第21話 噂の検証
試験終了後、俺は他の受験生たちと一緒に、会場の大学校舎から外に出た。二月の寒空の下、一度立ち止まって大きく伸びをする。
今はもう、人事尽くして天命を待つという状態だったが、正直手応えがあった。地元で連絡を待っている恋人に、自信があるという内容のメールを打つ。
さて、一安心したところで、俺は大学の門を出て、そのまま近くの地下鉄乗り場へ早足で進む。
目指すは三軒茶屋に建つ、一軒の老舗デパートだ。
俺には、この上京に受験とは別の目的を密かに抱いていた。
それは、三軒茶屋のデパートに、口裂け女が出るという噂を検証するというものだった。
こんな話、きっと誰も信じないだろう。同じオカルト部の後輩たちしか聞いてもらえない。それでも、信じるかどうかは分からない。
しかし、都市伝説や妖怪伝説が大好きで、大学では民俗学部に入ろうと思っていた俺にとっては、とにかくこの目で確かめたい噂であった。
しかも、口裂け女、だ。なんて素晴らしい響きなんだろう。
名前をそのまま表している風貌。マスクの下の口を見せつけて、「綺麗じゃない」と答えた子供に襲い掛かるというシンプルさ。流行ったのは四十年ほど前だが、現在でも都市伝説の代名詞となっている知名度。俺の都市伝説ハンターとしての第一歩としては、最高の相手だ。
……いや、ハンターと言っても、実際に捕まえるわけじゃないんだが。それ以前に都市伝説ハンターって何だ。
ふと冷静になって、自分自身にツッコミを入れるまで、俺は浮足立っていた。電車の中で、席に座ったまま「今も残る都市伝説」の本を広げたまま、にやにや笑っている俺の姿は、さぞかし気持ち悪かっただろう。
□
三軒茶屋のデパートの婦人服売り場に、いつも必ずマスクをしている女性店員がいる。さらに、デパートの外では白いコートを着て歩いている姿もよく見られているという。
マスク、白いコート、さらに「三」がつく地名に出没する……これらはすべて、口裂け女の特徴だった。
地下鉄乗り場から出て、しばらく歩いたところに、目的のデパートがあった。見た目では何の変哲もないデパートである。
中も普通で、買い物客がぽつぽつ見えるくらいだった。
インフォメーションセンターのデパート内図によると、婦人服売り場は二階にあるようだ。
これほど大きな店に入るのは初めてだったから、少し迷いながらもエレベーターを見つけて、上へ向かった。
二階の、少し奥まったところに婦人服売り場があった。女性の買い物客に交じって、辺りを観察する。
レジに女性店員が一人立っていたが、小柄で丸顔で、髪も茶色のショートカットで、そもそもマスクをしていないため、口裂け女ではないようだった。
今日は出勤していないのだろうか。それとも、噂はガセだったのか……。
俺は足を止めて、深いため息をついた。
「何かお探しですか?」
その時、女性に後ろから声をかけられて、慌てて振り返る。
目に映ったのは、白くて、顔の殆どを覆い隠すほどの大きなマスクをした、女性店員だった。
相手の美しい目元と、長い黒髪を見て確信する。彼女が口裂け女だ。
しかし、いざ目の前にしてみると、どうすればいいのか分からなくなる。急激に喉が渇いてきた。
「実は、何か彼女に東京土産を送りたいと思っていまして……」
不自然に思われないように笑顔を浮かべながら、前もって用意していた言い訳を口にする。
目の前の店員はあっさり信じてくれたようで、「それなら、何か小物などはいかがですか?」と提案して、売り場へと案内してくれた。
そこは、ブランドものではないハンカチや帽子などが置いてあるコーナーで、値段もあまり高いものではないが、一見安っぽくも見えない商品が並べられていた。
俺の年齢を見て、これくらいなら手が届くのだろうと判断されたのだろうか。デパート店員としての腕は確かにあるのだろう。
「彼女さんは、どんなものが好みですか?」
「そうですね。花柄とか、青色とか、よく身に着けています」
店員と適当に話しながら、俺は周囲を確認する。
俺たちの他に、別の客や店員は見当たらない。
「こちらはいかがですか?」
「ああ、いいですね」
店員から手渡された、青地に白いコスモスが描かれたハンカチを手にして、少し悩むようなふりをする。その隙に、一瞬だけ店員の姿を盗み見る。
俺から、口裂け女ではないかと疑われているなんて微塵も思っていない様子で、店員の目元はにこにこと笑っていた。
それを見ていると、こちらの気概が無くなっていくが、さらに決意を固めて、俺は口を開く。
「ところで……」
あなたは口裂け女ですか?
……心の中では、そう言い切ることは出来た。あくまで心の中では。
「……他の色はありますか?」
「はい。こちらにあります」
店員は、そう言って棚のある場所を示してくれた。
「ああ、これもいいですねー」
俺は気の抜けた返事をしながら、内心では一体何をしているんだと自分を厳しく叱責した。
このアホ! 腰抜け! いくじなし! と叫んでも、もう一度彼女に質問をぶつける勇気が出ない。
あの時、もしも、目の前の女性が、ただ単純に風邪か何かでマスクをしているだけだったなら、「口裂け女ですか?」と聞くのはすごく失礼ではないかという恐れが、頭をよぎってしまい、何も言えなかった。
面白いことを言いますねと返してくれればいいのだが、下手すれば警備員を呼ばれるのかもしれない。
本物の口裂け女に会うことは、別に怖くもなんともない。むしろ、今でもマスクの下の裂けた口を見たいくらいだ。
それが俺の見る最期の光景になっても――後悔はあるが、それも受け入れるつもりだった。
しかし、いざとなると、俺の前に立ちはだかるのは、怖れではなく常識だった。
漫画の中の民俗学者や妖怪ハンターや陰陽師は、空気を読まずに意表を突くことをどんどん行うのだが、まだ俺にはその覚悟が無かったようだ。
今日は、青色のハンカチを選んで、最後まで付き合ってくれた店員に「ありがとうございます」と頭を下げた。
もちろんその際、彼女の名札が「高口」と書かれていることをしっかり確認する。
もしも志望校に合格したら、このデパートに通い詰めて、口裂け女の正体を暴いてやるからな! と強く脳内で宣言して、彼女へのプレゼント用に包まれたハンカチを持ったままデパートを出た。
……この話を後輩たちにしたら、偉そうなこと言って、結局何もしてないじゃないか! と酷くなじられてしまいそうな気がするが、今日はこれで満足するとしよう。
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