みにした、モデルのようにスタイルのいい女性で、僕はこの人が三好さんかもしれないと考えた。
「社会学部の三年、洲本一菜と言います。動物、特にヤギが好きです。よろしくお願いします」
彼女はそう言って、頭を下げた。
他の人と一緒に手を叩きながら、僕は頭の中に「?」を浮かべていた。この人は、三好さんではないのなら、残りの二人の女性のどちらかが、三好さんなのだろうか。
洲本さんが席に着くと、次は隣の男性が立ち上がった。
彼は種子島さんよりも背が高かったが、ずっと痩せているように見えた。失礼だけど、棒人間のように頼りない。顔は丸っこくて、穏やかそうだった。
「農学部、同じく三年、三好沙樹です。花を撮るのが得意です。よろしくお願いします」
彼はそう言って、頭を深々と下げた。
周りは拍手をして、僕も一瞬間を置いて、後に続く。
三好沙樹? この人が? 男性だったの? いや、写真のイメージと全然違うんだけど? 本当に、三好沙樹?
混乱したままの僕は、そんなことを頭の中で繰り返し考えていた。とても失礼だと分かっていたけれど、三好さんがあの人だなんて、すぐには信じられなかった。
その後も、滞りなく部員の自己紹介が行われていたけれど、「三好沙樹」の衝撃から回復していない僕の耳には殆ど入って来なかった。
一度、種子島さんが、「男女比が同じだから、まるであいのりだな」と言っていたのが聞こえてきた気がしたけれど。
「じゃあ、最後に、自己紹介、よろしく」
種子島さんがこちらを向いて、僕はやっと我に返った。改めて、部室内の面々を見回す。
予想と違って男性だったけれど、三好さんは優しそうな人に見えた。他の人も、にこやかにこちらを見ている。
僕は、この人たちだったなら、写真のいろはを丁寧に教えてくれそうだと、根拠もないのにそう感じた。
これからのサークルライフに胸を膨らませて、僕は口を開く。
「教育学部の一年、睦花織です。写真については初心者ですが、これからよろしくお願いします」
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