第26話 顔のない羊たち


 大学生活最後の夏休み、僕は必要最低限の荷物をまとめて、ヨーロッパを回る旅に出た。

 飛行機でドイツに降りて、チェコとオーストリアを経由し、スイスに辿り着いた。その間、有名な観光地ではなく、地元民くらいしか立ち寄らないような生活感あふれる場所を、意図的に選んで進んだ。


 少し田舎の方、名前は分からないけどアルプスの山の麓をのんびり歩く。

 生い茂った緑と山の上に残る白い雪と、雲一つない澄んだ青空のコントラストが美しい。僕は綺麗な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


 僕の右手側には、白いペンキで塗られた木の柵が続いていた。何もいないが、向こう側は牧場になっているのかもしれない。

 なだらかな坂道を登っていると、からころと、ベルの鳴る音が前の方から聞こえてきた。何かいるのかもしれないと、僕は胸をときめかせながら、坂を走って登り切った。


 坂を下った先に、白いもこもこがいくつも動いているのが見えた。薄手のカーディガンを羽織った女性と、ボーダーコリーの姿も。

 羊がいる! と思った僕は、胸を躍らせながら、坂道を下りる。しかし、近付いてみると、この羊たちは、僕の見たことのある羊とは少し変わった姿をしていた。


 その羊は、毛は白いのに顔と耳が真っ黒だった。蹄と、足の一部が丸い膝当てをしたかのように黒くなっている。

 スイスにしかいない種類なのかなと思いながら近寄ってみると、その羊の黒い顔に目や口や鼻が無いように見えた。


 違和感を抱きながら、目の前で柵の間から顔を出して僕を見上げる羊たちを眺める。

 じいっと見詰めていても、顔のパーツはなくて、顔に穴が開いているかのように思えて、どこか不気味だった。


「こんにちは。旅をしているのですか?」

「あ、こんにちは。はい、日本から来ました」


 柵の内側にいる女性が、英語でそう話し掛けてきた。複雑な編み込みをしたプラチナブロンドを揺らしながら笑っている。

 僕は片言の英語で答えた。そして、もう一度羊を見る。


「変わった羊ですね」

「シュバルツナーゼという種類なんです。可愛いでしょ?」

「……まあ、可愛い、ですが……」


 僕は女性にそう言われて、言葉に詰まった。

 確かに、羊たちは見ず知らずの僕にも臆することなく、近付いてくるし顔を見ようとしてくる。人懐っこい性格なんだろう。


 しかし、僕には羊の顔が見えずに怖く感じる。

 小さい頃、目が笑っていない着ぐるみが苦手だったことを思い出した。


「顔が真っ黒ですね」

「ええ。顔から生える毛も黒いので、目まで隠れてしまっています」

「え、目だけ?」


 僕は、驚いて女性の方を見た。

 彼女は、何か可笑しなことを言った? というようにきょとんとしている。つまりは、彼女には羊の口や鼻が見えているということなのか。


 ふと、牧羊犬が女性の後ろの方で吠えるのが聞こえた。一匹の羊が、群れから離れていっているらしい。

 「あ、こら、駄目でしょ」彼女はそう言いながら、牧羊犬と羊の元へ急ぐ。


 もう一度、僕は羊と向かい合う。やはりその顔は真っ黒で、線とか毛とかが見えなくて、黒い絵の具で塗り潰したかのようで。

 手を、羊の顔へと、伸ばしてみる。自分の手なのに、知らないうちに震えていた。


 そして、僕の手は、しっかりと羊の顔に届いた。そう見えた。

 しかし、自分の手には何の感覚もない。穴に手を入れたかのようで、左右に振っても何も触れられなかった。


「え、」


 両足がふわりと浮かんだ。手は、羊の顔のさらに奥へと入っている。

 穴に落ちるように、僕の体は羊の顔へと、一瞬で吸い込まれた。







   ▢






 ……辺りは真っ暗だった。僕は、片手を上げたまま、頭を下にして、どこまでも落ちていく。


 ――終わりがない。どこまで行っても、底がない。


 ――いや、終わりはないものなのかもしれない。


 ――僕の旅のように。


 ――そもそも、僕はどうして旅に出たのだったけ?


 ――特に理由はなかったんだ。


 ――内定も貰えて、卒業論文もスムーズに進んでいる。


 ――不満なんてどこにもない。


 ――ただ、靄のような不安だけが、ずっと付きまとっている。


 ――それを振り払いたくて旅に出たんだ。


 ――でも、旅でその答えを得ることは出来ないのだと、僕は密かに気付いていた。


 ――ずっとずっと、悩むことを先延ばしにしていただけだった。


 ――僕に必要だったのは、自分探しの旅ではなく―――







   ▢






「……もしもし? 大丈夫ですか?」


 英語で僕のことを呼ぶ女性の声がする。

 その後ろで、犬が吠える声と、遠くの方で羊の鳴き声とベルの音も。


 むせかえるような草と土の匂いを嗅ぎながら、僕は目を開けた。

 顔は右を向いているようで、左目は地面を、右目は僕を心配そうに覗き込む羊飼いの女性の顔を眺めていた。


 僕と目があった彼女は、少しだけほっとした顔になった。


「良かった、意識は戻ったみたいですね。立てますか?」

「……あ、はい、大丈夫です」


 僕は、なんだか夢から覚めたばかりのようなすっきりとした心持ちで、仰向けになった体勢から立ち上がる。そうして気付いたが、僕はいつの間にか柵の内側に入ってしまっていた。

 彼女が手を貸そうとしてくれたが、それが無くてもふらつくことはなかった。両足で、しっかり地面を踏みしめている感覚がする。


「僕は、どれくらい気を失っていましたか?」

「すみません、その瞬間は見ていないのです。私もビートが吠えているのに気付いて駆け寄ったので。でも、呼びかけてすぐに目を開けました」


 そうですかと小声で言いながら、服のあちこちに付いた草を払った。

 彼女が言っているビートというのは、牧羊犬のことだろうと見当はついた。


「あの、体の方は大丈夫ですか?」

「あ、はい、ただの貧血だったみたいで、もう何ともありません」


 まだ少し心配そうな彼女に、僕はそう言って笑いかける余裕が出来ていた。

ふと、服の裾が何かに引っ張られていて、僕は後ろを振り返った。


 見るとそれは一匹の子羊で、今は僕のことを見上げている。

 その真っ黒な顔の中の、つぶらな瞳と目が合った。


「……ただ長旅で、疲れているのかもしれませんね」

「この道を真っ直ぐ進んだら、村がありますよ。ホテルもあるので、そこでゆっくり休んでください」


 優しくそう教えてくれた彼女に、ありがとうございますと頭を下げた。

 そして彼女は、先程指差した方向とは反対側へと歩き始めた。その後を牧羊犬が、少し間を置いて顔の良くわかる羊たちが追っていく。


 澄んだ青色と荘厳な山々へ向かって進むその背中と、揺れているいくつもの白い尻尾を眺めながら、僕は――僕は、この旅の終わりを感じていた。








































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