第31話 最後のお客様
三月三十一日二十二時前、三茶デパートの一階に構えるケーキ屋・トライアングルは客の姿もなく、店内はひっそりとクラシックが流れていた。
ピークを乗り越えたショーケースにはミニケーキが一種類ずつしか残っておらず、ここを経営している六十過ぎの夫婦は、キッチンの調理道具を洗ったりテーブルを拭いたりと、閉店準備に入っていた。
床を箒で掃いていた小清水順子は、ふと手を止めて、ガラスのドアに貼られた、「本日閉店セール 三十年間ありがとうございました」という張り紙を改めて読んでしまう。
彼女は溜め息を吐いて、カウンターを拭く夫の浩一郎の方を振り返った。
「あの子、来ませんでしたね」
「……そうだな」
浩一郎も手を止めて、悲しそうに答えた。
三茶デパートのオープン当初からテナントとして入っていたこの店を、今日で終えてしまうということは、夫婦にとっても辛い決断だったが、もう当日にはその辛さも薄らいでいた。
常連客やデパートの従業員、以前一緒に働いていたアルバイトの子たちなどが訪れてくれて、労いと惜しむ声をくれただけで胸がいっぱいになった。私たちは、こんなにも愛されるケーキを作ることが出来たのだと。
しかし、それでも心残りというものはある。
それは、一度だけ現れたある女性客のことだった。
□
今から五年前のクリスマスの日、二十代中盤の女性が、閉店時間前にふらふらと店の前に現れて、ドアの前でぼんやりと立っていた。
白いコートに青いスカートを着てきっちりとした印象だったが、長い髪の毛はぼさぼさで、目は泣いた後のように充血していた。鞄とは別に、デパートと連携しているレストランのロゴが入った手提げ袋を持っていた。
何やら、訳ありらしい彼女を見て、お節介だと分かりながらも、順子はドアを開けていた。
「どうぞ、中に入ってください」
「あ、で、でも、」
たじろぐ女性に、順子は安心させるかのように微笑んだ。
「大丈夫ですよ。閉店時間前で、安くなっていますから」
順子の肩越し、カウンターの中に立っている浩一郎も微笑して頷いているのを見て、やっと女性は店内に入ってくれた。
デパートの通路より少し照明を落とした店内では、ショーケースの中は白く輝いているようだった。
彼女はその前に立ち、残り少ないミニケーキを吟味した。
「あの、レアチーズケーキ、下さい」
女性が硝子を押さえて指したのは、タルトの中に真っ白なレアチーズがドーム状に盛り上がり、そのてっぺんにミントの葉がちょこんと飾られたケーキだった。
浩一郎は頷いて、女性に尋ねる。
「レアチーズですね。お持ち帰りしますか?」
「……ここで食べることもできますか?」
「いいですよ」
女性の遠慮がちな申し出に、浩一郎は間髪入れずに承諾した。
本来ならば、閉店時間三十分前に店内での食事は締め切ら得ているのだが、彼女が帰りたくないのなら、今日くらい大目に見ようと思っていた。
順子も同じ考えで、キッチンから洗ったばかりの皿とフォークを持ってきてくれた。
女性はショーケースの前にある、丸い木製テーブルに腰掛けた。出入り口に向かい合うように置かれた椅子が、ぎっと軋む。
他の椅子に荷物置いた直後に、順子が皿に乗ったレアチーズケーキを持ってきた。
「どうぞ、ごゆっくり」
「ありがとうございます」
目の前にケーキを置いてくれた順子に会釈をして、彼女はフォークを手に取る。
順子は微笑みを浮かべたまま、踵を返して厨房へと向かった。
女性は、ゆっくりとケーキにフォークを入れる。白いレアチーズが、さっくりと割れた。
そのまま、レアチーズの一部分を掬い取り、口へと運んだ。
甘くて少し酸っぱい、チーズの味が舌に広がった。彼女の鼻の奥がつんと痛くなる。
涙が一粒だけ、左目から零れ落ちた。
「……美味しい」
こんな心情の日でも、自分にはケーキを美味しいと思える心があることが、少し嬉しかった。
しばらく、黙々とケーキを口に運ぶ彼女だったが、そのテーブルの上に湯気を立てたティーポッドと空のコーヒーカップが置かれて、思わず手を止めた。
顔を上げると、順子と目が合った。
「すみません、注文していないのですが……」
「いいのよ。サービスだからね」
涙が光る目で見上げて、おずおずと申し出るその女性に、順子は笑顔でそう答えた。
彼女はまだ困惑しているようだったが、素直に「ありがとうございます」と会釈した。
女性はティーポッドを傾けて、コーヒーカップにオレンジ色の紅茶を注いでいく。
微かなリンゴの香りに、彼女の心が華やぐのを感じた。
その後、彼女はゆっくり時間をかけて、紅茶を飲み、ケーキを味わった。
もう閉店の時間は過ぎていたが、浩一郎も順子も何も言わずに、後片付けを進めている。
最後のタルト生地を飲み込んで、女性は銀色のフォークを皿の上に置いた。
椅子から立ち上がると鞄を持つ。そこから財布を取り出すと、浩一郎のいるレジの方へと向かった。
「すみません、お会計、よろしいですか?」
「はい。三百円です」
「え? 紅茶代は……」
「こちらからのサービスです」
戸惑う女性に、浩一郎はそう言い切って微笑んだ。
それでも彼女は、財布からお金を出さずに言い返した。
「いえ、閉店の時間を過ぎてもいさせてもらったので、これ以上迷惑をかけるわけにはいきません」
「別に迷惑ではありませんよ。気にしないでください」
「でも、どうしても、受け取ってほしいんです」
「じゃあ、こうしませんか?」
女性と浩一郎の話が平行線を辿っていたので、テーブルの上の食器をキッチンに運ぶ途中だった順子が、浩一郎の隣で立ち止まり、ある提案をした。
「また、ここへ来てください。そして、ケーキを注文してください。それでいいんですから」
「……分かりました。また、必ず来ます」
女性は、唇を噛みながら頷いた。財布を強く握る両手は、少し震えている。
レアチーズケーキの代金を支払って、彼女は店のドアを開けた。
「ありがとうございました」
浩一郎はそう言って、一度も振り返らない女性の背中へと、順子と共に頭を下げた。
□
あれから五年も経ったが、あの女性は一度も店を訪ねなかった。
今まで「トライアングル」には様々な客が来たが、彼女ほど印象に残った客もいない。加えて、またいつか来てくれると言ってくれたことが、気になっていた。
「何か事情があって来れないのだろうが……」
「やっぱり、もう一度会いたかったねえ」
浩一郎と順子は顔を見合せた。どちらにも、残念そうな表情が浮かんでいる。
二人とも、その女性が来てくれなかったことを責めている訳ではなかったが、それでもやはり心残りが確かに合った。
だが、閉店の時間が差し迫っている。
順子は店外に出していたメニューボードを片付けようと、出入り口に顔を向けた時、一人の女性がドアのノブに手を伸ばしているのが見えた。
「すみません、まだやっていますか?」
ドアの上部につけたベルを鳴らして入ってきたのは、二人が一番会いたかった女性だった。
五年前のクリスマスの時とは違い、彼女の表情は明るく、口元には微笑みが浮かんでいる。
「……あ、大丈夫ですよ!」
順子は驚きのあまり、反応が少し遅れてしまい、出した声も裏返っていた。
彼女はくすりと笑いながら、店内に入ってきて、ショーケースの前に立った。
ケーキを吟味する彼女は、五年前よりも髪が短くなっていて、メイクも自然なものに変わっていた。
服装も、太陽の色のようなオレンジのワンピースで、足元はスニーカーを履いている。彼女の左手の薬色には、金色の指輪が光っていた。
「えっと、ショートケーキとモンブラン、チーズケーキをお願いします」
「はい。お持ち帰りですか?」
「お持ち帰りです。……ここ、閉店するんですね」
順子がケーキを小さな箱に入れている間、女性がそう話し掛けてきた。店内を見回してみると、開店当時の二人の写真が、壁に飾られているのを見つけた。
待っている女性の近くに来た浩一郎が、女性に向かってやはり寂しそうに語りかけた。
「はい。私たちも年ですからね。子供もいなかったので、店を引き継ぐことも出来なかったんです」
「でも、ここで修業した子が、今は中野の方で店を出しているので、そちらの方へも是非行ってみてください」
順子はそう説明しながら、ケーキの箱を後ろの作業台に置いて、代わりに中野の店のチラシを渡した。
女性は受け取ったチラシを眺めながら、呟くように話し始めた。
「本当は、もっと早く来たかったんです。でも、色々あって、結婚もして、少し遠くの方に引っ越したので、中々来れなくなってしまって」
「気にしないでください。今度は笑顔が見れて、私たちもほっとしています」
浩一郎の言葉に、女性は気恥しそうに笑みを返してくれた。
彼らはレジの前に移動して、三つ分のケーキの代金を女性が支払い、順子がケーキの入った箱を手渡しながら、ふと気になったことを彼女に尋ねた。
「引っ越したのなら、どうしてここが閉まることを知っていたのですか?」
「確かに、チラシやネットなどで宣伝していませんでしたからね」
「それは、ある日、ずっと登録したままだったここのデパートのメルマガから、突然名指しでメールが来て、知りました」
それを聞いて、順子と浩一郎も驚いて目を見開いた。
「あ、名前はあの時言っていませんでしたよね? でも、あの日、私が予約したレストランで、メルマガのクーポンを使ったんです。その時の記録から、メールが届いたんだと思います」
「ああ、探偵さんにお願いしていたからね」
「レストランの袋のことまで話しといて良かったなあ」
順子と浩一郎が納得したように話しているのを見て、今度は女性の方が目を丸くした。
「探偵って、何の話ですか?」
「このデパートには、探偵が常駐しているのですよ」
「ホールによくいるので、警備の人に聞いたら分かりますよ」
「そうですか。帰りにお礼を言いますね」
浩一郎と順子の話を聞いて、女性はまだ不思議そうな顔をしていたが、小さく頷いた。
そして、ケーキの箱を両手で強く握りしめながら、彼女はぽつぽつと語り始めた。
「クリスマスの日、私は彼氏とレストランで一緒に食事をする予定だったんです。でも、約束の時間を過ぎても来なくて、連絡も無くて、レストランから出た後に、トイレの中でずっと泣いていました」
女性は一度言葉を切り、大きく息を吸い込んだ。
浩一郎と順子は、それを黙ったまま見守り、彼女が再び口を開くまで、じっと耳を澄ませていた。
「その後、どうやってこの店に入ったのかよく覚えていなかったんですが、いきなり現れた私にもお二人は優しくて、ケーキはとってもおいしくて……。こんな最悪なクリスマスの日でも、私にはケーキを素直に美味しいと思える心が残っていたんだなって思うと、もう一度頑張ろうという気持ちになれました」
生き生きと語る女性に対して、浩一郎は感慨深く頷いていた。
長年積んできた技術と、深い愛情を注いできたケーキが、誰かを元気づけることが出来た。パティシエにとって、これ以上ない幸せだった。
「あれから、その時の彼氏と別れて、今の夫と出会えて、結婚して、子供も生まれて……。たった五年で、色んな事が目まぐるしく変わっていきました。その新しい一歩目を踏み出すきっかけをくれたのは、ここのケーキだったと思います。ありがとうございます」
深々と頭を下げた女性が顔を上げると、順子が優しく語り掛けた。
「あなたがこの店の、最後のお客様で本当に良かったです。……これからが大変だと思うけど、体に気を付けてください」
「……はい」
女性は自身のお腹を擦りながら、力強い笑顔で頷いた。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
ドアを開けて店外へ出た女性に、浩一郎と順子は九十度のお辞儀をする。顔を上げても、女性の背中を、ずっと見送っていた。
デパート内の角を右に曲がる直前に、彼女が振り返り、小さく手を振った。浩一郎と順子も手を振り返しながら、最後の客が去っていくのを眺めていた。
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