第30話 花に嵐
桜が満開になったというニュースを聞くと、私は必ず向かう場所がある。
そうは言っても、大したものではない。家から二駅離れた町にある、土手沿いの桜並木だ。
今日は朗らかで、いい天気だった。空は青く、太陽は温かく、風は優しい。
平日なので人通りの少ない駅前を抜けて、ゆっくり目的地へと歩いていく。途中の自動販売機で、緑茶を買った。
ペットボトルをゆらゆら揺らしながら進んでいくと、橋を渡った向こうに桜並木が見えてきた。桜はすべて遊歩道の土手側に生えていて、次の橋まで約二キロ近く続いている。
ニュースの通り花は満開で、ぽつぽつそこを通る人の姿も見えた。
少し速足でコンクリートの何の変哲もない橋を渡る。真横では何台も車が風を切って通り過ぎていった。
桜並木の入り口、アスファルトから生えている進入禁止の金属の二本の白いポールの間に立ち、しばらく桜を眺めていた。
ほのかにピンク色の白い花びらが、時折吹く風にふわりふわりと落ちていく。
私は深呼吸を一つして、並木道を歩き始めた。出来るだけ桜に近い方へと寄り、空を見上げながら進む。
目指すのは、並木道の真ん中の辺り、川の方に向けて設置されたベンチだ。そこに座り、日が暮れるまで読書をする予定だった。
桜の花びらはまるで雨のように降り注いでいる。それらが服や髪の毛にくっついたり、肩から下げたトートバックに入ったりしていく。
私はその花びらをそのままにしていた。家に帰った後に、体についたものやトートバックをひっくり返して出てきた花びらを、もう一度集めるのが私の密かな楽しみでもあった。
そうして集めた花びらを、花瓶の中に浮かべたり、押し花にして栞を作ったりしている。
遊歩道は桜の花びらがいっぱいに敷き詰められていて、元のアスファルトの色が見えないほどだった。
一歩踏み出すだけで、足元に風が巻き起こり、桜の花びらが微かに舞い上がる。
川の方に目を向けると、水面に映った町の上にも、桜の花びらが浮かんでいた。ささやかな波によって、川下へと流されていく。
川のそばでは釣りをしている人や、犬を散歩させている人が見えたが、そのどちらもが川に浮かぶ花びらの行方を眺めているようだった。
私と同じように遊歩道を通る人々は、空を見上げながら歩いている。
青い空を覆い隠すように桜の木々は枝を広げて、満開の花を咲き誇っている。ずっと頭上で咲いている筈なのに、花の雄しべや雌しべ、がくから花弁が離れる瞬間まで観察できるほど近く感じる。
あまりの美しさに、私は感嘆の息を漏らす。いつまでも見ていたい気持ちになる。
世界中の木が桜になって、季節が春のままになったらと、馬鹿なことを考えてしまうほどだった。
ふと、前を見ると、私の擦れ違うように歩いてくる、二十歳前後と思しき二人の女性が目に入った。
外側を歩く女性は下を向いて、内側を歩く女性は上を向いていたけれど、どちらも何かを堪えているような不思議な表情をしていた。
私が彼女たちと横並びになった瞬間、内側の女性が口を開いた。
「いよいよ、明日、出発だね」
「うん……」
「駅まで見送るよ」
「ありがとう」
私ははっとして、振り返った。二人の女性の背中が、段々と遠ざかっていく。
私の足は勝手に止まっていた。桜の雨に打たれながら、寂しそうな苦しそうな彼女たちを目に焼き付けるかのように、見詰めていた。
さよならだけが人生だ。
ふと、頭の中に、そんな有名な一節が浮かんだ。
春の始まりと終わりの気配を、私は胸いっぱいに吸い込んだ。
時間は絶えず流れ続けて、桜の花は静かに散っていく。
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