第22話 今夜はホットチョコレート
電気を落としてカーテンも閉めた部屋の中で、明かりは机の上にあるスタンドと液タブの液晶画面だけだった。
私はタッチペンを持って、すらすらと液タブの画面に絵を描いていた。
いや、すらすらというのは言い過ぎというか理想で、描いたり消したり、何分も止まったままになってしまったりしている。
描いているのは、私の日常生活を描いたコミックエッセイである。
漫画が好きで少し絵が得意だということ以外は殆ど平凡なOLの私の生活がこうして読まれているのは、全て一緒に暮らしている恋人のお陰なのだろう。
彼は普通の人間じゃない、透明人間だった。
カフェで働く彼と出会い、そこに通い詰める内に惹かれあい、付き合って同棲するようになったとだけ書けば、普通の恋人の話のようだが、その間には一般的ではない苦労があった。例えば、彼に告白された時、表情が分からなくて最初は冗談だと思ってしまった話とか。
それらを漫画にしてSNSに投稿したら、思った以上に好評で、有難いことに雑誌での連載の話をいただいた。今では仕事の後にこうして漫画を描くのが日課になっている。
締め切りはまだ先だけれど、もしもの事が起きた時を視野に入れて、今夜も夜遅くまで描いていた。
最近は寒い日が続いているし、夜更かしするのも辛くなってきた。
後ろでヒーターが頑張ってくれているが、それでも足りなくて私は半纏に室内でもマフラーを巻いていた。
でも明日も仕事があるし、このページの下書きの線をなぞるまでやっておこうと決めた時に、後ろのドアがノックされた。
どうしたのだろうと振り返ると、「差し入れ持ってきたけれど、大丈夫?」とドアの向こうから恋人の声が聞こえてきた。
「ちょっと待ってて」と断りを入れて、好きなアニメのジャズのサントラを止めて、ヘッドホンを外す。
それから、毛糸でもこもこの靴下を履いた足にスリッパを履く。氷の上のように冷えた床の上も、これでやっと歩けるようになる。
ガチャリとドアを開けると、その先に彼が立っていた。包帯をぐるぐる巻きにした顔と頭に、色の薄いサングラスを掛けている。
手袋をはめた両手で、温かい湯気を上げているマグカップの載ったお盆を持っていた。
彼は普段通りにしようとしているけれど、どこか照れくさそうに足元がもじもじしているのが、表情が見えなくても分かる。
一体どうしたのだろうと観察していると、彼が包帯で覆われた口をもぞもぞと動かした。
「みーさんお疲れさま。今夜はホットチョコレートを入れてみたよ」
「あ、ほんとに? ありがとう」
私は喜んでそのお盆を受け取る。けれど、差し入れはいつもココアで、ホットチョコレートは初めてだった。
自分でカフェを営むのが夢である彼は、本当はコーヒーを入れるのが一番得意なのだが、夜遅い時間にカフェインを取りたくない私の為に、ココアを入れてくれるのが日課になりつつあった。
「それから……」
ドアを半分閉めながら、急に気恥しそうに彼が切り出した。少し聞き取りずらい彼の声に、私は耳を澄ませる。
「いつもありがとうね」
「へっ?」
突然のお礼に、間の抜けた声の出た私を置いて、彼はドアを閉めてしまった。
一体どうしたのだろうと、首を捻りながら机に戻る。私の誕生日はまだだし、付き合った記念日でもない。
そう考えながら、ふと机の上のカレンダー付きの時計を見ると、二月十四日の二十四時一分を差していた。
その瞬間、あっと思う。ホットチョコレートを持ってきてくれた理由もはっきり分かった。
ちくしょう、心憎いことしてくれるじゃないか。顔が勝手ににやけてくるのを抑えながら、元いた椅子に座る。
これは必ず漫画にしてやるからなと思いながら、右手の指をマグカップの取っ手に入れて、お盆を邪魔にならない所に置く。
温かいマグカップを両手で包み込むように持ちながら、三回ほど息を吹きかけて表面を冷ました。そして、甘ったるいチョコレートに口を付けて、ごくりと飲み込んだ。
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