第25話 ナウマンゾウ事務所
その日も、僕はいつものように階段をのぼって出社した。古びた雑居ビルの四階が、僕の勤務地である事務所だ。
真四角の窓がはめられた鉄製のドアのノブを握って、大きく開けた。
「おはようございます」
「おはよう」
所長はいつも通りに、僕より早く出勤していて、すでに机に座り仕事を始めていた。
長めのポニーテールの所長は、白い指でボールペンを持ち、紙に文字を連ねている。切れ長の目は少しきつめの印象を与えるが、所長はとても美しい女性だと個人的には思っている。
「今日中に受注された分、さっさと終わらせろよ。それまで休憩はないと思え」
「……分かりました」
ただ、言葉遣いが悪くて威圧感のある声をしているが。
今のも、僕の方は一切見ずに淡々と、機械のように指示していた。
僕も僕で、こういう扱いにはもう慣れているので、ただ頷いて所長の前の自分の机に座ろうと、事務用の車輪付きの椅子を引く。
それに腰掛けようとした直後、僕の視界の端で何かが動いたような気がして、顔を上げた。
所長の背後、事務所の右の角の方に、茶色い毛の生えた象がいた。
大きさは天井に届かないが、二メートル近くはありそうだ。口元には立派な牙が生え、なんだか退屈そうに長い鼻を揺らしている。
「しょ、所長!」
「なんだ騒々しい」
「象がいますよ!」
「ああ」
所長はあまり興味なさそうに、僕の指差す象を眺めた。
「あれはナウマンゾウだ」
「え? ナウマンゾウ?」
僕はまじまじと、事務所内の象を観察する。
確かに、毛のある象は見たことが無いが、ナウマンゾウと言われても違和感がある。
「本当にナウマンゾウですか?」
「あの大きさでは、マンモスじゃあないだろ」
「ナウマンゾウももうちょっと大きいと思います」
「なんだ、お前、ナウマンゾウを見たことあるのか!」
「いえ、見たことありませんが……」
「ならば根拠のないことを言うな」
「すみません」
所長に叱られて、僕は素直に頭を下げ、やっと席に着いた。
そして、すぐに大事なことを訊き忘れていたことに気付く。
「そもそも、なんでナウマンゾウがここにいるのですか」
「ふむ……」
突然ぴたりとボールペンを動かす手を止めた所長は、真剣な顔で僕を見詰めた。
「……それは、去年の冬のことだった……」
所長はそう語り始める。
窓は閉め切っている筈なのに、所長のポニーテールが粉雪交じりの横風になびいているような気がする。
「あの、すみません」
「なんだ、まだ話途中だが」
「簡潔にお願いします」
何やら大河ドラマ張りの長話を聞かされそうな気がしたので、所長にはきちんとそう断っておいた。
すると所長は、「せっかく雰囲気を作ったというのに」とかなんとかぶつぶつ呟きながら椅子を座り直し、もう一度真っ直ぐ僕を見た。
「昨日、拾った」
「…………えっ?」
所長は一言はっきりと口にした後、何でもないように仕事の続きに戻ったので、僕はしばらく説明が終わったことに気が付かなかった。
「ちょっと待ってください、今ので全部ですか?」
「ああ。簡潔にまとめると、そうなる」
僕のオーバーリアクション気味の手ぶりにも一切顔を上げずに、所長は淡々と仕事をしている。
僕はこうなった以上、所長に何を言っても無駄だと分かっていたので、机の上に紙を広げて、仕事を始めた。
「……そう言えば、」
こうして三十分くらい仕事をしていたころだろうか。不意に所長がそう呟いた。
所長がペンを走らせる音が聞こえているので、たいしたことではないだろうと思い、僕も顔は紙に向けたまま、返事をする。
「どうしましたか」
「ここの事務所の名前、ナウマンゾウ事務所にするから」
「……えっ!?」
聞き捨てならない所長の一言に、また僕は顔を上げた。
一方所長は、自分の机の引き出しを何やら探っている。そして取り出したのは、「ナウマンゾウ事務所」と書かれた横に細長い紙だった。
「ほら、看板も作ったんだ。外のも新しく発注した」
「いや、なんでまた名前を変えようと……」
「きっと、ナウマンゾウがいる事務所は少ないと思うんだ」
「少ないというか、ここだけですよ、絶対」
「だから、それをもっと主張していかないと」
「ナウマンゾウがいる事務所に、どんな需要があるのですか……」
「それに、よく言うだろ? 思い立ったら吉日だって」
「石橋をたたいて渡れ、とも言いますよ?」
所長は右手をガッツポーズにして言った。持っていた紙の右側が、ペロンと丸くなる。
僕は深々と溜息を吐いた。所長とは長い付き合いのはずだが、彼女の言動が突飛すぎて、未だに予測が付かない。
もう何も気にせずに、普通に仕事をしていこうと思っていた直後、今度はナウマンゾウのいる方から何やらガサゴソという音が聞こえてきた。
首を伸ばして確認すると、ナウマンゾウが右角にいつも置かれている、名前を知らない観葉植物の木の葉っぱを食べている所だった。それを見て、僕は「あっ!」と声が出た。
「所長、大変です! ナウマンゾウが、観葉植物を食べています」
「ん……、ああ、そりゃそうだな」
所長は僕が指差した先を見て、妙にのんびりと、当たり前のことのように言った。
「まだお前が餌を上げていないからな」
「……はい?」
これまで、様々な衝撃を受けてきたが、頭が真っ白になったのは初めてだった。
「ちょっと待ってください、僕がナウマンゾウの世話係なんですか?」
「お前以外に誰がいるんだ」
所長が何の感情も込めずにさらっというので、真っ白になった頭が今度は痛くなってきた。
そして、少女漫画のセリフのような言葉が口を突いて出る。
「所長は、僕よりもナウマンゾウの方が大切なんですね」
「そう言われてもな。もう看板注文しちゃったし」
「……そうでしたね」
もう諦めるしかなさそうだと観念した丁度その時、外の駐車場に「ナウマンゾウ事務所」という立て看板を乗せたトラックが止まった。
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